동양고전종합DB

毛詩正義(1)

모시정의(1)

출력 공유하기

페이스북

트위터

카카오톡

URL 오류신고
모시정의(1) 목차 메뉴 열기 메뉴 닫기
【序】關雎 后妃之德也
后妃 爾雅云 妃 姬也 對也라하고 左傳云 嘉耦曰妃라하며 禮記云 天子之妃曰后라하다
之德也 舊說云 起此 至用之邦國焉 名關雎序 謂之小序 自風風也 訖末 名爲大序
云 案鄭詩譜意하니 大序是子夏作이요 小序是子夏․毛公合作이라 卜商意有不盡하여 毛更足成之라한대
或云 小序是東海所作이라하다 今謂此序止是關雎之序 總論詩之綱領하니 無大小之異
解見詩義序 竝是鄭注로대 所以無箋云者 以無所疑亂故也
【疏】‘關雎 后妃之德也’
○正義曰:諸序, 皆一篇之義, 但詩理深廣, 此爲篇端, 故以詩之大綱, 竝擧於此.
今分爲十五節, 當節自解次第, 於此不復煩文. 作關雎詩者, 言后妃之德也.
曲禮曰 “天子之妃曰后.” 注云 “后之言後也.” 執理內事, 在夫之後也. 釋詁云 “妃, 媲也.” 言媲匹於夫也.
天子之妻, 唯稱后耳. 妃則上下通名, 故以妃配后而言之. 德者, 得也, 自得於身, 人行之總名.
此篇, 言后妃性行和諧, 貞專化下, 寤寐求賢, 供奉職事, 是后妃之德也.
【疏】二南之風, 實文王之化, 而美后妃之德者, 以夫婦之性, 人倫之重, 故夫婦正, 則父子親, 父子親, 則君臣敬,
是以詩者, 歌其性情. 陰陽爲重, 所以詩之爲體, 多序男女之事.
不言美后妃者, 此詩之作, 直是感其德澤, 歌其性行, 欲以發揚聖化, 示語未知, 非是褒賞后妃能爲此行也.
正經, 例不言美, 皆此意也. 其變詩, 則政敎已失, 爲惡者多, 苟能爲善, 則賞其善事.
, 始見憂國之心, , 方知求雨之切, 意與正經有異, 故序每篇言美也.
【序】風之始也 所以風天下而正夫婦也 故用之鄕人焉하고 用之邦國焉이라
○風之始 此風 謂十五國風이니 風是諸侯政敎也 下云所以風天下 論語云君子之德風으로 竝是此義
所以風 徐福風反이나 今不用이라
【疏】‘風之’至‘國焉’
○正義曰:序以后妃樂得淑女, 不淫其色, 家人之細事耳, 而編於詩首, 用爲歌樂,
故於后妃德下, 卽申明此意, 言后妃之有美德, 文王風化之始也.
言文王行化, 始於其妻, 故用此爲風敎之始, 所以風化天下之民, 而使之皆正夫婦焉.
周公製禮作樂, 用之鄕人焉, 令鄕大夫, 以之敎其民也. 又用之邦國焉, 令天下諸侯, 以之敎其臣也.
欲使天子至於庶民, 悉知此詩皆正夫婦也. 故鄭譜云‘天子諸侯, 燕其群臣, 皆歌, 合鄕樂’是也.
【疏】儀禮鄕飮酒禮者, 鄕大夫三年賓賢能之禮, 其經云 “乃合樂周南關雎” 是用之鄕人也.
者, 諸侯飮燕其臣子, 及賓客之禮, 其經云 “遂歌鄕樂周南關雎” 是用之邦國也.
施化之法, 自上而下, 當天子敎諸侯, 敎大夫, 大夫敎其民.
今此先言風天下而正夫婦焉, 旣言化及於民, 遂從民而廣之, 故先鄕人而後邦國也.
“脩之家, 其德乃餘. 脩之邦, 其德乃豐. 脩之天下, 其德乃普.” 亦自狹至廣, 與此同意也.
【序】風 風也 敎也 風以動之하고 敎以化之
○風風也 竝如字 徐上如字하고 下福鳳反이라 集注本 下卽作諷字
云 動物曰風이요 託音曰諷이라하고 崔云 用風感物 則謂之諷이라하고
沈云 上風是國風이니 卽詩之六義也 下風卽是鼓動之風이니 君上風敎하여 能鼓動萬物 如風之偃草也라하니 今從沈說이라
風以動之 如字 沈云 謂自下剌上하여 感動之名이니 變風也라하되 今不用이라
【疏】‘風 風’至‘化之’
○正義曰:上言風之始, 謂敎天下之始也. 序又解名, 敎爲風之意, 風訓諷也敎也.
諷謂微加曉告, 敎謂殷勤誨示. 諷之與敎, 始末之異名耳.
言王者施化, 先依違諷諭以動之, 民漸開悟, 乃後明敎命以化之. 風之所吹, 無物不扇, 化之所被, 無往不沾, 故取名焉.
【序】詩者 志之所之也 在心爲志 發言爲詩
【疏】‘詩者’至‘爲詩’
○正義曰:上言用詩以敎, 此又解作詩所由. 詩者, 人志意之所之適也.
雖有所適, 猶未發口, 蘊藏在心, 謂之爲志. 發見於言, 乃名爲詩.
言作詩者, 所以舒心志憤懣, 而卒成於歌詠, 故虞書謂之‘詩言志’也.
包管萬慮, 其名曰心, 感物而動, 乃呼爲志.
志之所適, 外物感焉, 言悅豫之志, 則和樂興而頌聲作, 憂愁之志, 則哀傷起而怨刺生.
藝文志云 “哀樂之情感, 歌詠之聲發” 此之謂也. 正經與變, 同名曰詩, 以其俱是志之所之故也.
【序】情動於中而形於言하되 言之不足이라 故嗟歎之하고 嗟歎之不足이라 故永歌之하고 永歌之不足이라 不知手之舞之足之蹈之也
○嗟 咨嗟也 本亦作嘆하니 歎息也 動足履地也
【疏】序‘情動’至‘蹈之’
○正義曰:上云 ‘發言爲詩’, 辨詩志之異, 而直言者非詩, 故更序詩必長歌之意.
情謂哀樂之情, 中謂中心, 言哀樂之情, 動於心志之中, 出口而形見於言.
初言之時, 直平言之耳. 平言之而意不足, 嫌其言未申志, 故咨嗟歎息, 以和續之.
嗟歎之, 猶嫌不足, 故長引聲而歌之. 長歌之, 猶嫌不足, 忽然不知手之舞之足之蹈之.
言身爲心使, 不自覺知擧手而舞身, 動足而蹈地, 如是而後, 得舒心腹之憤, 故爲詩必長歌也.
聖王以人情之如是, 故用詩於樂, 使人歌詠其聲, 象其吟詠之辭也. 舞動其容, 象其舞蹈之形也. 具象哀樂之形, 然後得盡其心術焉.
‘情動於中’, 還是‘在心爲志’, 而‘形於言’, 還是‘發言爲詩’, 上辨詩從志出, 此言爲詩必歌, 故重其文也.
【疏】定本 ‘言之不足故嗟歎之’, 俗本 ‘言之’下, 有‘者’字, 誤也. 定本 ‘永歌之不足’下, 無‘故’字, 有‘故’字者, 亦誤也.
樂記云 “歌之爲言也, 長言之也. 說之, 故言之, 言之不足, 故長言之,
長言之不足, 故嗟歎之, 嗟歎之不足, 故不知手之舞之足之蹈之.” 其文與此經略同.
‘說之故言之’, 謂說前事, 言出於口, 與此‘情動形言’一也.
虞書曰 “歌永言.” 注云 “歌所以長言詩之意.” 是永歌․長言爲一事也.
樂記注云 “嗟歎, 和續之也.” 謂發言之後, 咨嗟歎息爲聲, 以和其言而繼續之也.
樂記先言長言之, 乃云嗟歎之, 此先云嗟歎之, 乃云永歌之. 直言旣已嗟歎, 長歌又復嗟歎, 彼此各言其一, 故不同也.
藝文志云 “誦其言, 謂之詩, 詠其聲, 謂之歌.” 然則在心爲志, 出口爲言,
誦言爲詩, 詠聲爲歌, 播於, 謂之爲樂, 皆始末之異名耳.
【序】情發於聲하여 聲成文 謂之音이라
【箋】發 猶見也 謂宮商角徵羽也 聲成文者 宮商上下相應이라
○應 應對之應이니 下注同이라
【疏】序‘情發於’至‘之音’
○正義曰:情發於聲, 謂人哀樂之情, 發見於言語之聲, 於時雖言哀樂之事, 未有宮商之調, 唯是聲耳.
至於作詩之時, 則次序淸濁, 節奏高下, 使五聲爲曲, 似五色成文, 一人之身, 則能如此.
據其成文之響, 卽是爲音. 此音被諸弦管, 乃名爲樂, 雖在人在器, 皆得爲音.
下云‘治世之音’謂樂音, 則此‘聲成文謂之音’ 亦謂樂之音也.
原夫作樂之始, 樂寫人音, 人音有小大高下之殊, 樂器有宮徵商羽之異, 依人音而製樂, 託樂器以寫人,
是樂本效人, 非人效樂. 但樂曲旣定, 規矩先成, 後人作詩, 謨摩舊法, 此聲成文謂之音.
【疏】若據樂初之時, 則人能成文, 始入於樂. 若據制樂之後, 則人之作詩, 先須成樂之文, 乃成爲音.
聲能寫情, 情皆可見. 聽音而知治亂, 觀樂而曉盛衰, 故.
設有言而非志, 謂之矯情, 情見於聲, 矯亦可識.
若夫取彼素絲, 織爲綺縠, 或色美而材薄, 或文惡而質良, 唯善賈者別之.
取彼歌謠, 播爲音樂, 或辭是而意非, 或言邪而志正, 唯達樂者曉之.
【疏】樂記曰 “其哀心感者, 其聲噍以殺, 其樂心感者, 其聲發以散.” 是情之所感, 入於樂也.
季札見歌唐曰 “思深哉, 其有陶唐氏之遺民乎.” 是樂之聲音, 得其情也.
若徒取辭賦, 不達音聲, 則身爲桀紂之行, 口出堯舜之辭, 不可得而知也.
是以楚茨․大田之徒, 竝陳成王之善, 行露․汝墳之篇, 皆述紂時之惡.
爲王者之風, 爲剌過之雅, 大師曉其作意, 知其本情故也.
【疏】箋‘發猶’至‘相應’
○正義曰:春官大師職云 “文之以五聲, 宮商角徵羽.” 是聲必有五, 故引五聲之名以解之.
五聲之配五方也, 於月令, “角東․商西․徵南․羽北․宮在中央.” 立名還以其方爲義.
漢書律歷志云 “商之爲言, 章也, 物成熟可章度也. 角, 觸也, 物觸地而出, 戴芒角也.
宮, 中也, 居中央, 暢四方, 唱始施生, 爲四聲之綱也. 徵, 祉也, 物盛大而蕃祉也. 羽, 宇也, 物聚藏, 宇覆之也.”
又云 “宮爲君.” 君是陽, 陽數極於九, 故宮數八十一. 三分去一以生徵, 徵數五十四.
三分益一以生商, 商數七十二. 三分去一以生羽, 羽數四十八. 三分益一以生角, 角數六十四.
【疏】樂記云 “聲相應, 故生變, 變成方, 謂之音.” 注云 “方, 猶文章也.” “樂之器, 彈其宮, 則衆宮應, 然不足樂, 是以變之使雜也.”
引昭二十年左傳曰 “若以水濟水, 誰能食之, 若琴瑟之專壹, 誰能聽之.” 是解聲必須雜之意也. 此言‘聲成文謂之音’, 則聲與音別.
樂記注 “雜比曰音, 單出曰聲.” 記又云 “審聲以知音, 審音以知樂.” 則聲․音․樂三者, 不同矣.
以聲變乃成音, 音和乃成樂, 故別爲三名. .
季札見歌秦曰 “此之謂夏聲.” 公羊傳云 “, 頌聲作.” 聲卽音也.
下云‘治世之音’, 音卽樂也. 是聲與音, 樂名得相通也.
【疏】樂記, 子夏對魏文侯云 “君之所問者樂也. 所好者音也. 夫樂者, 與音相近而不同.” 又以音樂爲異者.
以文侯幷問古樂新樂, 二者同呼爲樂, 謂其樂音同也.
子夏以古樂, 順於民而當於神, 與天下同樂, 故定爲樂, 名新樂, 淫於色而害於德, 直申說其音而已.
故變言溺音, 以曉文侯耳, 音樂非爲異也.
樂記云 “淫樂慝禮”, 子夏亦云 ‘古樂之發’․‘新樂之發’, 是鄭衛之音, 亦爲樂也.
【序】治世之音 安以樂하니 其政和 亂世之音 怨以怒하니 其政乖 亡國之音 哀以思하니 其民困이라
【疏】‘治世’至‘民困’
○正義曰:序旣云 ‘情見於聲’, 又言‘聲隨世變’, 治世之音, 旣安又以懽樂者, 由其政敎和睦故也.
亂世之音, 旣怨又以恚怒者, 由其政敎乖戾故也. 亡國之音, 旣哀又以愁思者, 由其民之困苦故也.
樂記云 “其哀心感者, 其聲噍以殺, 其樂心感者, 其聲嘽以緩.” 彼說樂音之中, 兼有二事, 此安以樂怨以怒, 亦與彼同.
治世之政敎, 和順民心, 民安其化, 所以喜樂. 述其安樂之心而作歌, 故治世之音, 亦安以樂也.
云 “百室盈止, 婦子寧止.” 安之極也. 云 “厭厭夜飮, 不醉無歸.” 樂之至也.
云 “民之質矣, 日用飮食.” 是其政和也.
【疏】亂世之政敎, 與民心乖戾, 民怨其政敎, 所以忿怒. 述其怨怒之心而作歌, 故亂世之音, 亦怨以怒也.
云 “民莫不穀, 我獨何害” 怨之至也. 云 “取彼譖人, 投畀豺虎” 怒之甚也.
云 “徹我墻屋, 田卒汙萊” 是其政乖也. 國將滅亡, 民遭困厄, 哀傷己身, 思慕明世.
述其哀思之心而作歌, 故亡國之音, 亦哀以思也.
云 “知我如此, 不如無生” 哀之甚也. 云 “睠言顧之, 潸焉出涕” 思之篤也.
云 “民今之無祿, 天夭是椓” 是其民困也.
詩述民志, 樂歌民詩, 故時政善惡見於音也.
【疏】治世, 謂天下和平, 亂世, 謂兵革不息, 亡國, 謂國之將亡也.
亂世, 謂世亂而國存, 故以世言之, 亡國, 則國亡而世絶, 故不言世也.
亂世言政, 亡國不言政者, 民困必政暴, 擧其民困爲甚辭, 故不言政也.
亡國者, 國實未亡, 觀其歌詠, 知其必亡, 故謂之亡國耳, 非已亡也. 若其已亡, 則無復作詩, 不得有亡國之音.
此云亂世亡國者, 謂賢人君子, 聽其樂音, 知其亡亂, 故謂之亂世之音亡國之音.
樂記所云 “鄭衛之音, 亂世之音. 之音, 亡國之音” 與此異也.
淫恣之人, 肆於民上, 滿志縱欲, 甘酒嗜音, 作爲新聲, 以自娛樂, 其音皆樂而爲之, 無哀怨也.
【疏】樂記云 “樂者, 樂也, 君子樂得其道, 小人樂得其欲” 彼樂得其欲, 所以謂之淫樂,
爲此樂者, 必亂必亡, 故亦謂之亂世之音亡國之音耳, 與此不得同也.
若然, 此二者, 言哀樂出于民情, 樂音從民而變, 乃是人能變樂, 非樂能變人.
案樂記稱 “人心感於物而後動, 先王愼所以感之者, 故作樂以和其聲. 樂之感人深, 其移風易俗”
又云 “志微噍殺之音作, 而民思憂, 廉直莊誠之音作, 而民肅敬, 寬裕順成之音作, 而民慈愛, 流僻邪散之音作, 而民淫亂.”
如彼文, 又是樂能變人, 樂由王者所制, 民逐樂音而變.
此言民能變樂, 彼言樂能變人者, 但兆民旣衆, 賢愚不等, 以賢哲歌謠采詩定樂,
以賢者所樂, 敎愚者爲樂. 取智者之心, 變不智者之心, 制禮之事, 亦猶是也.
【疏】禮者, 稱人之情而爲之節文, 賢者俯而就之, 不肖者企而及之, 是下民之所行, 非聖人之所行也.
聖王亦取賢行以敎不賢, 擧得中以裁不中.
禮記問喪稱 “禮者, 非從天降, 非從地出, 人情而已矣.” 是禮之本意, 出於民也.
樂記又曰 “凡音之起, 由人心生也. 樂者, 樂其所自生.” 是樂之本意, 出於民也.
樂記又曰 “夫物之感人無窮, 而人之好惡無節, 則是物至而人化物也. 人化物也者, 則滅天理而窮人欲者也.
於是, 有悖逆詐僞之心, 有淫佚作亂之事, 故先王制禮作樂爲之節.” 是王者采民情, 制禮樂之意.
禮樂本出於民, 還以敎民, 與夫雲出於山, 復雨其山, 火生於木, 反焚其木, 復何異哉.
【序】故 正得失하고 動天地하며 感鬼神 莫近於詩
【箋】○正得失 云 正齊人之得失也라하고 本又作政하여 謂政敎也라하니 兩通이라
【疏】‘故正’至‘於詩’
○正義曰:上言播詩於音, 音從政變, 政之善惡, 皆在於詩, 故又言詩之功德也.
由詩爲樂章之故, 正人得失之行, 變動天地之靈, 感致鬼神之意, 無有近於詩者. 言詩最近之, 餘事莫之先也.
公羊傳, 說春秋功德云 “撥亂世, 反諸正, 莫近諸春秋.” 云 “莫近, 猶莫過之也.”
詩之道, 所以能有此三事者, 詩者志之所歌, 歌者人之精誠, 精誠之至, 以類相感.
詩人陳得失之事, 以爲勸戒, 令人行善不行惡, 使失者皆得是詩, 能正得失也.
普正人之得失, 非獨正人君也, 下云 “上以風化下, 下以風刺上.” 是上下俱正人也.
【疏】人君誠能用詩人之美道, 聽之正音, 使賞善伐惡之道, 擧無不當, 則可使天地效靈, 鬼神降福也.
故樂記云 “姦聲感人而逆氣應之, 逆氣成象而淫樂興焉. 正聲感人而順氣應之, 順氣成象而和樂興焉.”
又曰 “歌者, 直己而陳德也, 動己而天地應焉, 四時和焉, 星辰理焉, 萬物育焉.” 此說聲能感物, 能致順氣逆氣者也.
天地云動, 鬼神云感, 耳. 周禮之例, 天曰神, 地曰祇, 人曰鬼, 鬼神與天地相對, 唯謂人之鬼神耳.
從人正而後能感動, 故先言正得失也. 此‘正得失’, 與‘雅者正也’․‘正始之道’, 本或作政, 皆誤耳, 今定本, 皆作正字.
【序】先王 以是 經夫婦하고 成孝敬하며 厚人倫하고 美敎化하며 移風俗이라
【疏】‘先王’至‘俗’
○正義曰:上言詩有功德, 此言用詩之事. 經夫婦者, 經, 常也,
夫婦之道有常, 男正位乎外, 女正位乎內, 德音莫違, 是夫婦之常. 室家離散, 夫妻反目, 是不常也.
敎民使常此夫婦, 猶商書云 ‘常厥德’也. 成孝敬者, 孝以事親, 可移於君, 敬以事長, 可移於貴.
若得罪於君親, 失意於長貴, 則是孝敬不成, 故敎民使成此孝敬也.
厚人倫者, 倫, 理也, 君臣父子之義, 朋友之交, 男女之別, 皆是人之常理.
父子不親, 君臣不敬, 朋友道絶, 男女多違, 是人理薄也, 故敎民使厚此人倫也.
【疏】美敎化者, 美, 謂使人服之而無厭也. 若設言而民未盡從, 是敎化未美, 故敎民使美此敎化也.
移風俗者, 地理志云 “民有剛柔緩急, 音聲不同, 繫水土之風氣, 故謂之風. 好惡取舍動靜, 隨君上之情欲, 故謂之俗.”
則風爲本, 俗爲末, 皆謂民情好惡也.
緩急繫水土之氣, 急則失於躁, 緩則失於慢. 王者爲政, 當移之, 使緩急調和, 剛柔得中也.
隨君上之情, 則君有善惡, 民竝從之. 有風俗傷敗者, 王者爲政, 當易之使善,
故地理志, 又云 “孔子曰 ‘移風易俗, 莫善於樂.’ 言聖王在上, 統理人倫, 必移其本而易其末, 然後王敎成.” 是其事也.
此皆用詩爲之, 故云 ‘先王以是’, 以, 用也, 言先王用詩之道, 爲此五事也.
【疏】案王制云 “廣谷大川異制, 民生其閒者異俗. 脩其敎, 不易其俗.” 此云‘易俗’, 彼言‘不易’者,
彼謂五方之民, 戎夷殊俗, 言語不通, 器械異制, 王者就而撫之, 不復易其器械, 同其言音, 故言‘不易其俗’, 與此異也.
此序言詩能易俗, 孝經言樂能移風俗者, 詩是樂之心, 樂爲詩之聲, 故詩樂同其功也. 然則詩樂相將, 無詩則無樂.
【疏】周存, 豈有黃帝之詩. 有樂而無詩, 何能移風易俗,
斯不然矣. 原夫樂之初也, 始於人心, 出於口歌, 聖人作八音之器以文之, 然後謂之爲音, 謂之爲樂.
樂雖逐詩爲曲, 倣詩爲音, 曲有淸濁次第之序, 音有宮商相應之節, 其法旣成, 其音可久, 是以昔日之詩雖絶, 昔日之樂常存.
樂本由詩而生, 所以樂能移俗. 歌其聲謂之樂, 誦其言謂之詩, 聲言不同, 故異時別敎.
王制稱 “春敎樂, 夏敎詩” 經解稱 “溫柔敦厚, 詩敎也. 廣博易良, 樂敎也” 由其事異, 故異敎也, 此之謂詩樂.
據五帝以還, 詩樂相將, 故有詩則有樂, 若上皇之世, 人性醇厚, 徒有嬉戱之樂, 未有歌詠之詩.
【序】故詩有六義焉하니 一曰風이요 二曰賦 三曰比 四曰興이요 五曰雅 六曰頌이라
【疏】‘故詩’至‘六曰頌’
○正義曰:上言詩功旣大, 明非一義能周, 故又言詩有六義.
大師上文, 未有詩字, 不得徑云‘六義’, 故言六詩, 各自爲文, 其實一也.
彼注云 “風, 言賢聖治道之遺化. 賦之言鋪, 直鋪陳今之政敎善惡.
比, 見今之失, 不敢斥言, 取比類以言之. 興, 見今之美, 嫌於媚諛, 取善事以喩勸之.
雅, 正也, 言今之正者, 以爲後世法. 頌之言, 誦也容也, 誦今之德, 廣以美之.” 是解六義之名也.
【疏】彼雖各解其名, 以詩有正變, 故互見其意, 風云‘賢聖之遺化’, 謂變風也.
雅云‘言今之正, 以爲後世法’, 謂正雅也. 其實正風, 亦言當時之風化, 變雅亦是賢聖之遺法也.
頌訓爲容, 止云‘誦今之德廣以美之’, 不解容之義, 謂天子美有形容, 下云‘美盛德之形容’, 是其事也.
賦云‘鋪陳今之政敎善惡’, 其言通正變兼美刺也. 比云‘見今之失, 取比類以言之’, 謂刺詩之比也.
興云‘見今之美, 取善事以勸之’, 謂美詩之興也. 其實美刺, 俱有比興者也.
【疏】鄭必以風言‘賢聖之遺化’, 擧變風者, 以唐有堯之遺風, 故於風言‘賢聖之遺化’.
賦者, 直陳其事, 無所避諱, 故得失俱言. 比者, 比託於物, 不敢正言, 似有所畏懼, 故云‘見今之失, 取比類以言之’.
興者, 興起志意, 讚揚之辭, 故云‘見今之美, 以喩勸之’. 雅, 旣以齊正爲名, 故云‘以爲後世法’.
鄭之所注, 其意如此, 詩皆用之於樂, 言之者無罪.
賦則直陳其事, 於比興云‘不敢斥言, 嫌於媚諛’者, 據其辭不指斥, 若有嫌懼之意.
其實作文之體, 理自當然, 非有所嫌懼也.
【疏】六義次第如此者, 以詩之, 以風爲先, 故曰風.
風之所用, 以賦․比․興爲之辭, 故於風之下卽次賦․比․興, 然後次以雅․頌.
雅頌亦以賦․比․興爲之, 旣見賦․比․興於風之下, 明雅․頌亦同之.
鄭以賦之言鋪也, 鋪陳善惡, 則詩文直陳其事, 不譬喩者, 皆賦辭也.
云 “比者, 比方於物, 諸言如者, 皆比辭也.”
司農又云 “興者, 託事於物, 則興者起也. 取譬引類, 起發己心, 詩文時擧草木鳥獸, 以見意者, 皆興辭也.”
賦比興如此次者, 言事之道, 直陳爲正, 故詩經多賦在比興之先.
比之與興, 雖同是附託外物, 比顯而興隱, 當先顯後隱, 故比居興先也. 毛傳特言興也, 爲其理隱故也.
【疏】風․雅․頌者, 皆是施政之名也. 上云‘風, 風也 敎也, 風以動之, 敎以化之’, 是風爲政名也.
下云‘雅者, 正也. 政有小大, 故有小雅焉, 有大雅焉’, 是雅爲政名也.
周頌譜云 “頌之言容, 天子之德, 光被四表, 格于上下, 此之謂容.” 是頌爲政名也.
人君以政化下, 臣下感政作詩, 故還取政敎之名, 以爲作詩之目.
風․雅․頌, 同爲政稱, 而事有積漸, 敎化之道, 必先諷動之, 物情旣悟, 然後敎化, 使之齊正.
言其風動之初, 則名之曰風, 指其齊正之後, 則名之曰雅, 風俗旣齊然後, 德能容物,
故功成乃謂之頌. 先風後雅頌, 爲此次故也.
【疏】一國之事爲風, 天下之事爲雅者, 以諸侯列土樹疆, 風俗各異,
故唐有堯之遺風, 魏有儉約之化, 由隨風設敎, 故名之爲風.
天子則威加四海, 齊正萬方, 政敎所施, 皆能齊正, 故名之爲雅.
風雅之詩, 緣政而作, 政旣不同, 詩亦異體. 故七月之篇, 備有風雅頌.
駉頌序云 “作是頌.” 明作者本意, 自定爲風體, 非采得之後, 始定體也.
詩體旣異, 其聲亦殊, 公羊傳曰 “十一而稅, 頌聲作.” 史記稱 “微子過殷墟而作.”
譜云 “師摯之始, 關雎之亂, 早失風聲矣.” 樂記云 “人不能無亂, 先王恥其亂, 故制雅頌之聲以道之.” 是其各自別聲也.
【疏】詩各有體, 體各有聲, 大師聽聲得情, 知其本意.
周南爲王者之風, 召南爲諸侯之風, 是聽聲而知之也.
然則風․雅․頌者, 詩篇之異體, 賦比興者, 詩文之異辭耳, 大小不同, 而得竝爲六義者, 賦比興, 是詩之所用, 風雅頌, 是詩之成形,
用彼三事, 成此三事, 是故同稱爲義, 非別有篇卷也.
鄭志, “張逸問 ‘何詩近於比賦興’,
答曰 ‘比賦興, 吳札觀詩, 已不歌也. 孔子錄詩, 已合風雅頌中, 難復摘別, 篇中義多興.’”
逸見風雅頌有分段, 以爲比賦興, 亦有分段, 謂有全篇爲比, 全篇爲興, 欲鄭指摘言之.
鄭以比賦興者, 直是文辭之異, 非篇卷之別, 故遠言從本來不別之意.
【疏】言‘吳札觀詩 已不歌’, 明其先無別體, 不可歌也. ‘孔子錄詩 已合風雅頌中’, 明其先無別體, 不可分也.
元來合而不分, 今日難復摘別也. 言‘篇中義多興’者, 以毛傳於諸篇之中, 每言興也.
以興在篇中, 明比賦亦在篇中, 故以興顯比賦也. 若然, 比賦興元來不分, 則唯有風雅頌三詩而已.
藝論云‘至周分爲六詩’者, 據周禮‘六詩’之文而言之耳, 非謂篇卷也.
或以爲鄭云‘孔子已合於風雅頌中’, 則孔子以前未合之時, 比賦興別爲篇卷,
若然則離其章句, 析其文辭, 樂不可歌, 文不可誦.
且風雅頌以比賦興爲體, 若比賦興別爲篇卷, 則無風雅頌矣. 是比賦興之義, 有詩則有之.
【疏】唐虞之世, 治致升平, 周於太平之世, 無諸侯之風, 則唐虞之世, 必無風也.
雅雖王者之政, 乃是太平前事, 以堯舜之聖, 黎民時雍, 亦似無雅, 於六義之中, 唯應有頌耳.
夏在制禮之後, 不復面稱目諫, 或當有雅.
夏氏之衰, 作霸, 諸侯彊盛, 或當有風, 但篇章泯滅, 無以言之.
藝論云 “唐虞始造其初, 至周分爲六詩”, 據周禮成文而言之, 詩之六義, 非起於周也.
【序】上以風化下하고 下以風刺上호되 主文而譎諫하여 言之者無罪 聞之者足以戒 故曰風이라
【箋】風化風刺 皆謂譬喩不斥言也 主文 主與樂之宮商相應也 譎諫 詠歌依違不直諫이라
○下以風 注諷刺同이라 刺本又作㓨 故曰風 福鳳反이요 又如字 詐也
【疏】‘上以’至‘曰風’
○正義曰:臣下作詩, 所以諫君, 君又用之敎化, 故又言上下皆用此六義之意.
在上人君, 用此六義, 風動敎化, 在下人臣, 用此六義, 以風喩箴刺君上.
其作詩也, 本心主意, 使合於宮商相應之文, 播之於樂, 而依違譎諫, 不直言君之過失,
故言之者無罪, 人君不怒其作主而罪戮之, 聞之者, 足以自戒.
人君自知其過而悔之, 感而不切, 微動若風, 言出而過改, 猶風行而草偃, 故曰風.
上言‘風 風也敎也’, 向下以申風義, 此云‘故曰風’, 向上而結彼文, 使首尾相應, 解盡風義.
【疏】此六義之下而解名風之意, 則六義皆名爲風, 以風是政敎之初, 六義風居其首, 故六義摠名爲風, 六義隨事生稱耳.
若此辭摠上六義, 則有正變, 而云‘主文譎諫’, 唯說刺詩者, 以詩之作, 皆爲正邪防失,
雖論功誦德, 莫不匡正人君, 故主說作詩之意耳.
詩皆人臣作之以諫君, 然後人君用之以化下, 此先云‘上以風化下’者, 以其敎從君來, 上下俱用, 故先尊後卑.
襄十六年左傳稱 “齊人伐魯, 求救於晉. 晉人不許, 穆叔見中行獻子, 賦圻父. 獻子曰 ‘偃知罪矣.’”
穆叔賦而晉人不得怨之, 是‘言之者無罪’也. 獻子服罪, 是‘聞之者足以戒’也.
俗本, 戒上有自字者, 誤. 定本, 直云‘足以戒’也.
【疏】箋‘風化’至‘直諫’
○正義曰:風者, 若風之動物, 故謂之‘譬喩 不斥言’也. 人君敎民, 自得指斥, 但用詩敎民, 播之於樂, 故亦不斥言也.
上言‘聲成文’, 此言‘主文’, 知作詩者主意, 令詩文與樂之宮商相應也.
如上所說, 先爲詩歌, 樂逐詩爲曲, 則是宮商之辭, 學詩文而爲之.
此言作詩之文, 主應於宮商者, 初作樂者, 準詩而爲聲, 聲旣成形, 須依聲而作詩, 故後之作詩者, 皆主應於樂文也.
譎者, 權詐之名, 託之樂歌, 依違而諫, 亦權詐之義, 故謂之‘譎諫’.
【序】至于王道衰하여 禮義廢하고 政敎失하며 國異政하고 家殊俗하여 而變風變雅作矣
【疏】‘至于’至‘雅作矣’
○正義曰:詩之風雅, 有正有變, 故又言變之意. 至于王道衰, 禮義廢而不行, 政敎施之失所,
遂使諸侯國國異政, 下民家家殊俗. 詩人見善則美, 見惡則刺之, 而變風變雅作矣.
‘至于’者, 從盛而至于衰, 相承首尾之言也.
禮義言‘廢’者, 典法仍存, 但廢而不行耳. 政敎言‘失’者, 非無政敎, 但施之失理耳.
由施之失理, 故使國國異政, 家家殊俗, 皆是道衰之事, 故云‘道衰’以冠之.
禮義者, 政敎之本, 故先禮義而後政敎.
定本‘禮義廢’, 俗本有作儀字者, 非也. 此家, 謂天下民家. 孝經云 “非家至而日見之也.” 亦謂天下民家, 非大夫稱家也.
民隨君上之欲, 故稱俗, 若大夫之家, 不得謂之俗也.
【疏】變風․變雅, 必王道衰乃作者, 夫天下有道, 則庶人不議, 治平累世, 則美刺不興, 何則.
未識不善, 則不知善爲善, 未見不惡, 則不知惡爲惡. 太平則無所更美, 道絶則無所復譏, 人情之常理也,
故初變惡俗, 則民歌之, 風雅正經是也. 始得太平, 則民頌之, 周頌諸篇是也.
若其王綱絶紐, 禮義消亡, 民皆逃死, 政盡紛亂, 易稱 “天地閉, 賢人隱.” 於此時也, 雖有智者, 無復譏剌.
成王太平之後, 其美不異於前, 故頌聲止也. 陳靈公淫亂之後, 其惡不復可言, 故變風息也.
班固云 “沒而頌聲寢, 王澤竭而詩不作.” 此之謂也.
【疏】然則變風․變雅之作, 皆王道始衰, 政敎初失, 尙可匡而革之, 追而復之,
故執彼舊章, 繩此新失, 覬望自悔其心, 更遵正道, 所以變詩作也, 以其變改正法, 故謂之變焉.
猶有先王之遺民.” 是由王澤未竭, 民尙知禮, 以禮救世, 作此變詩, 故變詩, 王道衰乃作也.
譜云 “, .” 則周道之衰, 自夷懿始矣.
變雅始於厲王, 無夷懿之雅者, 蓋孔子錄而不得, 或有而不足錄也.
昭十二年左傳稱 “.” 衛頃․齊哀之時而有變風, 明時作變雅, 但不錄之耳.
【疏】王道衰, 諸侯有變風, 王道盛, 諸侯無正風者, 王道明盛, 政出一人, 太平非諸侯之力, 不得有正風,
王道旣衰, 政出諸侯, 善惡在於己身, 不由天子之命, 惡則民怨, 善則民喜, 故各從其國, 有美剌之變風也.
【序】國史明乎得失之迹하여 傷人倫之廢하고 哀刑政之苛하여 吟詠情性以風其上이라
○苛 苛虐也 動聲曰吟이라
【疏】‘國史’至‘上’
○正義曰:上旣言變詩之作, 此又說作變之由, 言國之史官, 皆博聞强識之士, 明曉於人君得失善惡之迹,
禮義廢則人倫亂, 政敎失則法令酷, 國史傷此人倫之廢棄, 哀此刑政之苛虐.
哀傷之志, 鬱積於內, 乃吟詠己之情性, 以風刺其上, 覬其改惡爲善, 所以作變詩也.
國史者, 周官, 大史․小史․外史․御史之等, 皆是也. 此承變風․變雅之下, 則兼據天子諸侯之史矣.
‘得失之迹’者, 人君旣往之所行也. 明曉得失之迹, 哀傷而詠情性者, 詩人也, 非史官也.
民勞․常武, 公卿之作也. 黃鳥․碩人, 國人之風, 然則凡是臣民, 皆得風剌, 不必要其國史所爲.
【疏】此文特言國史者, 鄭答張逸云 “國史采衆詩時, 明其好惡, 令歌之, 其無作主, 皆國史主之, 令可歌.”
如此言, 是由國史掌書, 故託文史也. 苟能制作文章, 亦可謂之爲史, 不必要作史官.
駉云 “史克作是頌” 史官自有作詩者矣, 不盡是史官爲之也.
言‘明其好惡 令瞽矇歌之’, 是國史選取善者, 始付樂官也.
言‘其無作主 國史主之’, 嫌其作者無名, 國史不主之耳, 其有作主, 亦國史主之耳.
‘人倫之廢’, 卽上禮義廢也, ‘刑政之苛’, 卽上政敎失也.
動聲曰吟, 長言曰詠, 作詩必歌, 故言吟詠情性也.
【序】達於事變而懷其舊俗者也 故變風發乎情하여 止乎禮義
發乎情 民之性也 止乎禮義 先王之澤也
【疏】‘達於’至‘之澤’
○正義曰:此又言王道旣衰, 所以能作變詩之意. 作詩者, 皆曉達於世事之變易, 而私懷其舊時之風俗,
見時世政事, 變易舊章, 卽作詩以舊法誡之, 欲使之合於禮義,
故變風之詩, 皆發於民情, 止於禮義, 言各出民之情性, 而皆合於禮義也, 又重說發情止禮之意.
‘發乎情者 民之性’, 言其民性不同, 故各言其志也, ‘止乎禮義者 先王之澤’, 言俱被先王遺澤, 故得皆止禮義也, 展轉申明作詩之意.
‘達於事變’者, 若唐有帝堯殺禮救危之化, 後世習之, 失之於儉不中禮,
陳有好巫歌舞之風, 後世習之, 失之於遊蕩無度. 是其風俗改變, 時人曉達之也.
【疏】‘懷其舊俗’者, 若齊有太公之風, 衛有康叔之化, 其遺法仍在, 詩人懷挾之也.
詩人旣見時世之事變, 改舊時之俗, 故依準舊法, 而作詩戒之.
雖俱準舊法, 而詩體不同, 或陳古政治, 或指世淫荒.
雖復屬意不同, 俱懷匡救之意, 故各發情性, 而皆止禮義也.
此亦兼論變雅, 獨言變風者, 上已變風․變雅雙擧其文, 此從省而略之也.
‘先王之澤’, 謂先王有德澤, 而流及於後世, 詩人得其餘化, 故能懷其舊俗也.
鄭答張逸云 “舊俗者, 若晉有堯之遺風, 先王之澤, 衛有康叔餘烈.” 如此言,
則康叔當云先公, 而云先王者, 以變雅有先王之澤, 變風有先公之澤.
故季札見歌齊曰 “表東海者, 其太公乎.” 見歌小雅曰 “猶有先王之遺民.” 是其風稟先公, 雅稟先王也.
【疏】上擧變風, 下言先王, 風․雅互相見也.
上言國史作詩, 此言民之性, 明作詩皆在民意, 非獨國史能爲, 亦是互見也.
作詩止於禮義, 則應言皆合禮, 而變風所陳, 多說姦淫之狀者, 男淫女奔, 傷化敗俗,
詩人所陳者, 皆亂狀淫形, 時政之疾病也, 所言者, 皆忠規切諫, 救世之針藥也.
尙書之, 疾病也, 詩人之四始六義, 救藥也.
若夫疾病尙輕, 有可生之道, 則毉之治也用心銳, , 知其必可生也.
疾病已重, 有將死之勢, 則醫之治也用心緩, , 知其不可爲也. 詩人救世, 亦猶是矣.
【疏】典刑未亡, 覬可追改, 則箴規之意切, , 殷勤而責王也.
淫風大行, 莫之能救, 則匡諫之志微, , 所以咨嗟歎息而閔世.
陳․鄭之俗, 亡形已成, 詩人度己箴規, 必不變改, 且復賦己之志, 哀歎而已, 不敢望其存, 是謂匡諫之志微.
故季札見歌陳曰 “國無主, 其能久乎.” 見歌鄭曰 “美哉, 其細已甚, 民弗堪也, 是其先亡乎.”
美者, 美詩人之情, 言不有先王之訓, 孰能若此. 先亡者, 見其匡諫意微, 知其國將亡滅也.
【序】是以 一國之事 繫一人之本 謂之風이요 言天下之事하고 形四方之風 謂之雅
【疏】序‘是以’至‘之雅’
○正義曰:序說正變之道, 以風․雅與頌區域不同, 故又辨三者體異之意.
是以者, 承上生下之辭, 言詩人作詩, 其用心如此.
一國之政事善惡, 皆繫屬於一人之本意, 如此而作詩者, 謂之風.
言道天下之政事, 發見四方之風俗, 如是而作詩者, 謂之雅. 言風․雅之別, 其大意如此也.
一人者, 作詩之人, 其作詩者, 道己一人之心耳, 要所言一人心, 乃是一國之心.
詩人覽一國之意, 以爲己心, 故一國之事, 繫此一人, 使言之也.
但所言者, 直是諸侯之政, 行風化於一國, 故謂之風, 以其狹故也.
【疏】言天下之事, 亦謂一人言之, 詩人摠天下之心, 四方風俗, 以爲己意, 而詠歌王政,
故作詩道說天下之事, 發見四方之風. 所言者, 乃是天子之政, 施齊正於天下, 故謂之雅, 以其廣故也.
風之與雅, 各是一人所爲, 風言一國之事繫一人, 雅亦天下之事繫一人.
雅言天下之事, 謂一人言天下之事, 風亦一人言一國之事.
序者, 逆順立文, 互言之耳. 故志張逸問 “嘗聞一人作詩, 何謂.”
答曰 “作詩者, 一人而已, 其取義者, 一國之事. 變雅則譏王政得失, 閔風俗之衰, 所憂者廣, 發於一人之本身.”
如此言, 風雅之作, 皆是一人之言耳, 一人美, 則一國皆美之, 一人刺, 則天下皆刺之.
【疏】, 妻怨其夫, 未必一國之妻, 皆怨夫耳. , 下怨其上, 未必一朝之臣, 皆怨上也.
但擧其夫婦離絶, 則知風俗敗矣, 言己獨勞從事, 則知政敎偏矣, 莫不取衆之意, 以爲己辭, 一人言之, 一國皆悅.
假使聖哲之君, 功齊區宇, 設有一人, 獨言其惡, 如之羞見殷湯, 伯夷․叔齊之恥事周武, 海內之心 不同之也.
無道之主, 惡加萬民, 設有一人, 獨稱其善, 如, , 天下之意, 不與之也.
必是言當擧世之心, 動合一國之意, 然後得爲風雅, 載在樂章, 不然則國史不錄其文也.
【疏】此言謂之風雅, 理兼正變. 天下無道, 政出諸侯, 而變雅亦稱雅者, 當作變雅之時, 王政仍被邦國.
大學曰 “堯舜率天下以仁而民從之, 桀紂率天下以暴而民從之.” 是善政․惡政, 皆能正人, 所以幽厲之詩, 亦名爲雅.
及平王東遷, 政遂微弱, 其政纔行境內, 是以變爲風焉.
【序】雅者 正也 言王政之所由廢興也 政有小大 故有小雅焉하고 有大雅焉이라
【疏】‘雅者’至‘雅焉’
○正義曰:上已解風名, 故又解雅名. 雅者訓爲正也, 由天子以政敎齊正天下, 故民述天子之政, 還以齊正爲名.
王之齊正天下得其道, 則述其美, 雅之正經及, 是也. 若王之齊正天下失其理, 則刺其惡, 幽厲小雅, 是也.
詩之所陳, 皆是正天下大法, 文武用詩之道則興, 幽厲不用詩道則廢.
此雅詩者, 言說王政所用廢興, 以其廢興, 故有美刺也, 又解有二雅之意.
王者政敎有小大, 詩人述之亦有小大, 故有小雅焉, 有大雅焉.
【疏】小雅所陳, 有飮食賓客, 賞勞群臣, 燕賜以懷諸侯, 征伐以强中國, 樂得賢者, 養育人材, 於天子之政, 皆小事也.
大雅所陳, 受命作周, 代殷繼伐, 荷先王之福祿, 尊祖考以配天, ,
能官用士, 澤被昆蟲, 仁及草木, 於天子之政, 皆大事也.
詩人歌其大事, 制爲大體, 述其小事, 制爲小體, 體有大小, 故分爲二焉.
風見優劣之差, 故周南先於召南, 雅見積漸之義, 故小雅先於大雅, 此其所以異也, 詩體旣異, 樂音亦殊.
國風之音, 各從水土之氣, 述其當國之歌而作之, 雅頌之音, 則王者徧覽天下之志, 摠合四方之風而制之,
樂記所謂 “先王制雅頌之聲以道之.” 是其事也.
【疏】詩體旣定, 樂音旣成, 則後之作者, 各從舊俗.
變風之詩, 各是其國之音, 季札觀之而各知其國, 由其音異故也, 小雅音體亦然.
正經述大政爲大雅, 述小政爲小雅, 有小雅․大雅之聲.
王政旣衰, 變雅兼作, 取大雅之音, 歌其政事之變者, 謂之變大雅, 取其小雅之音, 歌其政事之變者, 謂之變小雅,
故變雅之美刺, 皆由音體有小大, 不復由政事之大小也.
風述諸侯之政, 非無小大, 但化止一國, 不足分別, 頌則功成乃作, 歸美報神, 皆是大事, 無復別體, 故不分爲二風․二頌也.
【序】頌者 美盛德之形容이니 以其成功으로 告於神明者也
【疏】‘頌者’至‘神明者’
○正義曰:上解風․雅之名, 風․雅之體, 故此又解頌名․頌體.
上文因變風․變雅作矣, 卽說風雅之體, 故言 ‘謂之風’, ‘謂之雅’, 以結上文,
此上未有頌作之言, 文無所結, 故云 ‘頌者 美盛德之形容’, 明訓‘頌’爲‘容’, 解頌名也. ‘以其成功 告於神明’, 解頌體也.
上言‘雅者 正也’, 此亦當云‘頌者 容也’, 以雅已備文, 此亦從可知, 故略之也.
易稱 “聖人擬諸形容, 象其物宜”, 則形容者, 謂形狀容貌也.
作頌者, 美盛德之形容, 則天子政敎有形容也. 可美之形容, 正謂道敎周備也.
故頌譜云 “天子之德, 光被四表, 格于上下, 無不覆燾, 無不持載”, 此之謂容, 其意出於此也.
【疏】成功者, 營造之功畢也. 天之所營, 在於命聖, 聖之所營, 在於任賢, 賢之所營, 在於養民.
民安而財豐, 衆和而事節, 如是則司牧之功畢矣.
干戈旣戢, 夷狄來賓, 嘉瑞悉臻, 遠邇咸服, 群生盡遂其性, 萬物各得其所, 卽是成功之驗也.
萬物本於天, 人本於祖, 天之所命者, 牧民也, 祖之所命者, 成業也.
民安業就, 須告神使知, 雖社稷․山川․四嶽․河海, 皆以民爲主, 欲民安樂,
故作詩歌其功, 徧告神明, 所以報恩也.
王者政有興廢, 未嘗不祭群神, 但政未太平, 則神無恩力, 故太平德洽, 始報神功.
【疏】頌詩, 直述祭祀之狀, 不言得神之力, 但美其祭祀, 是報德可知.
此解頌者, 唯周頌耳, 其商․魯之頌則異於是矣.
商頌, 雖是祭祀之歌, 祭其先王之廟, 述其生時之功, 正是死後頌德, 非以成功告神, 其體異於周頌也.
魯頌, 主詠僖公功德, 纔如變風之美者耳, 又與商頌異也.
頌者, 美詩之名, 王者不陳魯詩, 魯人不得作風, 以其得用天子之禮,
故借天子美詩之名, 改稱爲頌, 非周頌之流也. 孔子以其同有頌名, 故取備三頌耳.
置之商頌前者, 以魯是周宗親同姓, 故使之先前代也.
【序】是謂四始 詩之至也
【箋】始者 王道興衰之所由
【疏】‘是謂四始詩之至也’
○正義曰:四始者, 鄭答張逸云 “風也, 小雅也, 大雅也, 頌也, , 人君行之則爲興, 廢之則爲衰.”
又箋云 “始者, 王道興衰之所由.” 然則此四者, 是人君興廢之始, 故謂之四始也.
‘詩之至’者, 詩理至極, 盡於此也. 序說詩理旣盡, 故言此以終之.
云 “大明在亥, 水始也. 四牡在寅, 木始也. 嘉魚在巳, 火始也. 鴻鴈在申, 金始也.”
與此不同者, 緯文, 因金․木․水․火有四始之義, 以詩文託之.
【疏】又鄭作六藝論, 引云 “詩含六情”者,
鄭以 “汎歷樞云 ‘午亥之際爲革命, 卯酉之際爲改正. 辰在天門, 出入候聽.
卯, 天保也. 酉, 祈父也. 午, 采芑也. 亥, 大明也.’ 然則亥爲革命, 一際也. 亥又爲天門出入候聽, 二際也.
卯爲陰陽交際, 三際也. 午爲陽謝陰興, 四際也. 酉爲陰盛陽微, 五際也.” 其六情者, 則春秋云 “喜怒哀樂好惡” 是也.
詩旣含此五際六情, 故鄭於六藝論言之.
【序】然則關雎麟趾之化 王者之風이라 故繫之周公이요 言化自北而南也
鵲巢․騶虞之德 諸侯之風也 先王之所以敎 故繫之召公이라
【箋】自 從也 從北而南 謂其化從岐周被江漢之域也 先王 斥大王王季
【疏】‘然則關雎麟趾之化 王者之風 故繫之周公’至‘繫之召公’
○正義曰:序因關雎是風化之始, 遂因而申之, 廣論詩義詩理旣盡, 然後乃說周南召南.
然者, 然上語, 則者, 則下事, 因前起後之勢也. 然則關雎․麟趾之化, 是王者之風, 文王之所以敎民也.
王者必聖, 周公聖人, 故繫之周公. 不直名爲周, 而連言南者, 言此文王之化, 自北土而行於南方故也.
鵲巢․騶虞之德, 是諸侯之風, 先王大王․王季所以敎化民也. 諸侯必賢, 召公賢人, 故繫之召公.
不復言南, 意與周南同也. 周南言化, 召南言德者, 變文耳. 上亦云‘關雎, 后妃之德’, 是其通也.
諸侯之風, 言先王之所以敎, 王者之風, 不言文王之所以敎者, 二南皆文王之化, 不嫌非文王也.
【疏】但文王所行, 兼行先王之道, 感文王之化爲周南, 感先王之化爲召南, 不言先王之敎, 無以知其然, 故特著之也.
此實文王之詩, 而繫之二公者, 志張逸問 “王者之風, 王者當在雅, 在風何.” 答曰 “文王以諸侯而有王者之化, 述其本宜爲風.”
逸以文王稱王, 則詩當在雅, 故問之. 鄭以此詩所述, 述文王爲諸侯時事, 以有王者之化, 故稱王者之風, 於時實是諸侯, 詩人不爲作雅.
文王三分有二之化, 故稱‘王者之風’, 是其風者, 王業基本.
此述服事殷時, 王業基本之事, 故云‘述其本宜爲風’也.
【疏】化霑一國, 謂之爲風, 道被四方, 乃名爲雅.
文王纔得六州, 未能天下統一, 雖則大於諸候, 正是諸侯之大者耳.
此二南之人, 猶以諸侯待之, 爲作風詩, 不作雅體, 體實是風, 不得謂之爲雅.
文王末年, 身實稱王, 又不可以國風之詩繫之王身. 名無所繫, 詩不可棄,
因二公爲王行化, 是故繫之二公. , 亦此義也.
其鹿鳴, 文王詩人, 本以天子待之作雅, 非基本之事, 故不爲風也.
若然, 作王者之風, 必感聖人之化, 已知文王之聖, 應知終必爲王.
不爲作雅而作風者, 詩者志也, 各言其志.
文王於時未稱王號, 或爲作雅, 或爲作風, 人志不同故也.
【疏】箋‘自從至‘王季’
○正義曰:釋詁云 “從, 自也.” 反覆相訓, 是‘自’得爲‘從’也.
文王之國, 在於岐周東北, 近於紂都, 西北迫於戎狄, 故其風化南行也.
漢廣序云 “美化行乎江漢之域”, 是從岐周被江漢之域也.
太王始有王迹, 周之追謚, 上至太王而已, 故知先王, 斥太王․王季.
【序】周南召南 正始之道 王化之基
【疏】‘周南’至‘之基’
○正義曰:旣言繫之周․召, 又摠擧二南要義,
周南․召南二十五篇之詩, 皆是正其初始之大道, 王業風化之基本也.
高以下爲基, 遠以近爲始, 文王正其家而後及其國, 是正其始也. 化南土以成王業, 是王化之基也.
季札見歌周南․召南曰 “始基之矣, 猶未也.” 服虔云 “未有雅․頌之成功.” 亦謂二南爲王化基始, 序意出于彼文也.
【序】是以 關雎樂得淑女以配君子하고 在進賢하여 不淫其色이라
哀窈窕하고 思賢才하여 而無傷善之心焉하니 是關雎之義也
【箋】哀 蓋字之誤也 當爲衷이라 謂中心恕之 無傷善之心 謂好逑也
○淑 善也 前儒竝如字라하니 論語云 哀而不傷 是也로대 鄭氏改作衷이라
毛云 窈窕 幽閑也라하고 王肅云 善心曰窈 善容曰窕이라하다 本又作念이라
【疏】‘是以’至‘之義也’
○正義曰:上旣摠言二南, 又說關雎篇義, 覆述上后妃之德, 由言二南皆是正始之道, 先美家內之化.
是以關雎之篇, 說‘后妃心之所樂, 樂得此賢善之女, 以配己之君子, 心之所憂, 憂在進擧賢女, 不自淫恣其色,
又哀傷處窈窕幽閒之女未得升進, 思得賢才之人與之共事君子.
勞神苦思, 而無傷害善道之心, 此是關雎詩篇之義也’, 毛意當然. 定本‘是關雎之義’, 俗本‘是’下有‘以’者, 誤也.
鄭以‘哀’爲‘衷’, 言‘后妃衷心念恕, 在窈窕幽閒之善女, 思使此女有賢才之行, 欲令宮內和協, 而無傷害善人之心.’
餘與毛同. 婦人謂夫爲君子, 上下之通名.
【疏】‘樂得淑女以配君子’, 言求美德善女, 使爲夫嬪御, 與之共事文王, 五章皆是也.
女有美色, 男子悅之, 故經傳之文, 通謂女人爲色. 淫者, 過也, 過其度量謂之爲淫.
男過愛女, 謂淫女色, 女過求寵, 是自淫其色, 此言‘不淫其色’者, 謂后妃不淫恣己身之色,
其者, 其后妃也. 婦德無厭, 志不可滿, 凡有情欲, 莫不妬忌, 唯后妃之心, 憂在進賢, 賢人不進, 以爲己憂.
不縱恣己色, 以求專寵, 此生民之難事, 而后妃之性能然, 所以歌美之.
【疏】毛以爲 “哀窈窕之人, 與后妃同德者也, 后妃以己則能配君子, 彼獨幽處未升, 故哀念之也.”
旣哀窈窕之未升, 又思賢才之良質, 欲進擧之也.
‘哀窈窕’, 還是‘樂得淑女’也, ‘思賢才’, 還是‘憂在進賢’也, 殷勤而說之也.
指斥詩文, 則‘憂在進賢’, 下三章是也, ‘不淫其色’, 首章上二句是也.
此詩之作, 主美后妃進賢, 所以能進賢者, 由不淫其色, 故先言不淫其色.
序論作者之意, 主在進賢, 故先云進賢, 所以經序倒也. 鄭解‘哀’字爲異, 其經亦與毛同.
【疏】箋‘哀蓋’至‘好逑’
○正義曰:以后妃之求賢女, 直思念之耳, 無哀傷之事在其閒也.
經云‘鍾鼓樂之’, ‘琴瑟友之’, 哀樂不同, 不得有悲哀也, 故云‘蓋字之誤’.
箋所易字多矣, 皆註云‘當爲某字’, 此在詩初, 故云‘蓋’爲疑辭, 以下皆倣此.
衷與忠, 字異而義同, 於文中心爲忠, 如心爲恕, 故云‘恕之’.
謂念恕此窈窕之女, 思使之有賢才, 言不忌勝己而害賢也.
‘無傷善之心’, 謂不用傷害善人. 經稱 “衆妾有逑怨, 欲令窈窕之女和諧, 不用使之相傷害.” 故云‘謂好逑也’.
【疏】論語云 “關雎樂而不淫, 哀而不傷.” 卽此序之義也.
論語注云 “哀世夫婦不得此人, 不爲滅傷其愛.” 此以哀爲衷, 彼仍以哀爲義者,
鄭答劉炎云 “論語註人閒行久, 義或宜然, 故不復定, 以遺後說.” 是鄭以爲疑, 故兩解之也.
必知毛異於鄭者, 以此詩出於毛氏, 字與三家異者, 動以百數.
此序是毛置篇端, 若毛知其誤, 自當改之, 何須仍作哀字也.
毛無破字之理, 故知從哀之義. 毛旣以哀爲義, 則以下義勢皆異於鄭.
【疏】‘思賢才’, 謂思賢才之善女也. ‘無傷善之心’, 言其能使善道全也.
庸人好賢則志有懈倦, 中道而廢則善心傷. 后妃能寤寐而思之, 反側而憂之, 不得不已, 未嘗懈倦,
是其善道必全, 無傷缺之心. 然則毛意‘無傷善之心’, 當謂三章是也.
王肅云 “哀窈窕之不得, 思賢才之良質, 無傷善之心焉. 若苟慕其色則善心傷也.”
關關雎鳩 在河之洲로다
【傳】興也 關關 和聲也 雎鳩 王雎也 鳥摯而有別이라 水中可居者曰洲
后妃說樂君子之德하여 無不和諧하고 又不淫其色하여 愼固幽深 若關雎之有別焉하니 然後 可以風化天下
夫婦有別則父子親하고 父子親則君臣敬하고 君臣敬則朝廷正하고 朝廷正則王化成이라
【箋】箋云 摯之言 至也 謂王雎之鳥 雌雄情意至로대 然而有別이라
○雎鳩 鳥之有至別者 案興是譬諭之名이니 意有不盡이라 故題曰興이니 他皆放此
窈窕淑女 君子好逑로다
【傳】窈窕 幽閒也이요 匹也 言后妃有關雎之德하니 是幽閒貞專之善女 宜爲君子之好匹이라
【箋】箋云 怨耦曰仇 言后妃之德和諧 則幽閒處深宮貞專之善女 能爲君子和好衆妾之怨者
言皆化后妃之德하여 不嫉妬하니以下
○好 毛如字 兎罝詩放此 毛云 匹也 本亦作仇하니 音同이라 鄭云怨耦曰仇하다
【疏】‘關關’至‘好逑’
○正義曰:毛以爲 “關關然聲音和美者, 是雎鳩也.
此雎鳩之鳥, 雖雌雄情至, 猶能自別, 退在河中之洲, 而相隨也.
以興情至性行和諧者, 是后妃也, 后妃雖說樂君子, 猶能不淫其色, 退在深宮之中, 不褻瀆而相慢也.
后妃旣有是德, 又不妬忌, 思得淑女以配君子, 故窈窕然處幽閒貞專之善女, 宜爲君子之好匹也.”
以后妃不妬忌, 可共以事夫, 故言宜也.
○鄭唯下二句爲異, 言“幽閒之善女, 謂三夫人․九嬪, 旣化后妃, 亦不妬忌,
故爲君子文王, 和好衆妾之怨耦者, 使皆說樂也.”
【疏】傳‘關關’至‘王化成’
○正義曰:釋詁云 “關關, 雍雍, 音聲和也.” 是關關爲和聲也.
‘雎鳩 王雎也’, 釋鳥文. 郭璞曰 “鵰類也, 今江東呼之爲鶚, 好在江邊沚中, 亦食魚.”
陸機疏云 “雎鳩, 大小如鴟, 深目, 目上骨露, 幽州人謂之鷲, 而揚雄․許愼皆曰 ‘白鷢, 似鷹, 尾上白.’”
定本云‘鳥摯而有別’, 謂鳥中雌雄情意至厚, 而猶能有別, 故以興后妃說樂君子情深, 猶能不淫其色.
傳爲‘摯’字, 實取至義, 故箋云 ‘摯之言至, 王雎之鳥, 雄雌情意至, 然而有別’, 所以申成毛傳也.
俗本云 “雎鳩, 王雎之鳥”者, 誤也.
【疏】‘水中可居者曰洲’, 釋水文也. 李巡曰 “四方皆有水, 中央獨可居.” 釋水又曰 “小洲曰渚, 小渚曰沚, 小沚曰坻.”
江有渚傳曰 “渚, 小洲也” 蒹葭傳․谷風箋竝云 “小渚曰沚” 皆依爾雅爲說也.
采蘩傳曰 “沚, 渚” 鳧鷖傳曰 “渚, 沚” 互言以曉人也.
蒹葭傳文云 “坻, 小渚也” 不言‘小沚’者, 沚․渚大小異名耳, 坻亦小於渚, 故擧渚以言之.
【疏】‘和諧’者, 心中和悅, 志意諧適, 每事皆然, 故云‘無不和諧’.
又解以‘在河之洲’爲喩之意, 言后妃雖悅樂君子, 不淫其色,
能謹愼貞固, 居在幽閒深宮之內, 不妄淫褻君子, 若雎鳩之有別, 故以興焉.
后妃之德能如是, 然後可以風化天下, 使夫婦有別.
夫婦有別, 則性純子孝, 故能父子親也, 孝子爲臣必忠, 故父子親則君臣敬.
君臣旣敬, 則朝廷自然嚴正, 朝廷旣正, 則天下無犯非禮, 故王化得成也.
【疏】傳‘窈窕’至‘好匹’
○正義曰:窈窕者, 謂淑女所居之宮形狀窈窕然, 故箋言 ‘幽閒深宮’ 是也.
傳知然者, 以其淑女已爲善稱, 則‘窈窕’宜爲居處, 故云‘幽閒’, 言其幽深而閒靜也.
楊雄云‘善心爲窈, 善容爲窕’者, 非也. ‘逑 匹’, 釋詁文, 孫炎云‘相求之匹’. 詩本作逑, 爾雅多作仇, 字異音義同也.
又曰 ‘后妃有關雎之德 是幽閒貞專之善女 宜爲君子之好匹’者, 美后妃有思賢之心,
故說賢女宜求之狀, 摠言宜求爲君子好匹, 則摠謂百二十人矣.
【疏】箋‘不嫉’至‘以下’
○正義曰:下箋‘三夫人․九嬪以下’, 此直云 ‘三夫人以下’, 然則九嬪以下, 摠謂衆妾,
三夫人以下, 唯兼九嬪耳, 以其淑女和好衆妾, 據尊者, 故唯指九嬪以上也.
求菜論皆樂后妃之事, 故兼言九嬪以下, 摠百二十人也. 若然, 此衆妾, 謂世婦․女御也.
周禮註云 “世婦․女御不言數者, 君子不苟於色, 有婦德者充之, 無則闕.”
所以得有怨者, 以其職卑德小, 不能無怨, 故淑女和好之.
見后妃和諧, 能化群下, 雖有小怨, 和好從化, 亦所以明后妃之德也.
【疏】此言百二十人者, 周南王者之風, 以天子之數擬之, 非其時卽然也.
何者, 文王爲諸侯早矣, 豈先無嬪妾一人, 皆須后妃求之. 且百二十人之數, 周禮始置,
鄭於, “帝嚳立四妃, 帝堯因焉, ,
夏增以九女爲十二人, 殷則增以二十七人爲三十九人, 至周增以八十一人爲百二十人.”
當殷之時, 唯三十九人, 況文王爲諸侯世子, 豈有百二十人也.
參差荇菜 左右流之
【傳】荇 接余也 求也 后妃有關雎之德하여 乃能共荇菜하고 備庶物하여 以事宗廟也
【箋】箋云 左右 助也 言后妃將共荇菜之葅 必有助而求之者 言三夫人九嬪以下 皆樂后妃之事
○左右 王申毛如字하고 鄭上音佐下音佑 本或作供하니 下共荇菜竝同이라 字又作葅 內宮名이라
窈窕淑女 寤寐求之로다
【傳】寤 寢也
【箋】箋云 言后妃覺寐則常求此賢女하니 欲與之共己職也
【疏】‘參差’至‘求之’
○毛以爲 “后妃性旣和諧, 堪居后職, 當共荇菜以事宗廟. 后妃言 此參差然不齊之荇菜, 須嬪妾左右佐助而求之.
由此之故, 思求淑女, 窈窕然幽閒貞專之善女, 后妃寤寐之時, 常求之也.”
【疏】鄭以爲 “夫人․九嬪, 旣不妬忌, 世婦․女御, 又無怨爭, 上下說樂, 同化后妃,
故於后妃將共參差之荇菜, 以事宗廟之時, 則嬪․御之等, 皆競佐助后妃而求之, 言皆樂后妃之事.
旣言樂助后妃, 然後倒本其事, 后妃今日所以得佐助者,
由此幽閒之善女未得之時, 后妃於覺寐之中常求之, 欲與之共己職事, 故得之也.”
【疏】傳‘荇接’至‘宗廟’
○正義曰:釋草云 “莕, 接余, 其葉.” 陸機疏云 “接余, 白莖, 葉紫赤色正員, 徑寸餘.
浮在水上, 根在水底, 與水深淺等. 大如釵股, 上靑下白, 其白莖, 以苦酒浸之, 肥美可案酒.”是也.
定本 ‘荇, 接余也’, 俗本 ‘荇’下有‘菜’字, 衍也. ‘流 求’, 釋言文也.
所以論求菜事, 以美后妃者, 以德不和諧, 不當神明, 則不能事宗廟.
今后妃和諧, 有關雎之德, 乃能共荇菜, 備庶物, 以事宗廟也.
【疏】案天官醢人陳, 無荇菜者, 以殷禮, 詩詠時事, 故有之.
言‘備庶物’者, 以荇菜亦庶物之一, 不謂今后妃盡備庶物也.
禮記祭統曰 “, 小物備矣. 三牲之俎, 八簋之實, 美物備矣. 昆蟲之異, 草木之實, 陰陽之物備矣.
凡天之所生, 地之所長, 苟可薦者, 莫不咸在, 示盡物也.” 是祭必備庶物也.
此經序無言祭事, 知事宗廟者, 以言‘左右流之’, 助后妃求荇菜, 若非祭菜, 后不親采. 采蘩言夫人奉祭, 明此亦祭也.
【疏】箋‘左右’至‘之事’
○正義曰:‘左右 助也’, 釋詁文. 此章未得荇菜, 故助而求之.
旣得, 故四章論‘采之’. 采之旣得, 故卒章言‘擇之’. 皆是淑女助后妃, 故每云‘左右’.
此章始求, 謂未當祭時, 故云‘將共荇菜’. 四章‘琴瑟友之’, 卒章‘鍾鼓樂之’, 皆謂祭時, 故箋云‘共荇菜之時’也.
此云‘助而求之’, 謂未祭時亦贊助也.
【疏】故天官九嬪職云 “凡祭祀, 贊后薦徹豆籩.” 世婦職云 “祭之日, 莅陳女之具, 凡.”
女御職曰 “凡祭祀, 贊世婦.” 天官序官注云 “夫人之於后, 猶三公之於王, 坐而論婦禮, 無官職之事.” 明祭時皆在,
故下章論祭時, 皆有淑女之文, 明贊助可知也. 此‘九嬪以下’, 兼世婦․女御也.
言‘皆樂后妃之事’者, 明旣化其德, 又樂其事, 見后妃德盛感深也.
事者, 荇菜之事也, 事爲勞務, 尙能樂之, 況於其德乎.
求之不得하여 寤寐思服이라
【傳】服 思之也
【箋】箋云 服 事也 求賢女而不得하여 覺寐則思己職事 當誰與共之乎아하다
悠哉悠哉 輾轉反側이로다
【傳】悠 思也
【箋】箋云 思之哉思之哉 言己誠思之 臥而不周曰輾이라
○輾 本亦作展이라 鄭云 不周曰輾 注本或作臥而不周者 剩二字也
【疏】‘求之’至‘反側’
○毛以爲 “后妃求此賢女之不得, 則覺寐之中, 服膺念慮而思之.
又言‘后妃誠思此淑女哉, 誠思此淑女哉’, 其思之時則輾轉而復反側, 思念之極深也.”
○鄭唯以服爲事, 求賢女而不得, 覺寐則思己職事, 當誰與共之. 餘同也.
【疏】傳‘服 思之也’
○正義曰:王肅云 “服膺思念之.” 箋以釋詁文‘服 事也’, 本求淑女爲己職事, 故易之也.
【疏】箋‘臥而不周曰輾’
○正義曰:曰 “帝猶反側晨興” 則反側亦臥而不正也. 反側旣爲一, 則輾轉亦爲一, 俱爲臥而不周矣.
箋獨以輾爲不周者, 辨其難明, 不嫌與轉異也. 澤陂云‘輾轉伏枕’ 伏枕, 據身伏而不周, 則輾轉同爲不周明矣.
反側猶反覆, 輾轉猶婉轉, 俱是迴動, 大同小異, 故何人斯箋 “反側, 輾轉” 是也.
參差荇菜 左右采之로다
【箋】箋云 言后妃旣得荇菜하니 必有助而采之者
窈窕淑女 琴瑟友之로다
【傳】宜以琴瑟友樂之
【箋】箋云 同志爲友 言賢女之助后妃하여 共荇菜하니 其情意乃與琴瑟之志同이라 共荇菜之時 樂必作이라
【疏】‘參差’至‘友之’
○毛以爲 “后妃本已求淑女之意, 言旣求得參差之荇菜, 須左右佐助而采之, 故所以求淑女也,
故思念此處窈窕然幽閒之善女, 若來則琴瑟友而樂之.” 思設樂以待之, 親之至也.
【疏】○鄭以爲 “后妃化感群下, 旣求得之, 又樂助采之, 言‘參差之荇菜求之旣得, 諸嬪御之等, 皆樂左右助而采之.
旣化后妃, 莫不和親, 故當共荇菜之時, 作此琴瑟之樂, 樂此窈窕之淑女.”
其情性之和, 上下相親, 與琴瑟之音, 宮商相應無異, 若與琴瑟爲友然, 共之同志, 故云‘琴瑟友之’.
【疏】傳‘宜以琴瑟友樂之’
○正義曰:此稱后妃之意. 后妃言 ‘己思此淑女, 若來, 己宜以琴瑟友而樂之.’
言友者, 親之如友. 下傳曰 ‘德盛者, 宜有鍾鼓之樂’, 與此章互言也.
明淑女若來, 琴瑟鍾鼓竝有, 故此傳幷云‘友樂之’, 亦逆取下章之意也.
以樂有二等, 相分以著義. 琴瑟, 樂之細者, 先言之, 見其和親, 鍾鼓, 樂之大者, 故卒章言之, 顯其德盛.
【疏】毛氏於序不破哀字, 則此詩所言, 思求淑女而未得也, 若得則設琴瑟鍾鼓以樂此淑女.
故孫毓述毛云 “思淑女之未得, 以禮樂友樂之.” 是思之而未致, 樂爲淑女設也.
知非祭時設樂者, 若在祭時, 則樂爲祭設, 何言德盛. 設女德不盛, 豈祭無樂乎.
又琴瑟樂神, 何言友樂也. 豈得以祭時之樂, 友樂淑女乎. 以此知毛意思淑女未得, 假設之辭也.
【疏】箋‘同志爲友’
○正義曰:人之朋友, 執志協同.
今淑女來之, 雍穆如琴瑟之聲和, 二者志同, 似於人友, 故曰‘同志爲友’.
琴瑟與鍾鼓, 同爲祭時, 但此章言采之, 故以琴瑟爲友以韻之, 卒章云芼, 故以鍾鼓爲樂以韻之, 俱祭時所用, 而分爲二等耳.
此箋‘樂必作’, 兼下鍾鼓也. 下箋‘琴瑟在堂’, 亦取此云‘琴瑟友之’, 言淑女以琴瑟爲友.
下云‘鍾鼓樂之’, 共荇菜之事, 爲鍾鼓樂淑女. 二文不同者, 因事異而變其文.
以琴瑟相和, 似人情志, 故以友言, 鍾鼓鏗宏, 非情志可比, 故以樂言之, 見祭時淑女情志之和, 而因聽祭樂也.
參差荇菜 左右芼之로다
【傳】芼 擇也
【箋】箋云 后妃旣得荇菜 必有助而擇之者
【疏】傳‘芼 擇也’
○正義曰:釋言云 “芼, 搴也.” 孫炎曰 “皆擇菜也.” 某氏曰 “搴猶拔也.” 郭璞曰 “拔取菜也.” 以搴是拔之義.
史記云 “斬將搴旗”, 謂拔取敵人之旗也. 芼訓爲拔, 而此云芼之, 故知拔菜而擇之也.
窈窕淑女 鍾鼓樂之로다
【傳】德盛者 宜有鍾鼓之樂이라
【箋】箋云 琴瑟在堂하고 鍾鼓在庭이니 言共荇菜之時 上下之樂皆作하여 盛其禮也
【疏】箋‘琴瑟’至‘其禮’
○正義曰:知‘琴瑟在堂 鍾鼓在庭’者, 皐陶謨云 “琴瑟以詠, 祖考來格”,
乃云 “下管鼗鼓”, 明琴瑟在上, 鼗鼓在下. 大射禮 “頌鍾在西階之西, 笙鍾在東階之東” 是鍾鼓在庭也.
此詩美后妃能化淑女, 共樂其事, 旣得荇菜以祭宗廟, 上下樂作, 盛此淑女所共之禮也. 樂雖主神, 因共荇菜, 歸美淑女耳.
關雎五章이니 章四句 故言 三章이니 一章 章四句 二章 章八句
○五章 是鄭所分이요 故言以下 是毛公本意 後放此
【疏】自古而有篇․章之名, 與詩俱興也, 故那序曰 “得商頌十二篇.” 東山序曰 “一章言其完.” 是也.
句則古者謂之爲言, 論語云“詩三百, 一言以蔽之, 曰思無邪.” 則以‘思無邪’一句爲一言.
左氏曰 “臣之業, 在揚之水卒章之四言”, 謂第四句, 不敢告人也, 及趙簡子稱子大叔 “遺我以九言”, 皆以一句爲一言也.
秦․漢以來, 衆儒各爲訓詁, 乃有句稱, 論語注云 “此我行其野之句”是也.
句必聯字而言, 句者局也, 聯字分疆, 所以局言者也.
章者明也, 摠義包體, 所以明情者也. 篇者徧也, 言出情鋪, 事明而徧者也.
【疏】然字之所用, 或全取以制義, ‘關關雎鳩’之類也, 或假辭以爲助, 者․乎․而․只․且之類也.
句者, 聯字以爲言, 則一字不制也. 以詩者申志, 一字則言蹇而不會, 故詩之見句, 少不減二, 卽‘祈父’․‘肇禋’之類也.
三字者, ‘綏萬邦’․‘婁豐年’之類也. 四字者, ‘關關雎鳩’․‘窈窕淑女’之類也. 五字者, ‘誰謂雀無角, 何以穿我屋’之類也.
六字者, 之類也. 七字者, ‘如彼築室於道謀’․‘尙之以瓊華乎而’之類也.
八字者, ‘十月蟋蟀入我牀下’․‘我不敢效我友自逸’是也, 其外更不見九字․十字者.
【疏】論云 “詩有九言者, ‘泂酌彼行潦挹彼注玆’是也.” 徧檢諸本, 皆云 “泂酌三章, 章五句”, 則以爲二句也.
云 “詩禮本無九言者, 將由聲度闡緩, 不協金石, 仲之言, 未可據也.”
句字之數, 四言爲多, 唯以二․三․七․八․者, 將由言以申情, 唯變所適, 播之樂器, 俱得成文故也.
詩之大體, 必須依韻, 其有乖者, 古人之韻不協耳. 之․兮․矣․也之類, 本取以爲辭, 雖在句中, 不以爲義, 故處末者, 皆字上爲韻.
之者, ‘左右流之’․‘寤寐求之’之類也. 兮者, ‘其實七兮’․‘迨其吉兮’之類也.
矣者, ‘顔之厚矣’․‘出自口矣’之類也. 也者, ‘何其處也’․‘必有與也’之類也.
然人志各異, 作詩不同, 必須聲韻諧和, 曲應金石,
亦有卽將助句之字, 以當聲韻之體者, 則‘彼人是哉, 子曰何其’,
‘不思其反, 反是不思, 亦已焉哉’, ‘是究是圖, 亶其然乎’, ‘其虛其徐, 旣亟只且’之類是也.
章者, 積句所爲, 不限句數也, 以其作者陳事, 須有多少章摠一義, 必須意盡而成故也.
累句爲章, 則一句不可. 二句得爲之, 盧令及魚麗之下三章是也. 其三句 則麟趾․甘棠․騶虞之類是也.
其多者, 載芟三十一句, 閟宮之三章三十八句, 自外不過也.
【疏】篇之大小, 隨章多少. 風․雅之中, 少猶兩章以上, 卽騶虞․渭陽之類是也, 多則十六以下, 正月․桑柔之類是也.
唯周頌三十一篇及那․烈祖․玄鳥, 皆一章者.
以其風․雅敘人事, 刺過論功, 志在匡救, 一章不盡, 重章以申殷勤, 故風․雅之篇, 無一章者.
頌者, 太平德洽之歌, 述成功以告神, 直言寫志, 不必殷勤, 故一章而已.
魯頌不一章者, 魯頌美僖公之事, 非告神之歌, 此則論功頌德之詩, 亦殷勤而重章也.
雖云盛德所同, 魯頌實不及制, 故頌體不一也.
一人, 而玄鳥一章, 長發․殷武重章者, 或詩人之意, 所作不同, 或以武丁之德, 上不及成湯, 下又踰於魯僖.
論其至者, 同於太平之歌, 述其祖者, 同於論功之頌, 明成功有大小, 其篇詠有優劣.
【疏】東山序云一章․二章․三章․四章, 不謂末章爲卒章, 及左傳曰七月之卒章, 又楊之水卒章者,
東山分別章意, 從一而終於四, 故不言卒章也, 左傳言卒章者, 卒, 終也, 言終篇之章.
言卒者, 對始也, 終篇爲卒章, 則初篇爲首章矣, 故鄭注禮記云 ‘緇衣之首章’是也.
若然, 言卒者, 對首也, 則武唯一章, 而左傳曰 “作武, 其卒章曰 ‘耆定爾功’”者, 以‘耆定爾功’是章之卒句故也.
大司樂注云 “騶虞, 樂章名, 在召南之卒章”者, 正謂其卒篇. 謂之章者, 乘上騶虞爲樂章, 故言‘在召南之卒章’也.
定本章句在篇後, 六藝論云 “未有若今傳訓章句” 明爲傳訓以來, 始辨章句, 或毛氏卽題, 或在其後人, 未能審也.


관저關雎후비后妃을 말한 것이다.
○‘관저關雎’는 구해舊解에 “311편의 시는 모두 작자作者가 직접 이름을 붙였다.” 하였다.
후비后妃’는 ≪이아爾雅≫에 “이니 배우자이다.” 하고, ≪춘추좌씨전春秋左氏傳≫에 “훌륭한 배우자를 라 한다.” 하고, ≪예기禮記≫에 “천자天子라 한다.” 하였다.
지덕야之德也’는 구설舊說에 “여기부터 ‘용지방국언用之邦國焉’까지가 〈관저關雎〉의 이니 이를 ‘소서小序’라 하고, ‘풍 풍야風 風也’에서 끝까지를 ‘대서大序’라 한다.” 하였다.
침중沈重이 “정현鄭玄의 ≪시보詩譜≫를 살펴보니, 대서大序자하子夏가 지었고, 소서小序자하子夏모공毛公의 합작으로 자하子夏의 뜻에 미진함이 있는 것을 모공毛公이 다시 보충하여 이룬 것이다.” 하였다.
혹자는 “소서小序동해 위경중東海 衛敬仲이 지은 것이다.” 하였다. 이제 살펴보면 이 는 〈관저關雎〉만의 인데 ≪≫의 강령綱領을 총론하였으니, 대서大序소서小序의 차이가 없다.
해설은 〈침중沈重의〉 ≪모시의毛詩義≫의 에 보인다. 모두 정현鄭玄주석注釋이면서 ‘전운箋云’이 없는 까닭은 의심하고 논란할 것이 없기 때문이다.
의 [관저 후비지덕야關雎 后妃之德也]
정의왈正義曰:모든 편의 는 모두 한 의 뜻을 말하였지만, 다만 ≪시경詩經≫의 뜻이 매우 깊고 넓으며 이 편의 ‘’는 전편全篇의 시작이다. 그리하여 ≪시경詩經≫의 대강大綱을 모두 여기에 거론하였다.
이를 나누어 15로 만들어 해당 에서 따로 차례를 설명하고 있으므로 여기에서 다시 중복하지 않는다. 〈관저關雎〉를 지은 것은 후비后妃의 덕을 말한 것이다.
예기禮記≫ 〈곡례曲禮〉에 “천자天子라 한다.” 하였는데, 에 “는 ‘뒤’이다.” 하였으니, 내전의 일을 책임지고 다스리면서 천자의 뒤에 있는 것이다. ≪이아爾雅≫ 〈석고釋詁〉에 “는 짝이다.” 하였는데 남편에게 짝이 됨을 말한 것이다.
천자天子의 아내만을 ‘’라고 칭하고 ‘’는 상하上下에 통용하는 호칭이기 때문에 ‘’를 ‘’에 짝하여 말하였다. ‘’은 ‘얻는다’로, 본디 몸에 체득한 것이니, 사람의 행실을 총괄하는 명칭이다.
이 편은 후비后妃가 성품과 행실이 부드럽고 온화하며, 올곧고 전일한 덕으로 아랫사람을 감화시키며, 오매불망 어진 이를 구하고 직분을 다함을 말하였으니, 이것이 후비后妃의 덕이다.
주남周南소남召南은 실제로 문왕文王교화敎化인데 후비后妃의 덕을 찬미한 것은, 부부夫婦인륜人倫의 핵심이기 때문에 부부夫婦가 바르면 부자父子가 친하고, 부자父子가 친하면 군신君臣이 공경한다.
이 때문에 를 지은 자가 성정性情을 노래하였고, 음양陰陽이 중하기 때문에 시의 바탕으로 삼아 남녀의 일을 노래한 것이 많다.
후비后妃를 찬미하는 내용을 말하지 않은 것은, 이 시를 지은 이유가 후비의 덕택에 감화되어 후비의 성품과 행실을 노래함으로써 성군聖君교화敎化를 드러내고자 하여, 알려지지 않은 부분을 드러내어 말한 것이지 후비가 이러한 행실을 한 것을 포상褒賞하고자 한 것이 아니기 때문이다.
그리하여 정풍正風에서 으레 찬미하는 내용을 말하지 않은 것은 모두 이 뜻이다. 변풍變風에서는 정교政敎가 이미 실추되어 악을 행하는 사람이 많았으므로 만일 선을 행하는 사람이 있으면 그 선한 일을 포상하였다.
그리하여 험윤玁狁을 정벌함에 비로소 우국憂國의 마음을 알 수 있고, 호천昊天을 우러름에 비로소 비를 구하는 간절한 마음을 알 수 있었으니, 뜻이 정풍正風과 다르다. 그리하여 에서 편마다 찬미하는 내용을 말한 것이다.
국풍國風의 시작이니 천하를 교화하여 부부의 도를 바르게 한 것이다. 그리하여 이 시를 향인鄕人들에게 사용하고 방국邦國에도 사용하였다.
○‘풍지시風之始’의 이 ‘’은 15국풍國風을 말한 것이니 ‘’은 제후의 정치와 교화이다. 다음의 ‘소이풍천하所以風天下’는 ≪논어論語≫의 “군자지덕풍君子之德風(군자의 덕은 이다.)”과 함께 모두 이러한 뜻이다.
소이풍所以風〈의 〉’은 본래의 음으로 읽는다. 서막徐邈반절反切로 보았으나 지금은 쓰이지 않는다.
의 [풍지風之]에서 [국언國焉]까지
정의왈正義曰에서 후비后妃가 〈군자를 위하여〉 숙녀淑女를 얻음을 기뻐하고, 자신의 아름다움을 지나치게 드러내지 않는 것은 집안사람의 작은 일일 뿐인데도 ≪시경詩經≫의 첫 편으로 삼고 그것으로 가악歌樂을 만들었다.
그러므로 후비后妃 아래에 곧바로 이 뜻을 거듭 밝혀 후비后妃가 아름다운 덕을 소유한 것이 문왕文王풍화風化의 시작임을 말한 것이다.
문왕이 교화를 행한 것이 그 아내에서 시작되었으니, 이것을 풍교風敎의 시작으로 삼아 천하의 백성을 풍화風化하여 그들로 하여금 모두 부부의 도를 바르게 하였음을 말한 것이다.
주공周公예악禮樂을 제정하여 향인鄕人에게 사용하되 향대부鄕大夫로 하여금 그 백성들을 교화하게 하고, 또 방국에 사용하되 천하의 제후로 하여금 예악을 가지고 그 신하들을 교화하게 하였다.
천자로부터 서민에 이르기까지 다 이 시를 알아 모두 부부의 도를 바르게 하기를 바랐다. 그리하여 정현鄭玄의 ≪시보詩譜≫에 “천자와 제후가 그 신하들에게 잔치를 열 때에 모두 〈녹명鹿鳴〉을 노래하고 향악을 합주하였다.”는 것이 이것이다.
의례儀禮≫ 〈향음주례鄕飮酒禮〉는 향대부鄕大夫가 3년마다 어질고 능력 있는 사람을 빈객의 예로 천거하는 일인데, 그 에 “〈주남 관저周南 關雎〉를 함께 연주하였다.” 하였으니, 이는 〈관저關雎〉를 향인鄕人에게 쓴 것이다.
연례燕禮제후諸侯가 그 신하나 빈객들에게 술을 대접하고 잔치를 베푸는 인데, 그 에 “마침내 향악과 〈주남 관저周南 關雎〉를 노래하였다.” 하였으니, 이는 〈관저關雎〉를 방국에 쓴 것이다.
교화를 펴는 법은 위로부터 내려오는 것이니, 당연히 천자가 제후를 교화하고 〈제후가〉 대부를 교화하며, 대부가 그 백성들을 교화하는 것이다.
이제 여기에서 천하를 교화하고 부부의 도를 바르게 하는 것을 먼저 말하였으니, 이미 교화가 백성들에게 미쳐서 마침내 백성에게까지 넓혀진 것이므로 향인을 먼저 말하고 방국을 뒤에 말하였다.
노자老子의 ≪도덕경道德經≫에 “도를 집에서 닦으면 덕이 여유 있게 되고, 나라에 닦으면 그 덕이 풍성해지며, 천하에 닦으면 그 덕이 널리 퍼진다.” 한 것도 좁은 곳에서부터 넓은 곳으로 미친 것이니, 이와 같은 뜻이다.
’은 바람을 일으키는 것이고 가르치는 것이니, 바람을 일으켜 움직이게 하고 가르쳐 변화하게 하는 것이다.
○‘풍 풍야風 風也〈위의 자와 아래의 자는〉 모두 본음대로 읽는다. 서씨徐氏(서막徐邈)는 위의 은 본음대로 읽고 아래의 은 ‘반절反切’로 보았다. 최영은崔靈恩모시주본毛詩注本에는 아래의 자가 자로 되어 있다.
유씨劉氏(유환劉瓛)는 “물건을 흔드는 것을 이라 하고 뜻을 음성에 가탁하는 것을 이라 한다.” 하고, 최영은崔靈恩은 “풍자하여 물건을 감화시키는 것을 이라 한다.” 하고,
침중沈重은 “위의 은 ‘국풍國風’이니 ≪시경詩經≫의 육의六義이고, 아래의 은 ‘풍백風伯고동鼓動한다’는 이다. 임금이 위에서 교화하여 만물을 변화하게 하는 것이 ‘바람이 지나가면 풀이 눕는 것’과 같다.” 하였으니, 이제 침중沈重을 따른다.
풍이동지風以動之’의 은 본음대로 읽으니, 침중沈重이 “아랫사람이 윗사람을 풍자하여 감동시키는 것을 이르는 명칭이니 ‘변풍變風’이다.” 하였으나, 지금은 적용하지 않는다.
의 [풍 풍風 風]에서 [화지化之]까지
정의왈正義曰:위에서 말한 ‘풍지시風之始’는 천하를 교화시키는 처음을 말한 것이다. 에서 또 명칭을 풀어 의 뜻으로 삼아 ‘’을 ‘풍자하다’와 ‘교화하다’로 풀었으니,
’은 넌지시 알리는 것이고 ‘’는 은근히 가르쳐서 보여주는 것이므로 ‘’은 ‘’와 처음과 끝의 다른 명칭일 뿐이다.
왕이 교화를 펼 때에 먼저 풍유諷諭에 의지하여 교화하여 백성들이 점차 깨우치면 그런 뒤에야 교명敎命을 밝혀 교화한다. 바람이 부는 곳에는 어떤 사물이든 흔들리지 않는 것이 없고, 교화가 미치는 곳에는 이르는 곳마다 젖어들지 않는 것이 없으므로 명칭을 취한 것이다.
는 뜻이 옮겨가는 것이니, 마음에 있으면 뜻이고 말로 드러내면 시가 된다.
의 [시자詩者]에서 [위시爲詩]까지
정의왈正義曰:위에서는 시로 교화함을 말하였고, 여기에서는 또 시가 지어진 연유를 말하였다. 는 사람의 뜻이 옮겨가는 것이니,
비록 옮겨가는 바가 있더라도 입으로 표현되지 않고 마음속에 보존되어 있으면 ‘’라 하고 말로 표현되어야만 ‘’라 한다.
‘시를 짓는다’는 것은 마음속의 울분을 펼쳐내어 마침내 노래하고 읊조리는 것이다. 그리하여 ≪상서尙書≫ 〈우서 순전虞書 舜典〉에 “시는 뜻을 말하는 것이다.”라고 한 것이다.
온갖 생각을 간직한 것을 마음이라 하고, 사물에 감촉되어 움직이는 것을 뜻이라 한다.
뜻이 옮겨감에 외물이 이에 감촉되어 응하니, 기쁜 뜻을 가지면 화락한 마음이 일어나 칭송하는 소리가 일어나고, 근심하는 뜻을 가지면 서글픈 마음이 일어나 원망과 풍자가 생겨나는 것을 말한다.
한서漢書≫ 〈예문지藝文志〉에 “슬프고 즐거운 정서를 느끼면 가영歌詠의 소리가 일어난다.” 한 것이 이것이다. 정풍正風변풍變風을 함께 시라고 하는 것은 모두 뜻이 옮겨간 것이기 때문이다.
감정이 마음속에서 움직이면 말에 드러나는데, 말로는 부족하기 때문에 감탄하고 탄식하며, 감탄하고 탄식하는 것으로는 부족하기 때문에 길게 노래하고, 길게 노래하는 것으로는 부족하기 때문에 자신도 모르게 손으로 춤추고 발로 구른다.
○‘’는 감탄이다. ‘’은 ‘’으로 되어 있는 도 있으니 탄식이다. ‘’는 발을 움직여 땅을 밟는 것이다.
의 [정동情動]에서 [도지蹈之]까지
정의왈正義曰:위에서 ‘〈마음에 있으면 뜻이고〉 말로 드러내면 시가 된다.’라 하여 시와 뜻의 차이를 구별하였으나, 말만 하는 것은 시가 아니므로 다시 시는 길게 노래한다는 뜻을 서술하였다.
’은 슬퍼하고 즐거워하는 감정을 말하고 ‘’은 속마음을 말하니, 슬퍼하고 즐거워하는 감정이 속마음에서 움직여 입으로 나와 말로 드러냄을 말한 것이다.
처음 말을 할 때에는 다만 평이平易하게 말할 뿐이니, 평이하게 말하여 뜻을 다 표현하지 못하면 말로 뜻을 다 펴지 못할까 염려하여 감탄하고 탄식함이 어울려 이어지고,
감탄하고 탄식함으로도 부족할까 염려하여 길게 소리를 내어 노래하고, 길게 노래를 하는 것으로도 부족할까 염려하여 문득 자신도 모르게 손을 들어 춤추고 발로 구르게 된다는 것이다.
말하자면 몸이 마음의 지배를 받아 자신도 모르게 손을 들어 춤추고 발로 구르는 것이니, 이와 같은 뒤에라야 마음속의 울분을 펼 수 있으므로 시는 반드시 길게 노래하는 것임을 말하였다.
성왕聖王이 사람의 감정이 이와 같음을 알아 시를 음악에 사용하였으니, 사람들로 하여금 소리를 내어 노래하고 읊조리게 한 것은 그 음영吟詠하는 말을 표현한 것이고, 동작하고 춤추는 것은 그 춤추고 구르는 것을 표현한 것이니, 슬프고 즐거운 형상을 갖추어 표현한 뒤에야 그 마음을 다할 수 있기 때문이다.
정동어중情動於中’은 곧 ‘재심위지在心爲志’이고, ‘형어언形於言’은 곧 ‘발언위시發言爲詩’이니, 위에서는 에서 나오는 것을 분별하여 밝혔고, 여기에서는 시는 반드시 노래해야 하는 것을 말했으므로 글을 중복시킨 것이다.
정본定本에는 ‘언지부족고차탄지言之不足故嗟歎之’라 하였는데 속본俗本에는 ‘언지言之’ 아래에 ‘’자가 있으니 잘못이고, 정본定本에는 ‘영가지부족永歌之不足’ 아래에 ‘’자가 없는데 〈속본俗本에는〉 ‘’자가 있는 것도 잘못이다.
예기禮記≫ 〈악기樂記〉에 “라는 것은 길게 말하는 것이다. 기뻐하므로 말을 하고, 말하는 것으로는 부족하므로 길게 말하며,
길게 말하는 것으로는 부족하므로 감탄하고 탄식하며, 감탄하고 탄식하는 것으로는 부족하므로 손을 들어 춤추고 발로 구른다.” 하였으니, 〈악기樂記〉의 글이 ≪시경詩經≫과 거의 같다.
설지고언지說之故言之’는 ‘말하기 전의 감정이 입으로 나옴’을 말한 것이니 이 경의 ‘정동어중이형어언情動於中而形於言’과 같다.
상서尙書≫ 〈우서虞書〉 “가영언歌永言”의 에 “노래는 시의 뜻을 길게 말한 것이다.” 하였으니 ‘영가永歌’와 ‘장언長言’은 한 가지 일이다.
악기樂記〉의 에 “차탄嗟歎이 어울려 이어진 것이다.” 하였으니, 말을 한 뒤에 감탄하고 탄식하는 소리가 그 말과 어울려 이어짐을 말한 것이다.
악기樂記〉는 먼저 ‘장언지長言之’를 말하고 이어서 ‘차탄지嗟歎之’를 말했는데, 여기서는 먼저 ‘차탄지嗟歎之’를 말하고 ‘영가지永歌之’를 말한 것은 다만 차탄하고 나서 길게 노래하고 또 다시 차탄함을 말한 것이니, 피차 각각 그 한 가지를 말하였으므로 같지 않은 것이다.
한서漢書≫ 〈예문지藝文志〉에 “말을 외우는 것을 시라 하고 그 소리를 읊조리는 것을 노래라 한다.” 하였으니, 그렇다면 마음에 있는 것이 ‘’가 되고, 입으로 나온 것이 ‘’이 되며,
말을 외우는 것이 ‘’가 되고, 소리를 읊조리는 것이 ‘’가 되며, 팔음八音으로 연주하는 것을 ‘’이라 하니, 모두 처음부터 끝까지의 다른 이름일 뿐이다.
감정이 소리로 표현되어 소리가 문양文樣을 이룬 것을 이라 한다.
’은 ‘드러남’과 같다. ‘’은 를 말하니 ‘성성문聲成文’은 가 상하로 서로 응하는 것이다.
○‘’은 ‘응대한다’의 이니 아래의 도 같다.
의 [정발어情發於]에서 [지음之音]까지
정의왈正義曰:‘정발어성情發於聲’은 사람의 슬프고 즐거운 감정이 말하는 소리에 드러나는 것이니, 이때는 비록 슬프고 즐거운 일을 말하지만 궁상宮商의 음조가 없어 단지 소리일 뿐이다.
시를 짓게 되면 음의 청탁을 차서에 맞게 하고 높낮이를 박자에 맞게 하여 오성五聲으로 곡이 되게 하는 것이 오색으로 문양을 이루는 것과 같으니, 혼자서 능히 할 수 있는 것이다.
그 문양을 이룬 소리에 의지하는 것이 바로 ‘’이고, 이 음을 악기에 올린 뒤에야 ‘’이라 명명하니 비록 사람에게 있고 악기에 있더라도 모두 ‘’이라 할 수 있다.
아래 글에서 ‘치세治世’이라고 한 것은 악음이니, 여기의 ‘성성문 위지음聲成文 謂之音’도 음악의 ‘’을 말한 것이다.
음악의 처음을 따져보면 음악은 사람의 음성을 모방하니, 사람의 음성은 크고 작으며 높고 낮음의 차이가 있고, 악기는 의 차이가 있는데 사람의 음성에 따라 악기를 만들고 악기에 의탁하여 사람의 음성을 묘사한다.
이는 음악이 사람을 본받은 것이지 사람이 음악을 본받은 것이 아니다. 다만 악곡樂曲이 정해져서 법이 먼저 이루어지면 후인後人이 시를 지을 때 옛 법에 따라 맞추니, 이것이 ‘성성문 위지음聲成文 謂之音’이다.
만약 음악이 만들어진 초기를 근거해보면 사람이 문양을 이룰 수 있어야만 음악의 영역에 들어갈 수 있고, 만약 악곡樂曲이 만들어진 뒤를 근거해보면 사람이 시를 지을 때에 먼저 이루어진 악곡의 곡조를 따라야만 음악이 될 수 있다.
소리는 감정을 묘사하기 때문에 〈소리를 들으면〉 감정을 모두 알 수 있다. 음악을 듣고서 치란治亂을 알고, 음악을 관찰하여 성쇠盛衰를 안다. 그리하여 신고神瞽취향趣向을 알 수 있었다.
가령 말을 한다 해도 진정한 뜻이 아니면 실정을 속이는 것이니, 감정이 소리에 나타나므로 거짓임을 알 수 있다.
저 흰 실을 가지고 비단을 만들 때 어떤 것은 빛깔은 고운데 재질이 엉성하거나 어떤 것은 무늬는 조악한데 재질이 좋은 것은 오직 훌륭한 상인만이 분별한다.
가요歌謠를 가져다가 음악에 맞추어 연주할 때 어떤 것은 말은 옳지만 뜻이 그르거나, 어떤 것은 말은 그르지만 뜻이 옳은 것은 오직 음악을 잘 아는 사람만이 알 수 있다.
예기禮記≫ 〈악기樂記〉에 “슬픈 마음이 감촉된 경우는 그 소리가 애절하면서 급하고, 즐거운 마음이 감촉된 경우는 소리가 밖으로 펴져 흩어진다.” 하였으니 이는 감정의 감촉된 것이 음악에 이입된 것이다.
계찰季札이 ‘당풍唐風’을 노래하는 것을 보고 “생각이 깊도다. 아마 임금 유민들의 노래일 것이다.” 하였으니 이는 음악의 성음이 그 실정을 얻은 것이다.
만약 사부辭賦에서만 취하고 음성을 이해하지 못하면 몸은 걸주桀紂의 행실을 하면서 입으로 요순堯舜의 말을 한다 해도 알 수가 없다.
이 때문에 〈초자楚茨〉와 〈대전大田〉 등은 모두 성왕成王을 진술하고 〈행로行露〉와 〈여분汝墳〉은 모두 주왕紂王 때의 을 진술하였으나,
여분汝墳〉을 왕자王者의 ‘국풍國風’으로 삼고 〈초자楚茨〉를 허물을 풍자한 ‘’로 삼았으니, 태사가 지어진 뜻을 알고 본래의 실정을 알았기 때문이다.
의 [발유發猶]에서 [상응相應]까지
정의왈正義曰:≪주례周禮≫ 〈춘관 대사직春官 大師職〉에 “오성五聲으로 문양을 냈으니 이다.” 하였으니 소리가 반드시 다섯 가지가 있으므로 오성五聲의 이름을 인용하여 해석한 것이다.
오성五聲오방五方에 배치되니 ≪예기禮記≫ 〈월령月令〉에 “이고 西이며 이고 이며 중앙中央이다.” 하여 명칭을 정하고 다시 방위의 뜻으로 삼은 것이다.
한서漢書≫ 〈율력지律曆志〉에 “의 뜻은 이니 사물이 성숙하여 헤아릴 수 있는 것이고, 이니 사물이 땅을 뚫고 나와 까끄라기를 이고 있는 것이며,
이니 중앙에 위치하여 사방으로 통하여 만물을 태어나게 하니 사성四聲의 벼리가 되는 것이고, 이니 만물이 성대하여 다복多福한 것이며, 이니 만물을 거두어 모아 집에 보관하는 것이다.” 하였다.
또 “은 군주이다.” 하였으니, 군주는 이고 의 수는 9에서 끝이 되므로 의 수는 81이다. 이를 3으로 나누어 그 하나를 제하면 가 나오니 의 수는 54이고,
이를 3으로 나누어 그 하나를 더하면 이 나오니 의 수는 72이며, 이를 3으로 나누어 그 하나를 제하면 가 나오니 의 수는 48이고, 이를 3으로 나누어 그 하나를 더하면 이 나오니 의 수는 64이다.
예기禮記≫ 〈악기樂記〉에 “소리가 서로 응하므로 변화가 생기고, 변화한 것이 문양(노래의 곡조)을 이룬 것을 ‘’이라 한다.” 하였는데, 그 에 “문장文章과 같다.” 하고, “악기가 을 연주할 때에 많은 악기가 으로만 응한다면 음악이 되기에는 부족하다. 이 때문에 그것에 변화를 주어 뒤섞이게 한다.” 하고,
춘추좌씨전春秋左氏傳소공昭公 20년에 “만약 물에 물을 탄다면 누가 먹을 수 있겠는가. 만약 금슬琴瑟로 오로지 한 음만을 연주한다면 누가 들을 수 있겠는가.”라고 한 것을 인용하였으니, 이는 소리가 반드시 뒤섞여야 하는 뜻을 풀이한 것이다. 여기에 ‘성성문 위지음聲成文 謂之音’이라고 말하였으니, 그렇다면 ‘’과 ‘’을 구분한 것이다.
그런데 〈악기樂記〉의 에 “여러 가지가 조화를 이룬 것을 ‘’이라 하고 한 가지 소리만 나는 것을 ‘’이라 한다.” 하고, 〈악기樂記〉에 또 “‘’을 살펴 ‘’을 알고 ‘’을 살펴 ‘’을 안다.” 하였으니, 그렇다면 세 가지는 다른 것이다.
’이 변화되어야 ‘’을 이루고, ‘’이 조화된 뒤에야 ‘’을 이루므로 구별하여 세 가지로 부른 것이니, 대문對文인 경우에는 구별하고 산문散文인 경우에는 통용할 수 있다.
계찰季札이 〈진풍秦風〉을 노래하는 것을 보고 “이는 하성夏聲이다.” 하고, ≪춘추공양전春秋公羊傳≫에 “10분의 1을 수세收稅하니 칭송하는 소리가 자자했다.” 했으니, ‘’이 곧 ‘’이고,
아래에서 말한 ‘치세지음治世之音’의 ‘’은 곧 ‘’이니, ‘’과 ‘’과 ‘’이라는 명칭을 통할 수 있는 것이다.
예기禮記≫ 〈악기樂記〉에 자하子夏위 문후魏 文侯에게 “임금께서 묻는 것은 ‘’이고 좋아하는 것은 ‘’입니다. ‘’은 ‘’과 비슷하나 같지 않습니다.”라고 대답하여 또 ‘’과 ‘’이 다른 것이라고 했다.
이는 문후文侯가 ‘고악古樂’과 ‘신악新樂’을 아울러 물을 적에 두 가지를 ‘’이라 불렀으니, ‘’과 ‘’을 같다고 여긴 것이다.
자하는 고악古樂은 민심을 따르고 신명에 합하여 천하의 백성들과 함께 즐길 수 있으므로 명칭을 정하여 ‘’이라고 하고, ‘신악新樂’이라고 한 것은 여색에 빠져 덕을 해치므로 다만 ‘’일 뿐이라고 거듭 말한 것일 뿐이다.
그리하여 ‘익음溺音’이라고 달리 말하여 문후를 깨우쳤을 뿐이고 ‘’과 ‘’이 다른 것은 아니다.
악기樂記〉에 “음악淫樂특례慝禮”라 하고 자하도 ‘고악古樂을 연주한 결과’, ‘신악新樂을 연주한 결과’라 하였으니, 의 ‘’도 ‘’이다.
치세治世의 음은 편안하고 즐거우니 그 정사가 조화롭고, 난세亂世의 음은 원망하고 노여우니 그 정사가 괴리되며, 망해가는 나라의 음은 애절하고 〈치세를〉 그리워하니 그 백성이 곤궁하다.
의 [치세治世]에서 [민곤民困]까지
정의왈正義曰에서 ‘정견어성情見於聲’이라 하고 또 ‘성수세변聲隨世變’이라 하였으니, 치세治世의 음이 편안하면서 기쁘고 즐거운 것은 정교政敎가 화목하기 때문이고,
난세亂世의 음이 원망하면서도 성내고 노여워하는 것은 정교가 어긋나기 때문이며, 망해가는 나라의 음이 슬프고 근심스런 것은 백성들이 곤궁하고 괴롭기 때문이다.
악기樂記〉에 “슬픈 마음이 감촉된 경우는 그 소리가 애절하면서 급하고, 즐거운 마음이 감촉된 경우는 그 소리가 여유로우면서 느리다.” 하였으니, 〈악기樂記〉는 음악 속에 두 가지 일이 겸하여 있음을 말하였으니, 의 ‘안이락安以樂’과 ‘원이노怨以怒’도 〈악기樂記〉의 글과 같다.
치세治世의 정교는 민심民心화순和順케 하니 백성이 교화를 편안히 여겨 기쁘고 즐거워한다. 편안하고 즐거운 마음을 따라 노래를 만들므로 치세의 음도 편안하고 즐거운 것이다.
주송 양사周頌 良耜〉에 “집집마다 곡식이 그득하니, 처자들이 편하게 먹고 사네.” 하였으니 지극히 편안한 것이고, 〈소아 잠로小雅 湛露〉에 “질탕하게 밤에 술 마시니 취하지 않으면 돌아가지 않으리라.” 하였으니 지극히 즐거운 것이며,
소아 천보小雅 天保〉에 “백성들이 질박하여 날로 마시고 먹네.” 하였으니 이는 그 정사가 화평한 것이다.
난세의 정교는 민심과 어긋나므로 백성들이 그 정교를 원망하여 분노한다. 원망하고 분노하는 마음을 따라 노래를 만들므로 난세의 음도 원망하고 분노하는 것이다.
소아 육아小雅 蓼莪〉에 “남들은 다 잘 사는데 왜 나만 해를 입는가.” 하였으니 지극히 원망한 것이고, 〈항백巷伯〉에 “남을 참소하는 사람 잡아다가 승냥이나 호랑이에게 던져주리.” 하였으니 매우 분노한 것이며,
시월지교十月之交〉에 “우리 담장과 지붕을 걷어내고 밭은 웅덩이와 쑥대밭이 되었네.” 하였으니 정사가 어긋난 것이다. 나라가 망하려 하면 백성들이 곤액을 당해 자신의 신세를 슬프고 가슴 아프게 생각하여, 치세治世를 그리워한다.
그 슬프고 그리워하는 마음을 따라 노래를 만들므로 망해가는 나라의 음도 슬프고 그리워하는 것이다.
초지화苕之華〉에 “내가 이럴 줄 알았다면 태어나지나 말걸.” 하였으니 매우 슬퍼한 것이고, 〈대동大東〉에 “고개를 돌려 그 길을 돌아보며 줄줄 눈물을 흘리노라.” 하였으니 그리움이 간절한 것이며,
정월正月〉에 “지금 백성들이 복이 없어 하늘이 해를 내려 해치도다.” 하였으니 백성들이 곤궁한 것이다.
시는 백성들의 뜻을 기술하고, 음악은 백성들의 시를 노래하므로 시정時政의 선과 악이 음에 드러난 것이다.
치세治世는 천하가 화평함을 이르고 난세亂世는 전쟁이 계속됨을 말하며 망국亡國은 망하려 하는 나라를 말한다.
난세는 세상은 어지럽지만 나라가 보존됨을 말하므로 ‘’로 말하였고, 망국은 나라가 망하여 세대가 끊어질 것이므로 ‘’로 말하지 않았다.
난세는 ‘’을 말하고 망국은 ‘’을 말하지 않은 것은, 백성이 곤궁한 것은 반드시 정치가 포악해서이니 백성들의 곤궁함을 들어서 엄중하게 말하였으므로 ‘’을 말하지 않은 것이다.
망국은 실제는 나라가 아직 망하지 않았으나 그 나라의 노래를 관찰하여 반드시 망할 것을 알았으므로 망국이라고 했을 뿐이니 이미 망한 것은 아니다. 만약 이미 망한 나라라면 다시는 지어진 시가 없어 망국의 음이 있을 수 없다.
에서 말한 난세와 망국은, 현인賢人군자君子가 그 나라의 음악을 듣고 망할 나라와 난세임을 알았으므로 ‘난세지음亂世之音’․‘망국지음亡國之音’이라 한 것이다.
예기禮記≫ 〈악기樂記〉에서 말한 “의 음은 난세亂世의 음이고, 상간복상桑間濮上의 음은 망국亡國의 음이다.” 한 것은 이와는 다르다.
음란하고 방탕한 사람이 백성의 위에 군림하여 뜻을 채우고 마음대로 욕심을 부려 술과 음악에 탐닉하여 새로운 음악을 만들어 스스로 즐겨서, 그 음이 모두 즐거운 마음으로 만들었기 때문에 애절하고 원망함이 없다.
악기樂記〉에 “은 즐거운 것이니 군자君子는 도를 얻음을 즐거워하고, 소인小人은 욕심을 이룬 것을 즐거워한다.” 하였으니, 〈악기樂記〉의 ‘악득기욕樂得其欲’은 ‘음악淫樂(음란한 음악)’이라고 말하는 것이다.
이러한 음악을 하는 경우에는 반드시 난세가 되고 나라를 망하게 하므로 역시 ‘난세지음亂世之音’․‘망국지음亡國之音’이라 했을 뿐이니 와는 다르다.
만일 그렇다면 〈악기樂記〉와 는 슬퍼함과 즐거워함이 백성들의 감정에서 나오고 음악이 백성들의 감정을 따라 변함을 말한 것이니, 이는 사람이 음악을 변하게 한 것이고 음악이 사람을 변화시킨 것이 아니다.
악기樂記〉에 “사람의 마음이 외물에 감촉된 뒤에 움직이므로 선왕이 감촉시키는 것을 삼갔다. 그리하여 음악을 만들어 그 소리를 조화롭게 하였으니, 음악이 사람을 감동시킴이 깊어 그것으로 풍속을 바꾸었다.” 하였고,
또 “뜻이 은미하며 애절하고 초조한 음악이 유행하면 백성들이 근심하고 걱정하며, 청렴하고 곧으며 장엄하고 성실한 음악이 유행하면 백성들이 엄숙하고 공경하며, 넉넉하고 순조롭게 이루어짐을 노래한 음악이 유행하면 백성들이 자애롭고, 방탕하며 악하고 산란한 음악이 유행하면 백성들이 음란하다.” 하였으니,
악기樂記〉의 글대로라면 또 이는 음악이 사람을 변화시킬 수 있고, 음악은 왕자王者가 만든 것이기 때문에 백성들이 음악을 따라 변한 것이다.
는 백성들이 음악을 변화시킬 수 있음을 말하고 〈악기樂記〉는 음악이 사람을 변화시킬 수 있음을 말한 것은, 다만 백성들이 많고 현우賢愚가 같지 않으므로 현철賢哲들의 노래와 채취한 시로 음악을 만들어서,
현자賢者들이 즐거워하는 것을 가지고 우자愚者들로 하여금 즐거움을 삼게 하고, 지자智者의 마음을 취하여 부지자不智者의 마음을 변화시키는 것이니, 를 제정하는 일도 이와 같다.
는 사람의 감정에 맞추어 법도를 조절하여 현자賢者는 낮추어서 나아가게 하고 불초자不肖者는 발돋움하여 미치게 한 것이니, 하민下民이 행할 것이지 성인이 행할 것은 아니다.
성왕聖王이 또한 현자의 행실을 취하여 어질지 않은 사람을 교화하고, 중도를 얻은 사람의 행실을 들어 중도를 얻지 못한 사람을 제재한 것이다.
예기禮記≫ 〈문상問喪〉에 “는 하늘에서 떨어진 것도 아니고 땅에서 솟은 것도 아니고 인정일 뿐이다.” 하였으니, 이는 예의 본의가 백성에게서 나왔다는 것이다.
악기樂記〉에 또 “음의 시작은 사람의 마음에서 생겨난 것이고, 악은 그 마음에 생겨난 것을 즐거워한 것이다.” 하였으니 이는 음악의 본의가 백성에게서 나왔다는 것이다.
악기樂記〉에 또 “외물이 사람을 감동시키는 것이 무궁한데 사람이 좋아하고 미워하는 것에 절도가 없으면 이는 외물이 이름에 사람이 외물에 동화되니, 사람이 외물에 동화된다는 것은 천리를 멸하고 인욕人慾을 다 채우는 것이다.
여기에서 패역과 거짓의 마음이 생기며 음란함과 난을 일으키는 일이 있게 되므로 선왕이 예를 제정하고 음악을 만들어 절제하게 하였다.” 하였으니, 이는 왕이 백성들의 실정을 채집하여 예악을 제정한 뜻이다.
예악은 본디 백성에게서 나와 다시 백성을 교화하니, 구름이 산에서 나와 다시 그 산에 비를 내리는 것과 불이 나무에서 나서 도리어 그 나무를 태우는 것과 다시 무엇이 다르겠는가.
그리하여 잘못을 바로잡고 천지를 움직이며 귀신을 감동시키는 것은 시보다 나은 것이 없다.
○‘정득실正得失’을 초주는 “사람의 잘못을 바로잡는 것이다.” 하였고, ‘’으로 되어 있는 본도 있어서 ‘정교를 말한다.’라고도 하니, 둘 다 통한다.
의 [고정故正]에서 [어시於詩]까지
정의왈正義曰:위에서 시를 음에 맞추어 연주하고, 음악은 정사를 따라 변한다고 말하였으니, 정사의 선악이 모두 시에 있다. 그러므로 또 시의 공덕을 말한 것이다.
시를 가지고 악장樂章을 만드는 까닭에 사람의 잘못된 행실을 바로잡고, 천지의 신령을 변동시키며, 귀신의 뜻을 감동시키는 것이 시보다 나은 것이 없다. 시가 가장 낫다고 말했으니 다른 일은 이보다 우선할 것이 없는 것이다.
춘추공양전春秋公羊傳≫에서 ≪춘추春秋≫의 공덕을 말하여 “난세를 다스려 정도로 돌아가게 한 것은 ≪춘추春秋≫보다 나은 것이 없다.” 하였는데, 하휴何休가 “‘막근莫近’은 그것보다 나은 것이 없다.’는 것과 같다.” 하였다.
의 도가 이 세 가지 일을 지닐 수 있는 것은, 는 뜻을 노래한 것이고 노래는 사람의 정성精誠을 노래한 것이니, 정성이 지극하면 사람끼리 서로 감응하기 때문이다.
시인詩人이 잘잘못을 진술하여 권면하고 경계로 삼아 사람들로 하여금 선을 행하고 악을 행하지 못하게 하니, 잘못을 한 사람에게 모두 이 시를 얻어 노래하여 잘못을 바로잡을 수 있게 하는 것이다.
널리 사람의 잘못을 바로잡는 것이니 군주의 잘못을 바로잡는 것만이 아니다. 아래에서 “윗사람은 교화로써 아랫사람을 변화시키고 아랫사람은 노래로써 윗사람을 풍자한다.” 하였으니, 상하가 모두 사람을 바로잡는 것이다.
인군人君이 진실로 시인詩人의 아름다운 말을 쓰고 가악嘉樂의 바른 음악을 들어, 가령 선한 이에게 상 주고 악한 이에게 벌주는 도를 모두 합당하게 한다면 천지로 하여금 영험을 보이게 하고 귀신으로 하여금 복을 내리게 할 수 있다.
그리하여 〈악기樂記〉에 “간성姦聲이 사람을 감촉하면 역기逆氣가 응하고 역기가 형상을 이루면 음란한 음악이 일어나며, 정성正聲이 사람을 감촉하면 순기順氣가 응하고 순기가 형상을 이루면 화락한 음악이 일어난다.” 하고,
또 “노래는 사람이 자기를 곧게 하여 덕을 펴는 것이니, 자기를 움직이면 천지가 감응하고 사시四時가 조화로우며, 성신星辰의 운행이 순조롭고 만물이 생육된다.” 하였으니, 이는 소리가 외물을 감동시켜 순기나 역기를 이르게 할 수 있음을 말한 것이다.
천지天地에 대해서는 이라 하고 귀신鬼神에 대해서는 이라 한 것은 호언互言일 뿐이다. ≪주례周禮≫의 이라 하고 라 하며 라 하는데, 귀신은 천지와 상대하여 사람의 귀신만을 일컬은 것이다.
사람이 바르게 된 뒤라야 천지와 귀신을 감동시킬 수 있으므로 먼저 ‘정득실正得失’을 말한 것이다. 여기의 ‘정득실正得失’은 ‘아자 정야雅者 正也’와 ‘정시지도正始之道’와 함께 ‘’이 ‘’으로 되어 있는 본이 있으니 모두 잘못된 것이다. 지금 정본定本에는 모두 ‘’으로 되어 있다.
선왕이 를 이용하여 부부를 떳떳하게 하고 효도와 공경을 이루며, 인륜을 도탑게 하고 교화를 따르게 하며 풍속을 개선하였다.
의 [선왕先王]에서 []까지
정의왈正義曰:위에서는 가 공덕이 있음을 말하고, 여기에서는 시를 사용하는 일을 말하였다. ‘경부부經夫婦’의 ‘’은 떳떳함이다.
부부夫婦의 도는 떳떳함이 있으니, 남자는 밖에서 자리를 바르게 하고 여자는 안에서 자리를 바르게 하여 도리에 맞는 선한 말에 어긋남이 없는 것이 부부의 떳떳함이고, 가족이 흩어지고 부부가 반목하는 것은 떳떳하지 않은 것이다.
백성들을 교화하여 부부의 도를 떳떳하게 하는 것은 ≪상서商書≫의 ‘그 덕을 떳떳하게 하다.’와 같다. ‘성효경成孝敬’은 효도로 어버이를 섬겨 임금에게 옮기고, 공경으로 어른을 섬겨 존귀한 이에게 옮기는 것이다.
만약 임금과 어버이에게 죄를 짓고 어른과 존귀한 이에게 실망을 주었다면 이는 효도와 공경이 이루어지지 않은 것이다. 그리하여 백성들을 교화하여 공경과 효도를 이루게 하는 것이다.
후인륜厚人倫’의 ‘’은 도리道理이다. 군신과 부자간의 의리, 붕우朋友의 사귐, 남녀男女의 구별이 모두 사람의 떳떳한 도리이다.
부자가 친애하지 않고 군신이 공경하지 않으며, 붕우의 도가 끊어지고 남녀간에 덕음德音에 어긋남이 많은 것은 사람의 도리가 박해진 것이다. 그리하여 백성들을 교화하여 인륜을 도탑게 하는 것이다.
미교화美敎化’의 ‘’는 사람들로 하여금 감복하여 싫어함이 없게 하는 것을 말한다. 만약 말을 했는데 백성들이 다 따르지 않는다면 이는 교화가 아직 아름답지 못한 것이다. 그리하여 백성들을 교화하여 이 교화를 아름답게 여기게 하는 것이다.
이풍속移風俗’은 ≪한서漢書≫ 〈지리지地理志〉에 “백성들에게 강유剛柔완급緩急이 있고 음성音聲이 같지 않은 것은 수토水土풍기風氣에 관계되므로 ‘’이라 하는 것이고, 호오好惡취사取舍동정動靜이 임금의 정욕情欲을 따르므로 ‘’이라 한다.” 하였으니,
그렇다면 ‘’은 근본이고 ‘’은 지엽이니, 모두 백성들의 좋아하고 싫어하는 것을 말한다.
완급緩急수토水土의 기운에 관계되어 급하면 조급함에서 잘못되고 완만하면 태만함에서 잘못되니, 임금이 정사를 함에 마땅히 개선하여 완급이 조화를 이루고 강유가 중도를 얻게 해야 한다.
임금의 정욕情欲을 따른다면 임금의 선악을 백성들이 모두 따르는 것이니, 풍속에 잘못됨이 있다면 임금이 정사를 함에 마땅히 바꾸어 선하게 해야 한다.
그리하여 〈지리지地理志〉에 또 “공자孔子께서 ‘풍속을 개선하는 것은 음악보다 좋은 것이 없다.’ 하였으니, 성왕聖王이 위에서 인륜을 다스려 반드시 근본을 옮기고 지엽을 바꾼 뒤에야 왕의 교화가 이루어진다.” 한 것이 이 일이다.
이러한 교화는 모두 시를 사용하여 이루어지므로 ‘선왕이시先王以是’라고 하였으니, ‘’는 사용하는 것이다. 선왕이 시의 도를 이용하여 이 다섯 가지의 일을 하였음을 말한 것이다.
예기禮記≫ 〈왕제王制〉를 살펴보면 “넓은 계곡과 큰 내를 따라 제도를 달리하니, 그 사이에 사는 백성은 풍속이 다르므로 교화는 하되 풍속은 바꾸지 않는다.” 하였는데, 에서는 ‘역속易俗’이라 하고 ≪예기禮記≫에서는 ‘불역不易’이라 한 것은,
예기禮記≫는 오방五方의 백성들 중에 융이戎夷는 풍속이 다르고 언어가 통하지 않으며 기계器械의 제도가 다르므로, 왕자王者가 나아가 보살피되 그 기계를 다시 바꾸거나 그 언어를 같게 하지 않는다. 그리하여 ‘불역기속不易其俗’이라 한 것이니, 이 와는 다르다.
에서 시는 풍속을 바꿀 수 있음을 말하였고 ≪효경孝經≫에서는 음악이 풍속을 개선할 수 있음을 말하였는데, 시는 음악의 핵심이고 음악은 시의 소리이므로 시와 악이 그 효과가 같다. 그렇다면 시와 음악은 서로 함께하니, 시가 없으면 음악이 없는 것이다.
주대周代육대六代의 음악이 보존되었으니, 어쩌면 황제시대黃帝時代도 있었단 말인가. 음악만 있고 시가 없다면 어떻게 풍속을 개선할 수 있겠는가.
그러나 이는 그렇지 않다. 의 시초를 따져보면 사람의 마음에서 시작하여 입으로 부르는 노래가 되고, 성인이 팔음八音의 악기를 만들어 문양을 낸 뒤에야 음이라고 말하고 악이라 말하였다.
이 비록 시를 따라 곡을 만들고 시를 모방하여 을 만들지만, 곡에는 청탁을 배열하는 차례를 두고 음은 궁상이 서로 응하는 가락을 두어 법대로 만들어져서 그 음이 오래갈 수 있는 것이니, 이 때문에 옛날의 시는 비록 사라지더라도 옛날의 은 항상 보존되는 것이다.
은 본래 시로부터 발생하므로 음악이 풍속을 바꿀 수 있는 것이다. 소리로 노래하는 것을 이라 하고 말로 낭송하는 것을 라 한다. 소리와 말이 다르다. 그리하여 때가 다르면 교화를 달리 하는 것이다.
예기禮記≫ 〈왕제王制〉에 “봄에는 을 가르치고 여름에는 를 가르친다.” 하고, ≪예기禮記≫ 〈경해經解〉에 “온유하고 돈후한 것은 시의 교화이고, 도량이 넓고 선량한 것은 음악의 교화이다.” 하였다. 일이 다르므로 교화가 다른 것이니, 이를 시와 음악이라 한 것이다.
오제五帝로부터 이후에는 시와 음악이 서로 함께하므로 시가 있으면 음악이 있었으나, 황제시대로 말하면 인성이 순후하여 즐겁게 노는 음악만이 있고 아직 노래하고 읊조리는 시는 없었다.
그리하여 육의六義가 있으니, 첫째 ‘’이고 둘째 ‘’이며 셋째 ‘’이고 넷째 ‘’이며 다섯째 ‘’이고 여섯째 ‘’이다.
의 [고시故詩]에서 [육왈송六曰頌]까지
정의왈正義曰:윗글에서 의 효과가 큼을 말하였는데 분명 ‘일의一義’로 다 포괄할 수 없으므로 또 에 ‘육의六義’가 있음을 말한 것이다.
주례周禮≫ 〈대사大師〉의 글에서는 ‘’자가 없으므로 곧바로 ‘육의六義’라고 하지 못하고 ‘육시六詩’라고 하여 각각 달리 표현하였으나 사실은 한 뜻이다.
주례周禮≫의 에 “‘’은 현성賢聖한 임금들의 다스림이 남긴 교화를 말한 것이고, ‘’의 뜻은 펴는 것이니 현재 정교의 선악을 곧바로 펼쳐 말하는 것이며,
’는 현재의 잘못을 보고 감히 드러내어 말하지 못하므로 비유를 들어 말하는 것이고, ‘’은 현재의 선을 보고 아첨함이 될까 염려하여 다른 좋은 일을 들어 비유하여 권면하는 것이며,
’는 바름이니 현재의 바른 정사를 말하여 후세의 법도가 되게 하는 것이고, ‘’은 칭송하고 형용함이니, 현재 임금의 덕을 칭송하여 널리 찬미한 것이다.” 하였으니, 이는 ‘육의六義’의 명칭을 해석한 것이다.
주례周禮≫의 주소注疏에서 각각 육의六義의 명칭을 풀이하였지만, 시에는 이 있으므로 그 뜻을 번갈아 말하였다. ‘’을 ‘현성한 임금들이 남긴 교화[현성지유화賢聖之遺化]’라 한 것은 변풍變風이고
’를 ‘현재의 바른 정사를 말하여 후세의 법도가 되게 함[언금지정 이위후세법言今之正 以爲後世法]’이라 한 것은 정아正雅이지만, 사실 정풍正風도 당시의 교화를 말한 것이고 변아變雅현성賢聖의 남긴 법도를 말한 것이다.
’의 훈이 ‘형용하다’인데 단지 ‘현재 임금의 덕을 칭송하여 널리 찬미함[송금지덕 광이미지誦今之德 廣以美之]’이라 하여 ‘’의 뜻을 풀이하지 않은 것은, 천자天子가 성덕의 모습을 지님을 찬미한 것이니, 아래 글의 ‘훌륭한 덕의 모습을 찬미함[미성덕지형용美盛德之形容]’이라 말한 것이 그것이다.
’를 ‘현재 정교의 선악을 펴서 말함[포진금지정교선악鋪陳今之政敎善惡]’이라 한 것은, 그것이 에 통하고 찬미와 풍자를 겸한 것임을 말한 것이다. ‘’를 ‘현재의 잘못을 보고 비유를 들어 말함[견금지실 취비류이언지見今之失 取比類以言之]’이라 한 것은 풍자하는 시인 ‘’를 말하고,
’을 ‘현재의 선을 보고 다른 좋은 일을 들어 비유하여 권면함[견금지미 취선사이권지見今之美 取善事以勸之]’라 한 것은 찬미하는 시인 ‘’을 말하지만, 사실상 찬미와 풍자가 모두 ‘’와 ‘’에 들어있는 것이다.
정현鄭玄이 반드시 ‘’을 ‘현성지유화賢聖之遺化’라고 말한 것을 변풍變風이라고 한 것은, 당풍唐風에 요임금이 남긴 교화가 있기 때문에 ‘’을 ‘현성지유화賢聖之遺化’라 한 것이고,
’는 곧바로 사실을 진술하여 피하고 꺼리는 것이 없으므로 잘잘못을 모두 말한 것이며, ‘’는 외물에 견주고 가탁하여 감히 바로 말하지 못하는 것이 두려워하는 것이 있는 듯하므로 ‘견금지실 취비류이언지見今之失 取比類以言之’라 한 것이고,
’은 생각을 일으켜 찬양하는 말이므로 ‘견금지미 이유권지見今之美 以喩勸之’라 한 것이며, ‘’는 바르게 된 것을 일컬은 것이므로 ‘이위후세법以爲後世法’이라 한 것이다.
정현鄭玄이 주석한 뜻이 이와 같으니, 가 음악에 사용되면 지은 사람은 죄가 없다.
’는 사실을 곧바로 진술하는데, ‘’에는 ‘감히 드러내어 말하지 못함[불감척언不敢斥言]’이라 하고 ‘’에는 ‘아첨함이 될까 염려함[혐어미유嫌於媚諛]’이라 하였으니, 그 내용을 거론하면서 드러내어 말하지 않은 것이 마치 염려하고 두려워하는 뜻이 있는 듯하다.
그러나 실제로는 글을 짓는 문체로서 본래 당연한 이치이니, 염려하고 두려워하는 마음이 있어서 그렇게 한 것이 아니다.
육의六義의 차례가 이와 같은 것은 시의 사시四始에 ‘’을 우선으로 삼았기 때문이다. 그리하여 ‘’이라 한 것이다.
’에서 쓰이는 수사修辭방식이 으로 말을 수사하므로 ‘’의 다음에 을 두고 다음에 을 둔 것이다.
으로 말을 수사하는데, 을 ‘’의 다음에 두었으니 분명 도 수사방식이 이와 같은 것이다.
정현鄭玄이 “의 뜻은 펼쳐놓는 것이니, 선악을 펼쳐놓는 것이다.” 하였으니, 시문詩文에서 사실을 곧바로 말하고 비유를 하지 않는 것은 모두 ‘’의 수사이다.
정사농鄭司農이 “‘’는 외물에 비유하는 것이니, ‘같다[]’를 말한 모든 경우는 모두 ‘’의 수사이다.” 하고,
정사농鄭司農이 또 “‘’은 외물에 일을 가탁하는 것이니, ‘’은 일으킴이다. 비유를 쓰고 동류를 인용하여 자기의 마음을 일으키는 것이니, 시문에서 때로 초목이나 조수를 들어 뜻을 나타내는 것은 모두 ‘’의 수사이다.” 하였다.
의 순서를 이와 같이 한 것은, 일을 말하는 방법에 있어서 직접 진술하는 것이 바른 방법이므로 ≪시경詩經≫에 대부분 ‘’가 ‘’와 ‘’의 앞에 있는 것이다.
’는 ‘’과 더불어 비록 외물에 가탁하지만 ‘’는 드러내고 ‘’은 숨기니, 마땅히 드러내는 것을 앞에 두고 숨기는 것을 뒤에 두어야 하므로 ‘’가 ‘’의 앞에 있는 것이다. 모전毛傳에서 특별히 ‘’을 언급한 것은 그 이치가 은미하기 때문이다.
은 모두 시정施政의 명칭이다. 위에서 ‘풍 풍야風 風也 교야 풍이동지敎也 風以動之 교이화지敎以化之’라고 말하였으니, 이는 ‘’이 시정施政의 명칭이 되는 것이고,
다음에 ‘아자 정야雅者 正也 정유소대 고유소아언政有小大 故有小雅焉 유대아언有大雅焉’이라 하였으니, 이는 ‘’가 시정의 명칭이 되는 것이다.
주송보周頌譜에 “‘’의 뜻은 형용함이니, 천자의 덕이 광채가 사방에 미치고 하늘과 땅에 이르렀으니, 이것을 ‘’이라 한다.” 하였으니, 이는 ‘’이 시정의 명칭인 것이다.
임금이 정사를 하여 백성을 교화하고 신하가 정사에 감화되어 시를 지었으므로 다시 정교의 명칭을 취하여 시를 짓는 제목(사시四始의 명칭)으로 삼은 것이다.
이 똑같이 정사의 명칭이지만, 일에는 점차 쌓임이 있는 법이니, 교화하는 방법은 반드시 먼저 풍자하고 움직여 사람들의 감정을 깨우쳐준 뒤에라야 교화하여 바르게 할 수 있다.
그리하여 풍자하고 움직이는 시초를 말한 것을 ‘’이라 하고, 바르게 된 뒤를 가리킨 것을 ‘’라 하며, 풍속이 바르게 된 뒤에라야 덕이 백성을 포용할 수 있다.
그리하여 공이 이루어진 것을 마침내 ‘’이라 한 것이다. ‘’을 앞에 두고 ’와 ‘’을 나중에 둔 것은 이러한 순서 때문이다.
한 나라의 일을 노래한 것을 ‘’이라 하고 천하의 일을 노래한 것을 ‘’라고 하는 것은, 제후諸侯는 봉토를 나누어 받아 영토가 정해졌기 때문에 풍속이 각기 달랐다.
그리하여 에는 요임금의 유풍이 남아 있고 에는 검약한 교화가 남아 있어, 풍속을 따라 교화를 베풀었으므로 ‘’이라 한 것이다.
천자는 위엄이 온 천하에 가해져서 만방을 바르게 하니 정교가 시행되는 곳마다 모두 바르게 할 수 있으므로 그 시를 ‘’라 한 것이다.
’과 ‘’의 시가 정사로 인해 지어졌는데 정사가 같지 않으므로 시도 체가 다르다. 그리하여 〈빈풍 칠월豳風 七月〉에는 이 갖추어져 있다.
노송 경魯頌 駉〉의 에 “사극史克이 이 을 지었다.” 하였으니, 작자의 본의가 본디 정해져서 ‘’의 체가 되는 것이지, 채록한 뒤에 비로소 체가 정해지는 것이 아님을 밝힌 것이다.
시의 체가 이미 다르면 그 소리도 다르니, ≪춘추공양전春秋公羊傳≫에 “10분의 1의 세법으로 세를 거두니 칭송하는 소리가 일어났다.” 하고, ≪사기史記≫에 “미자微子가 은허를 지나며 아성雅聲을 지었다.” 하고,
시보詩譜≫에 “악사 가 처음 벼슬할 적에는 〈주남 관저周南 關雎〉의 끝장이 이미 국풍의 소리를 잃었다.” 하고, ≪예기禮記≫ 〈악기樂記〉에 “사람이 어지러움이 없을 수 없으므로, 선왕이 어지러워짐을 부끄러워하여 의 소리를 지어 계도하였다.” 하니, 이는 이 본디 각각 소리가 다른 것이다.
에는 각각의 가 있고 체에는 각각의 소리가 있으므로, 태사가 소리를 듣고 뜻을 이해하여 본의를 안 것이다.
주남周南왕자王者의 풍이고 소남召南은 제후의 풍이니, 이는 소리를 듣고 안 것이다.
그렇다면 시편詩篇의 다른 문체이고, 시문詩文의 다른 수사법이니, 형태가 다른데도 모두 육의六義가 되는 것은 은 시에 사용되는 수사법이고, 은 시가의 이루어진 모습이다.
을 이용하여 을 이룬 것이다. 그리하여 함께 육의六義라고 일컬은 것이지 따로 이 있는 것은 아니다.
정지鄭志≫에 “장일張逸이 ‘어떤 종류의 시가 에 가깝습니까?’ 하니,
정현鄭玄이 ‘은 오나라 계찰이 시를 들을 때에도 구분하여 부르지 않았고, 공자께서 ≪시경詩經≫을 채록할 적에도 이미 에 포함시키셨으니 다시 지적하여 구분하기 어렵고, 시편 중에 의미상 이 많다.’ 했다.” 하였다.
장일은 에 구분이 있음을 보고 에도 구분이 있다고 여기고서, 전편全篇이 ‘’가 되고 전편全篇이 ‘’이 되는 것이 있다고 여겨 정현이 지적하여 말해주기를 원했다.
그러나 정현은 은 다만 수사법의 차이일 뿐이고 편이나 권의 구별이 아니라고 여겼다. 그리하여 본래 구분하지 않은 뜻을 에둘러 말한 것이다.
나라 계찰이 시를 들을 때 구분하여 부르지 않음[오찰관시 이불가吳札觀詩 已不歌]’이라고 말한 것은 이전에 체를 구별함이 없어서 구분하여 노래할 수 없음을 밝힌 것이고, ‘공자가 ≪시경≫을 채록할 적에도 이미 에 포함시켰음[공자록시 이합풍아송중孔子錄詩 已合風雅頌中]’이라 말한 것은 이전에 체를 구별함이 없어서 나눌 수 없음을 밝힌 것이다.
원래 합하고 구분하지 않았으니, 지금 다시 지적하여 구별하기 어려운 것이다. ‘시편 중에 의미상 흥이 많음[편중의다흥篇中義多興]’이라고 한 것은 모씨毛氏가 모든 시편에 을 지을 때에 매양 ‘’이라고만 말했기 때문이다.
’이 시편 중에 있다는 말을 가지고 도 시편 중에 있음을 밝혔으니, ‘’을 가지고 를 드러낸 것이다. 만약 그렇다면 은 원래 구분되지 않은 것이니, 오직 세 체의 시만이 있을 뿐이다.
정현鄭玄의 ≪육예론六藝論≫에 ‘주대周代에 이르러 나뉘어 육시六詩가 되었다.’는 것은 ≪주례周禮≫의 ‘육시六詩’에 대한 내용에 근거하여 말했을 뿐이고 편이나 권을 말한 것은 아니다.
어떤 이는 정현이 ‘공자이합어풍아송중孔子已合於風雅頌中’이라고 말했으면 공자 이전에 아직 합치지 않았을 때에는 을 따로 편이나 권으로 삼았을 것이라고 한다.
만약 그렇다면 〈에 맞추어〉 장구章句가 분리되고 문장이 나누어져 온전한 음악으로 노래할 수 없고 온전한 글로 낭송할 수 없다.
을 체로 삼아야 하니, 만약 을 구분하여 편이나 권으로 삼는다면 이 없어지게 된다. 이는 의 뜻이 시가 있어야만 있게 되는 것이다.
요순堯舜의 시대에는 정치가 태평을 이루어 모두가 태평한 시대였으나 제후의 이 없었으니, 그렇다면 요순의 시대에는 반드시 ‘’이 없었을 것이다.
’는 비록 왕자王者의 정사를 노래한 것이지만 태평성대 이전의 일이고, 요순과 같은 성군으로 백성들이 이에 화순和順하였으므로 ‘’도 없었을 듯하니, 육의六義 가운데 오직 ‘’만이 있었을 것이다.
의 시대는 를 제정한 뒤이므로 면전에서 칭송하고 눈앞에서 간쟁하는 일이 다시는 없었을 것이니, 혹 ‘’가 있었을 듯하다.
하대夏代가 쇠미해짐에 곤오昆吾가 패자가 되고 제후諸侯가 강성해졌으니, 혹 ‘’이 있었을 듯하지만 다만 편장篇章이 사라져서 거론할 수 없다.
육예론六藝論≫에 “요순시대에 비로소 처음으로 시를 지었고 주대周代에 이르러 육시六詩로 나누어졌다.” 하여 ≪주례周禮≫의 글에 근거하여 말하였으나, 육의六義가 주대에 시작된 것은 아니다.
윗사람은 교화로써 아랫사람을 변화시키고 아랫사람은 노래로써 윗사람을 풍자하되, 문장을 음악에 조화시켜 은근히 간언하므로 말하는 사람은 죄를 받지 않고 듣는 사람은 충분히 경계로 삼을 수 있다. 그리하여 ‘’이라 한 것이다.
풍화 풍자風化 風刺’는 모두 비유를 들고 지적하여 말하지 않음을 이른 것이고, ‘주문主文’은 음악의 가 서로 상응하는 것을 위주로 하는 것이며, ‘휼간譎諫’은 읊조리고 노래하는 소리에 억양을 주어 듣기 좋게 하여 직간하지 않는 것이다.
○‘하이풍下以風’〈의 ‘풍’〉은 의 ‘풍자諷刺’와 같다. 로 되어 있는 도 있다. ‘고왈풍故曰風’〈의 ‘풍’〉은 ‘반절反切(풍자諷刺)’이고, 또 본음대로 읽는다. ‘’은 ‘꾸밈’이다.
의 [상이上以]에서 [왈풍曰風]까지
정의왈正義曰:신하는 시를 지어 임금에게 간언하고 임금은 또 그것을 이용하여 교화한다. 그리하여 또 상하가 모두 이 육의를 이용하는 뜻을 말한 것이다.
위에서는 임금이 이 육의를 이용하여 감화시켜 교화하고, 아래에서는 신하가 이 육의를 이용하여 풍자하고 비유하여 임금을 경계한다.
시를 지음에 본심의 주된 뜻은 음률에 맞는 글이 되게 하여 음악으로 연주하면서 억양을 주어 듣기 좋게 하여 임금의 과실을 직언하지 않으므로
말하는 사람은 죄가 없고, 임금은 시를 지은 사람에게 노하여 그를 죄주어 죽이지 않아서, 듣는 사람이 충분히 스스로 경계할 수 있는 것이다.
임금이 스스로 자신의 허물을 알아서 뉘우치게 하되 감촉하지만 절박하지 않아 은미하게 풍자하는 것이 바람과 같고, 노래를 듣자마자 과실을 고치는 것이 바람이 지나가면 풀이 눕는 것과 같다. 그리하여 ‘’이라 한 것이다.
위에서 말한 ‘풍 풍야교야風 風也敎也’는 아래를 향한 ‘’의 뜻을 밝혔고, 여기에서 말한 ‘고왈풍故曰風’은 위를 향한 것으로 그 글을 마무리하였으니, 시작과 끝이 응하게 하여 ‘’의 뜻을 곡진하게 푼 것이다.
여기에서 육의의 아래에 ‘’이라 명명命名한 뜻을 풀었으니, 그렇다면 육의를 모두 ‘’이라 한 것이다. ‘’은 정교政敎의 시작이고 육의 중에 ‘’이 처음이기 때문이다. 그리하여 육의의 총칭總稱을 ‘’이라 하였으니, 육의는 일에 따라 생겨난 명칭이다.
만약 이 말처럼 위의 육의를 총괄해보면 이 있는데, ‘주문휼간主文譎諫’이라 하여 풍자한 시만을 말한 것은 시가 지어진 이유가 모두 간사함을 바로잡고 과실을 방지하기 위한 것이기 때문이니,
비록 을 논하고 을 칭송한 시라도 임금을 바로잡지 않음이 없다. 그리하여 시를 지은 뜻을 위주로 말한 것일 뿐이다.
모든 시는 신하가 지어 임금에게 간한 뒤에 임금이 그것을 이용하여 아래를 교화하는데, 여기에서 ‘상이풍화하上以風化下’를 먼저 말한 것은 교화가 임금으로부터 나와서 상하에 모두 적용되기 때문이다. 그리하여 임금을 먼저 말하고 백성을 나중에 말한 것이다.
춘추좌씨전春秋左氏傳양공襄公 16년에 “를 치자 에 구원을 요청했는데 이 허락하지 않았다. 목숙穆叔(노의 대부 숙손표叔孫豹)이 중항헌자中行獻子(진의 대부 순언荀偃)를 만나 〈소아 기보小雅 圻父〉를 읊자 헌자가 ‘내 죄를 알았다.’ 하였다.”라고 하였다.
목숙이 읊음에 진인晉人이 원망하지 못하였으니, 이것이 ‘언지자무죄言之者無罪’이고, 헌자獻子가 자신의 죄를 인정했으니, 이것이 ‘문지자족이계聞之者足以戒’이다.
속본에 ‘’ 위에 ‘’자가 있는 것은 잘못이다. 정본에서는 다만 ‘족이계足以戒’라 하였다.
의 [풍화風化]에서 [직간直諫]까지
정의왈正義曰:‘’은 바람이 사물을 움직이는 것과 같으므로 ‘비유 불척언譬喩 不斥言’이라 한 것이다. 임금이 백성을 교화함에 본디 드러내어 말할 수 있지만, 다만 시를 사용하여 백성을 교화함에는 음악으로 연주한다. 그리하여 또한 드러내어 말하지 않는 것이다.
위에서 ‘성성문聲成文’이라 하고 여기에서는 ‘주문主文’이라 하였으니, 시를 짓는 자의 주된 뜻은 시문이 음률과 서로 맞게 하는 것임을 알 수 있다.
위에서 말한 바와 같다면 먼저 노랫말을 만들고 음악이 시를 따라 곡조를 이루는 것이니, 그렇다면 음률에 맞는 말은 시문을 배워서 하는 것이다.
이는 시를 지을 때의 글이 음률에 맞는 것을 위주로 함을 말한 것이니, 처음에 음악을 만드는 사람은 시에 맞추어 소리를 만들고, 소리가 만들어지면 반드시 소리에 따라 시를 짓게 된다. 그리하여 훗날 시를 쓰는 사람은 모두 음악의 곡조에 맞게 하는 것을 위주로 한다.
은 교묘하게 속이는 것인데, 그것을 노래에 가탁하여 소리에 억양을 주어 듣기 좋게 해서 간하는 것도 교묘하게 속이는 의미이므로 ‘휼간譎諫’이라 한 것이다.
왕도가 쇠퇴함에 이르러 예의가 무너지고 정교가 실추되었으며 나라마다 정사가 달라지고 집집마다 풍속이 달라져 변풍變風변아變雅가 지어진 것이다.
의 [지어至於]에서 [아작의雅作矣]까지
정의왈正義曰:≪시경詩經≫의 ‘’과 ‘’에 ‘’과 ‘’이 있으므로 또 ‘’의 뜻을 말한 것이다. 왕도가 쇠퇴함에 이르러 예의가 무너져 행해지지 못하고, 정교의 시행이 제자리를 잃었다.
그리하여 마침내 제후국마다 정사가 다르게 되고 백성들이 집집마다 풍속이 다르게 된 것이다. 그리하여 시인이 선을 보면 찬미하고 악을 보면 풍자하여 변풍變風변아變雅가 지어지게 된 것이다.
지우至于’는 ‘성세盛世로부터 쇠세衰世에 이르기까지’이니 처음과 끝을 연결한 말이다.
예의禮義에서 ‘’라 한 것은 법전은 그대로 있는데 다만 폐지하여 실행하지 않는 것이요, 정교政敎에서 ‘’이라 한 것은 정교가 없는 것은 아니지만 다만 시행함이 마땅한 이치를 잃었을 뿐이다.
시행함이 마땅한 이치를 잃었기 때문에 나라마다 정사가 다르고 집집마다 풍속이 다르게 된 것이니, 이 모두가 왕도가 쇠퇴했을 때의 일이므로 ‘도쇠道衰’로 시작하였다.
예의는 정교의 근본이므로 예의를 먼저 말하고 정교를 나중에 말한 것이다.
정본定本의 ‘예의폐禮義廢’의 ‘’자가 속본俗本에 ‘’자로 되어 있는 것은 잘못이다. 여기에서 ‘’는 천하의 민가를 말한 것이다. ≪효경孝經≫에 “집집마다 찾아가서 날마다 만나는 것은 아니다.” 한 것도 천하의 민가를 말한 것이니, 대부를 ‘’라 일컫는 경우가 아니다.
백성은 임금의 욕심을 따르므로 ‘’이라 하는 것이니, 대부의 ‘’라면 ‘’이라 할 수 없다.
변풍變風변아變雅가 반드시 왕도가 쇠퇴해짐에 비로소 지어진 것은 천하에 도가 지켜지고 있으면 서민이 정사에 대해 논의하지 않고, 치평治平의 시대가 거듭되면 찬미하고 풍자하는 시가 지어지지 않기 때문이니, 무엇 때문인가?
악을 알지 못하면 선이 선인 줄을 모르고, 선을 알지 못하면 악이 악인 줄을 모르기 때문이다. 그리하여 태평성대가 되면 다시 찬미할 일이 없고, 도가 끊어지면 다시 기롱할 일이 없는 것이 인정의 일반적인 도리이다.
그리하여 처음 나쁜 풍속을 변화시키면 백성이 이를 노래하니, 정풍正風정아正雅가 이것이고, 처음 태평해지면 백성이 이를 칭송하니, 주송周頌의 모든 편이 이것이다.
만약 왕도가 끊어지고 예의가 사라져서 백성이 모두 흩어지고 죽어 정사가 온통 어지럽게 되면 ≪주역周易곤괘坤卦문언文言〉의 “천지가 닫히면 현인이 은둔한다.”는 것이니, 이러한 때에는 비록 지혜로운 자가 있더라도 다시 기롱하고 풍자함이 없게 된다.
성왕成王의 태평성대 이후는 그 아름다움이 전과 다를 것이 없으므로 칭송하는 소리가 그쳤고, 진 영공陳 靈公의 음란함 이후는 그 악을 더 이상 말할 수가 없으므로 변풍變風이 그친 것이다.
반고班固가 “성왕成王강왕康王이 죽은 뒤에는 칭송하는 소리가 그쳤고, 왕의 은택이 다 없어지자 시가 지어지지 않았다.” 한 것은 이를 말한다.
그렇다면 변풍變風변아變雅가 지어진 것은 모두 왕도가 처음 쇠퇴해지고 정교가 처음 실추되었지만 그래도 바로잡아 개혁하고 미루어 회복할 수 있기 때문이다.
그리하여 옛 법도를 행하고 새로운 잘못을 바로잡아 군주가 스스로 뉘우쳐 다시 정도를 따르기를 바라서 변시變詩를 지은 것이니, 정법을 고쳐 변화시키는 것이므로 ‘’이라 한 것이다.
계찰季札이 ≪춘추좌씨전春秋左氏傳양공襄公 29년에 소아小雅를 노래하는 것을 보고 “아름답도다! 걱정하면서도 두 마음을 먹지 않고 원망하면서도 말하지 않으니, 의 덕이 쇠해졌을 때의 시일 것이다.
그래도 선왕의 유민이 노래한 것이다.” 하였으니, 이는 왕의 은택이 아직 다 없어지지 않아 백성이 아직 예를 알아 예로 세상을 구원하기 위해 이 변시變詩를 지은 것이다. 그리하여 변시는 왕도가 쇠미해지자 비로소 지어진 것이다.
시보詩譜≫에 “이왕夷王은 자신이 예를 잃었고, 의왕懿王이 처음으로 참소를 받아들였다.” 하였으니, 그렇다면 주의 왕도가 쇠미해진 것은 이왕과 의왕 때에 시작된 것이다.
그런데 변아變雅여왕厲王 때에 시작되어 이왕과 의왕에 대한 가 없으니, 아마도 공자가 채록하지 못했거나 존재는 했지만 기록할 만하지 못해서였을 것이다.
그러나 ≪춘추좌씨전春秋左氏傳소공昭公 12년에 “채공 모보蔡公 謀父가 〈기초祈招〉를 지어 목왕穆王을 간하였다.” 하였고, 경공頃公애공哀公 때에 변풍이 있었으니, 당시에 변아變雅를 지었지만 다만 채록되지 않았을 뿐임이 분명하다.
왕도가 쇠미해질 때에는 제후의 변풍이 있는데 왕도가 성해질 때에는 제후의 정풍이 없는 것은, 왕도가 흥성하면 정사가 천자 한 사람에게서 나와 태평성세가 제후의 힘이 아니기 때문에 정풍이 있을 수 없는 것이고,
왕도가 쇠미해지고 나면 정사가 제후로부터 나와 선악이 제후 자신의 몸에 달려 있고 천자의 명에 말미암지 않는다. 그리하여 악을 하면 백성이 원망하고 선을 하면 백성이 기뻐하므로 각자 그 나라의 실정에 따라 찬미하고 풍자하는 변풍이 있는 것이다.
사관史官이 정사에 대한 잘잘못의 자취를 밝게 알아 인륜의 무너짐을 마음 아파하고 형벌의 가혹함을 슬퍼하여 뜻을 읊조려 군상君上을 풍자하였다.
○‘’는 가혹하게 학대함이다. 소리를 내서 읊조리는 것을 ‘’이라 한다.
의 [국사國史]에서 []까지
정의왈正義曰:위에서는 변시變詩가 지어짐을 말하였고 여기에서는 또 변시變詩를 지은 이유를 말하였으니, ‘나라의 사관은 모두가 학식이 풍부하고 기억이 뛰어난 자로 임금의 잘잘못과 선악의 자취를 환하게 알았다.
예의가 무너지면 인륜이 문란해지고 정교가 실추되면 법령이 가혹해지니, 사관이 인륜이 무너지고 사라짐을 마음 아파하고 형벌의 가혹함을 슬퍼하였다.
슬퍼하고 마음 아파하는 뜻이 마음에 쌓여 마침내 자신의 성정性情을 읊조려 군상君上을 풍자하여 악을 고치고 선을 행하기를 바란 것이 변시變詩를 지은 이유’임을 말한 것이다.
국사國史주관周官이니 대사大史소사小史외사外史어사御史 등이 이들인데, 이를 변풍變風변아變雅의 아래에 이어서 말했으니, 천자와 제후의 사관이 모두 해당된다.
득실지적得失之迹’은 임금의 지난 행적이니, ‘득실지적得失之迹’을 분명하게 알아 슬퍼하고 마음 아파하여 뜻을 읊조린 사람은 시인이지 사관이 아니다.
대아 민로大雅 民勞〉와 〈상무常武〉는 공경公卿이 지은 것이고 〈소아 황조小雅 黃鳥〉와 〈위풍 석인衛風 碩人〉은 백성의 시이다. 그렇다면 신하와 백성이 다 풍자할 수 있는 것이니, 반드시 사관이 지은 것이라 여길 필요는 없다.
이 글에서 특별히 사관을 말한 것은, 정현鄭玄장일張逸에게 답하기를 “사관이 여러 시를 채록할 때에 좋고 나쁜 것을 밝혀 악관에게 노래하게 하되, 지은 사람이 없는 것은 모두 사관이 주관하여 노래하게 하였다.” 하였으니,
이 말대로라면 이는 사관이 글을 관장하므로 사관의 글이라고 가탁한 것이다. 그러나 만약 글을 지을 수 있는 사람을 또한 ‘’라고 할 수 있으니, 반드시 사관이 지은 것이라 여길 필요는 없다.
노송 경魯頌 駉〉에 “이 이 을 지었다.” 하였으니, 사관史官이 본디 시를 지은 경우가 있지만 모두 사관이 지은 것은 아니다.
명기호악 영고몽가지明其好惡 令瞽矇歌之’라 한 것은 사관이 선한 것을 가려 뽑아 비로소 악관에게 노래하게 하였다는 것이다.
기무작주 국사주지其無作主 國史主之’라 한 것은 작자의 이름이 없을 경우 사관이 그것을 주관하지 않을까 염려한 것일 뿐이니, 그 작자가 있는 경우도 사관이 주관하였다.
인륜지폐人倫之廢’는 윗글의 ‘예의폐禮義廢’이고, ‘형정지가刑政之苛’는 윗글의 ‘정교실政敎失’이다.
소리를 내서 읊조리는 것을 ‘’이라 하고 말을 길게 하는 것을 ‘’이라 하니, 시를 지으면 반드시 노래하므로 ‘음영정성吟詠情性’이라 한 것이다.
〈시를 지은 사람이〉 사변事變을 잘 알아 옛 풍속을 그리워하였다. 그리하여 변풍變風이 백성의 뜻에서 나와 예의에 그친 것이다.
발호정發乎情’은 백성의 성정性情(뜻)이요 ‘지호예의止乎禮義’는 선왕先王유택遺澤이다.
의 [달어達於]에서 [지택之澤]까지
정의왈正義曰:여기에서 또 왕도가 쇠미해진 뒤에 변시變詩를 지을 수 있었던 까닭을 말하였다. 시를 지은 사람이 모두 세상이 변한 것을 잘 알아서 사사로이 옛 풍속을 그리워하였다.
당시 정사의 법도가 바뀐 것을 보고 옛 법도를 가지고 시를 지어 경계하여 예의에 맞게 하고자 한 것이다.
그리하여 변풍變風의 시가 모두 민정民情에서 나와 예의禮義에 그친 것이니, ‘각각의 시가 백성의 뜻에서 나와 모두 예의에 합당함’을 말하고, 또 ‘백성의 뜻에서 나와 예의에 그쳤다’는 것을 거듭 말한 것이다.
발호정자 민지성發乎情者 民之性’은 백성의 뜻이 다르므로 각각 자신의 뜻을 말한 것임을 말한 것이고, ‘지호예의자 선왕지택止乎禮義者 先王之澤’은 모두 선왕의 유택을 입었으므로 모두 예의에 그쳤음을 말한 것이니, 되풀이하여 거듭 시를 지은 뜻을 밝힌 것이다.
달어사변達於事變’은 에 요임금이 를 간소하게 하여 위험을 구제하였던 교화가 있었는데, 후세에 그것을 답습하여 검소함이 예에 맞지 않는 실수가 있게 되고,
태희大姬가 무당과 가무를 좋아하는 풍도가 있었는데, 후세에 그것을 답습하여 방탕하여 법도가 없는 잘못이 있게 된 것이니, 이는 그 풍속이 변한 것을 당시의 사람이 잘 안 것이다.
회기구속懷其舊俗’은 에는 태공太公의 교화가 있고, 에는 강숙康叔의 교화가 있었는데, 그 남긴 법도가 그대로 남아 있어서 시인이 그를 간직한다는 것과 같은 것이다.
시인詩人이 당시의 세사世事가 변화하고 옛날의 풍속이 바뀐 것을 보았기에 옛 법도를 기준으로 삼아 시를 지어 경계한 것이다.
비록 모두 옛 법도를 기준으로 삼았지만, 시의 체가 달라 어떤 것은 지난날의 정사를 말하고 어떤 것은 당시의 음란함을 지적하였다.
비록 노래한 뜻은 다르지만 모두 세상을 바로잡고 구제할 것을 생각했다. 그리하여 각각의 시가 백성의 성정性情에서 나와 모두 예의에 그친 것이다.
여기에서도 변아變雅를 겸하여 말해야 하는데 변풍變風만을 말한 것은 위에서 이미 변풍變風변아變雅를 함께 그 글에서 들었으므로 여기에서는 생략한 것이다.
선왕지택先王之澤’은 선왕先王의 은택이 남아 있어 영향이 후세에까지 미쳐 시인詩人이 남아 있는 교화를 입었다. 그리하여 옛 풍속을 그리워함을 말한 것이다.
정현鄭玄장일張逸에게 답하기를 “구속舊俗의 남긴 교화가 있는 것과 같은 것이고, 선왕先王의 은택은 강숙康叔의 남긴 공로가 있는 것과 같은 것이다.” 하였으니,
이 말대로라면 강숙을 마땅히 선공先公이라고 해야 하는데도 선왕先王이라 한 것은, 변아變雅선왕先王의 은택이 남아 있는 것이고 변풍變風선공先公의 은택이 남아 있는 것이기 때문이다.
그리하여 계찰이 제풍齊風을 노래하는 것을 보고 “동해에 표상이 된 자는 아마도 태공일 것이다.” 하였고, 소아小雅를 노래하는 것을 보고 “그래도 선왕先王의 유민이 노래한 것이다.” 하였으니, 이것이 ‘’은 선공先公에게서 받은 교화이고 ‘’는 선왕先王으로부터 받은 교화라는 것이다.
위에서 변풍變風을 들어 말하고 아래에 선왕先王을 말한 것은 ‘’과 ‘’를 번갈아 보인 것이다.
위에서 사관이 시를 지음을 말하고 여기에서 백성의 뜻을 말한 것은 시를 지음이 모두 백성의 뜻에 있고 사관만이 할 수 있는 것이 아님을 밝힌 것이니, 또한 번갈아 보인 것이다.
시를 지음이 예의에 그쳤다면 응당 말이 모두 예의에 합당해야 하는데도 변풍變風시어詩語가 대부분 간음의 상황을 말한 것은 남녀가 음행을 하고 풍속이 무너진 것이니,
시인의 시어가 모두 음란함을 형상하였으면 당시 정사가 병든 것이고, 말하는 것이 모두 충성스럽고 절실한 간언이면 세상을 구제하는 침과 약이다.
상서尙書≫의 ‘삼풍십건三風十愆’은 질병이고 시인詩人의 ‘사시육의四始六義’는 치료하는 것이다.
만약 질병이 아직은 가벼워 살아날 방도가 있으면 의원이 치료함에 최선을 다하는 것이니, 편작扁鵲이 태자를 치료한 것은 반드시 살아날 수 있음을 알았기 때문이고,
질병이 매우 중해 장차 죽을 형세이면 의원이 치료를 느슨하게 하는 것이니, 진화秦和평공平公을 보기만 한 것은 치료할 수 없음을 알았기 때문이다. 시인이 세상을 구제하는 것도 이와 같다.
법도가 아직 없어지지 않아 추후에 고칠 수 있기를 바라면 경계하고 간하는 뜻이 간절하니, 〈학명鶴鳴〉과 〈면수沔水〉는 은근히 왕에게 요구한 것이다.
음란한 풍속이 크게 유행하여 구제할 수 없게 되면 잘못된 것을 간하여 바로잡으려는 뜻이 미미하니, 〈진유溱洧〉와 〈상중桑中〉은 애석해하고 탄식하여 세상을 안타깝게만 여긴 것이다.
의 풍속은 이미 망해가는 형세가 이루어졌으므로 시인詩人이 자신이 경계하고 옳은 도리로 간언해도 필시 고치지 못할 것을 헤아리고, 우선 다시 자신의 뜻을 서술하여 슬퍼하고 탄식하였을 뿐 감히 보존되기를 바라지 않은 것이니, 이는 잘못된 것을 간하여 바로잡으려는 뜻이 미미함을 말한 것이다.
그리하여 계찰이 진풍陳風을 노래하는 것을 보고 “나라에 군주가 없으니 어찌 오래 보존되겠는가.” 하고, 정풍鄭風을 노래하는 것을 보고 “훌륭하도다! 묘사의 세밀함이 너무 지나치니 백성이 견디지 못할 것이다. 아마도 먼저 망할 것이다.” 하였다.
’는 시인의 뜻을 찬미한 것이니, 선왕의 가르침이 없었다면 누가 이렇게 할 수 있겠느냐는 말이다. ‘선망先亡’은 시인이 잘못된 것을 간하여 바로잡으려는 뜻이 미미한 것을 보고 나라가 장차 멸망할 것임을 안 것이다.
이 때문에 한 나라의 일이 시인 한 사람의 뜻에 관계된 것을 ‘’이라 하고, 천하의 일을 말하고 사방의 풍속을 묘사한 것을 ‘’라 한다.
의 [시이是以]에서 [지아之雅]까지
정의왈正義曰에서 의 도를 말하면서 의 영역과 다르기 때문에 또 세 가지 문체의 다른 점을 분별한 것이다.
시이是以’는 앞을 이어 다음을 시작하는 말이니, 시인이 시를 지음에 의도함이 이와 같음을 말한 것이다.
한 나라 정사의 잘잘못이 모두 한 사람의 뜻에 연결되어 있으니, 이와 같이 지어진 시를 ‘’이라 하고,
천하의 정사를 말하고 사방의 풍속을 드러내니, 이와 같이 지어진 시를 ‘’라 한다. 이는 ‘’과 ‘’의 구분을 말한 것이니, 그 큰 뜻이 이와 같은 것이다.
일인一人’은 시인이니, 시인이 자기 한 사람의 뜻을 말한 것일 뿐이지만, 요컨대 한 사람의 뜻을 말한 것이 바로 온 나라 사람의 뜻인 것이다.
시인이 온 나라의 뜻을 살펴 자신의 마음으로 삼은 것이므로 온 나라의 일을 시인 한 사람과 연결시켜 말하게 한 것이다.
다만 말한 것이 오직 제후국의 정사이어서 한 나라에 교화가 행해진 것이므로 ‘’이라 한 것이니, 범위가 협소하기 때문이다.
천하의 일을 말하면서 한 사람이 말한 것이라 한 것은, 시인이 천하 사람의 마음과 사방의 풍속을 총괄하여 자신의 뜻으로 삼아 왕자王者의 정사를 읊조리고 노래하였기 때문이다.
그리하여 시를 지음에 천하의 일을 말하고 사방의 풍속을 드러낸 것이다. 말한 것은 바로 천자의 정사인데 시행하여 천하를 바르게 하는 것이므로 ‘’라 한 것이니, 범위가 넓기 때문이다.
’은 ‘’와 함께 각각 한 사람이 지은 것이니, ‘’은 ‘일국지사계일인一國之事繫一人’이라 하였으니, ‘’도 천하의 일이 한 사람의 뜻에 관계되는 것이다.
’는 ‘언천하지사言天下之事’라 하여 한 사람이 천하의 일을 말함을 이르니, ‘’도 한 사람이 한 나라의 일을 말한 것이다.
에서 역순으로 글을 서술한 것은 번갈아 말한 것일 뿐이다. 그리하여 ≪정지鄭志≫에 장일張逸이 “일찍이 들으니 ‘한 사람이 시를 지었다.’ 하는데 무슨 말입니까?” 하니,
정현鄭玄이 “시를 지은 사람은 한 사람일 뿐이지만 취한 뜻은 한 나라의 일이다. ‘변아變雅’는 왕정王政의 잘잘못을 풍자하고 풍속의 쇠미함을 안타까이 여겨 근심한 것은 넓지만 한 사람의 뜻에서 발현된 것이다.” 하였다.
이 말과 같다면 ‘’과 ‘’가 지어짐이 모두 시인 한 사람의 말일 뿐이지만, 한 사람이 찬미하면 한 나라가 모두 찬미하고 한 사람이 풍자하면 천하가 모두 풍자하는 것이다.
곡풍谷風〉과 〈황조黃鳥〉는 아내가 지아비를 원망한 것이지만 반드시 온 나라의 아내가 모두 지아비를 원망한 것은 아니고, 〈북문北門〉과 〈북산北山〉은 아랫사람이 임금을 원망한 것이지만 반드시 온 조정의 신하가 모두 임금을 원망한 것은 아니다.
다만 부부가 이별한 것을 말했으니 풍속이 무너졌음을 알 수 있고, 자기만 홀로 수고롭게 일함을 말했으니 정교가 고르지 않음을 알 수 있다. 백성의 뜻을 취하여 자신의 말로 삼지 않은 것이 없어서 한 사람이 말함에 온 나라가 모두 기뻐한 것이다.
가령 성스럽고 명철한 군주가 천하에 공을 이루면 설사 어떤 사람이 홀로 그의 악을 말하기를, 변수와 무광이 은나라 탕왕을 보는 것을 수치로 여기고, 백이와 숙제가 주나라 무왕 섬기기를 부끄럽게 여겼던 것처럼 하더라도 천하의 마음이 그들과 함께하지는 않는다.
이와 반대로 가령 무도한 임금이 백성에게 악행을 하면 설사 어떤 사람이 홀로 그의 선을 칭송하기를, 장송이 왕망을 찬미하고, 채옹이 동탁을 애석해하는 것처럼 한다고 하더라도 천하의 뜻이 그와 함께하지는 않는다.
필시 말이 온 세상 사람의 마음에 합치되고 행동이 온 나라 사람의 뜻에 부합된 뒤에라야 ‘’과 ‘’가 되어 악장에 실릴 수 있게 된 것이니, 그렇지 않으면 사관이 그 글을 채록하지 않았다.
여기에서 말한 ‘’과 ‘’는 이치상 을 겸하고 있다. 천하에 도가 없어져서 정사가 제후에게서 나오는데도 변아變雅를 ‘’라 한 것은 변아가 지어질 때에 왕의 정사가 여전히 온 나라에 시행되고 있었기 때문이다.
대학大學≫에 “이 천하를 어짊으로 거느리니 백성이 따르고, 가 천하를 포악함으로 거느리니 백성이 따랐다.” 하였다. 이는 선정善政악정惡政을 노래한 시가 모두 사람을 바르게 할 수 있는 것이니, 이 때문에 도 ‘’라 일컬어진 것이다.
평왕平王동천東遷함에 이르러서는 정사가 마침내 미약해져 그 정사가 경내境內에서만 겨우 행해졌으므로 이 때문에 변하여 풍이 된 것이다.
는 바르게 함이니, 정교政敎가 이로 말미암아 무너지고 흥기됨을 말한 것이다. 작은 정사와 큰 정사가 있으므로 ‘소아小雅’가 있고 ‘대아大雅’가 있다.
의 [아자雅者]에서 [아언雅焉]까지
정의왈正義曰:위에서 이미 ‘’의 명칭을 풀었으므로 또 ‘’의 명칭을 푼 것이다. ‘’를 ‘정야正也’로 푼 것은 천자가 정교政敎로 천하를 바르게 하기 때문이다. 그리하여 백성이 천자의 정교를 말하여 다시 ‘바르게 함’으로 명칭을 삼은 것이다.
왕이 천하를 바르게 다스려 올바른 도를 얻으면 그 아름다움을 기술하니, ‘’의 정경正經선왕宣王을 찬미한 시가 이것이다. 만약 왕이 천하를 다스리나 그 올바른 도리를 잃으면 그 악을 풍자하니, 유왕幽王여왕厲王소아小雅가 이것이다.
에 말한 것이 모두 천하를 바르게 하는 큰 법이니, 문왕文王무왕武王의 도를 사용하여 흥하였고, 유왕幽王여왕厲王은 시의 도를 사용하지 않아 망한 것이다.
여기의 ‘아시雅詩’는 왕의 정교가 무너지고 흥기되는 까닭을 설명한 것이니, 왕의 정교政敎가 무너지고 흥기되기 때문에 찬미와 풍자가 있게 된 것이고 또 ‘이아二雅’가 있게 된 뜻을 푼 것이다.
왕자王者정교政敎에 크고 작음이 있으므로 시인의 말에도 크고 작음이 있다. 그리하여 ‘소아小雅’가 있고 ‘대아大雅’가 있는 것이다.
소아小雅의 내용에 빈객에게 음식을 대접하고, 군신群臣에게 상을 주고 위로하며, 잔치를 베풀고 상을 내려 제후를 회유하고, 정벌하여 중국中國을 강성하게 하며, 현자를 얻음을 즐거워하고, 인재를 기르는 일 등은 천자의 정사에서 모두 작은 일이다.
대아大雅의 내용에 〈문왕이〉 천명을 받아 주를 일으키고, 〈무왕이〉 을 대신하여 정벌을 이어가며, 선왕의 복록福祿을 이어받고, 선조를 높여 하늘과 짝하게 하며, 술에 취하고 덕에 배부르고,
능력 있는 사람을 관직에 기용하고 선비를 등용하며, 은택이 곤충에게 이르고, 어짊이 초목에 미치는 일 등은 천자의 정사에서 모두 큰일이다.
시인詩人이 큰일을 노래하여 대체大體를 만들고 작은 일을 말하여 소체小體를 만들어, 에 크고 작음이 있으므로 나누어 둘이 된 것이다.
’은 우열의 차이를 나타내므로 주남周南소남召南보다 앞에 있고 ‘’는 점차 나아가는 뜻을 나타내므로 소아小雅대아大雅보다 앞에 있으니 이것이 다른 까닭이고, 가 이미 다르므로 악장樂章의 음도 다르다.
국풍國風’의 음은 각기 기후와 풍토의 기운을 따라 해당되는 나라의 노래를 기술해 지어지고, ‘’와 ‘’의 음은 왕자王者가 천하의 뜻을 두루 살피고 사방의 풍토를 모두 합하여 지어지니,
예기禮記≫ 〈악기樂記〉의 “선왕先王이 ‘’와 ‘’의 소리를 만들어 이끌었다.” 한 것이 바로 그 일이다.
가 정해지고 악장樂章의 음이 정해지면 후대의 작자들이 각각 옛 풍속을 따른다.
변풍變風’의 시는 각기 그 나라의 음이어서 계찰季札이 음을 관찰하여 그 나라를 안 것은 그 음이 다르기 때문이니, ‘소아小雅’의 도 그러하다.
정경正經에 큰 정교를 기술한 것은 ‘대아大雅’가 되고 작은 정교를 기술한 것은 ‘소아小雅’가 되어 ‘소아小雅’와 ‘대아大雅’의 소리가 있는 것이다.
왕자王者의 정교가 쇠미해짐에 ‘변아變雅’가 함께 지어졌으니, ‘대아大雅’의 음을 취하여 그 정사의 변함을 노래한 것을 ‘변대아變大雅’라 하고, ‘소아小雅’의 음을 취해 그 정사의 변함을 노래한 것을 ‘변소아變小雅’라 한다.
그리하여 ‘변아變雅’의 찬미와 풍자는 모두 음과 체의 소대小大에서 비롯되고 다시 정사의 대소大小에서 비롯되지 않은 것이다.
’은 제후의 정교를 말함에 소대小大가 있지만, 다만 교화가 한 나라에 그치므로 구분하기에 부족하고, ‘’은 공이 이루어진 뒤에 지어져 찬미를 〈군상君上에게〉 돌리고, 신에게 보답하는 것이 모두 큰일이므로 다시 체를 나누지 않은 것이다. 그리하여 ‘이풍二風’과 ‘이송二頌’으로 나누지 않은 것이다.
은 훌륭한 덕의 모습을 찬미함이니, 그 이루어진 공을 신명神明에게 고한 것이다.
[송자頌者]에서 [신명자神明者]까지
정의왈正義曰:위에서 ‘’과 ‘’의 명칭과 를 풀이하였으므로 여기에 또 ‘’의 명칭과 를 풀이한 것이다.
윗글에서 ‘변풍變風’과 ‘변아變雅’가 지어진 것으로 인하여 나아가 ‘’과 ‘’의 체를 말하였다. 그리하여 ‘위지풍謂之風’이라 하고 ‘위지아謂之雅’라 하여 윗글을 맺은 것이다.
여기에서는 위에서 ‘’이 지어진 것에 대한 말이 없고 맺는 글이 없다. 그리하여 ‘송자 미성덕지형용頌者 美盛德之形容’이라 하여 ‘’을 ‘형용한다’는 뜻으로 밝혔으니, ‘’의 명칭을 풀이한 것이고, ‘이기성공 고어신명以其成功 告於神明’은 ‘’의 를 풀이한 것이다.
위에서 ‘아자 정야雅者 正也’라 하였으니, 여기에서도 마땅히 ‘송자 용야頌者 容也’라고 해야 하지만 ‘’에서 이미 글을 갖추었으니 여기에서도 따라서 알 수 있으므로 생략한 것이다.
주역周易≫ 〈계사전繫辭傳〉에 “성인이 그 모습을 모방하고 그 물건의 중요한 특징을 형상하였다.” 하였으니, 그렇다면 형용은 용모를 표현하는 것이다.
’을 지은 사람이 성덕盛德의 모습을 찬미하였으니, 그렇다면 천자의 정교를 형용함이 있는 것이다. 찬미할 만한 형용은 바로 도덕과 교화가 두루 갖추어진 것을 말한다.
그리하여 〈주송보周頌譜〉에 “천자의 덕이 광채가 사방에 미치고 하늘과 땅에 이르러, 덮어주지 않음이 없고 실어주지 않음이 없다.” 하였다. 이것이 ‘’이라는 것이니, 그 뜻이 여기에서 나온 것이다.
성공成功’은 계획하여 만드는 일이 완성된 것이다. 하늘이 경영하는 것은 성인에게 명령함에 있고, 성인이 경영하는 것은 현인에게 맡김에 있으며, 현인이 경영하는 것은 백성을 기름에 있다.
백성이 편안하고 재용이 풍족하며 백성이 화합하고 일이 절도가 있게 되면 위정자의 일이 완성되는 것이다.
전쟁이 그치고 오랑캐가 와서 복종하며, 아름다운 상서가 모두 이르고 멀고 가까운 백성이 다 복종하며, 뭇 생명들이 그 품성을 다 이루고 만물이 각각 제자리를 얻게 되는 것이 바로 ‘성공成功’의 징험이다.
만물은 하늘에 뿌리를 두고 사람은 조상에게 뿌리를 두니, 하늘이 명하는 것은 백성을 기르는 것이고 조상이 명하는 것은 왕업을 이루는 것이다.
백성이 편안하고 왕업이 이루어지면 반드시 신에게 고하여 알게 하니, 비록 사직社稷산천山川사악四嶽하해河海의 신이라도 모두 백성을 주인으로 삼아 백성이 안락하기를 바란다.
그리하여 시를 지어 그 공을 노래하는 것이니, 신명에게 두루 고하는 것은 은택에 보답하는 것이다.
왕자王者가 정사에 흥폐興廢가 있을 때마다 여러 신에게 제사하지 않은 적이 없으나, 다만 정사가 아직 태평하게 되지 않았으면 신의 은택이 미침이 없는 것이다. 그리하여 태평하여 덕이 흡족하게 된 뒤에야 비로소 신의 공덕에 보답하는 것이다.
송시頌詩제사祭祀의 상황만을 말하여 신의 공력을 얻었음을 말하지 않고 그 제사만을 찬미하지만 이것이 신의 덕에 보답하는 것임을 알 수 있다.
여기에서 풀이한 ‘’은 주송周頌일 뿐이고 상송商頌노송魯頌은 이와는 다르다.
상송商頌은 비록 제사의 상황을 노래한 것이지만 선왕先王의 사당에서 제사를 하며 살아 있을 때의 공덕을 말하였으니, 바로 이는 죽은 뒤에 공덕을 칭송하는 것이지 성공成功을 신에게 고하는 것은 아니니 그 체가 주송周頌과는 다르다.
노송魯頌은 주로 희공僖公의 공덕을 노래하였으니, 기껏 변풍變風의 찬미함과 같을 뿐이어서 또 상송商頌과도 다르다.
’은 찬미하는 시의 명칭인데, 왕자王者의 시를 악관樂官에 진열하지 않아 노인魯人의 시가 ‘국풍國風’이 될 수 없었으니, 천자天子의 예를 사용할 수 있었기 때문이다.
그리하여 천자天子를 찬미하는 시의 명칭을 빌려 이름을 ‘’으로 바꾼 것이니, 주송周頌과 같은 부류가 아니다. 그런데 공자孔子가 ‘’이라는 명칭을 공유共有하였기 때문에 삼송三頌에 포함시켰을 뿐이다.
노송魯頌상송商頌의 앞에 둔 것은 종친宗親이며 동성同姓이기 때문이다. 그리하여 상대商代보다 앞에 둔 것이다.
이것을 사시四始라고 하니 시의 지극함이다.
’는 왕도王道의 흥성과 쇠미함이 말미암는 것이다.
의 [시위사시 시지지야是謂四始 詩之至也]
정의왈正義曰:‘사시四始’는 정현鄭玄장일張逸에게 “〈사시는〉 ‘’과 ‘소아小雅’와 ‘대아大雅’와 ‘’이니, 인군이 〈사시의 도를〉 행하면 흥성하고 폐기하면 쇠미해진다.” 하였고,
에 “‘’는 왕도王道의 흥성과 쇠락이 말미암는 것이다.” 하였으니, 그렇다면 이 ‘사시四始’는 인군이 나라를 흥성하게 하고 패망하게 하는 시작이다. 그리하여 ‘사시四始’라고 한 것이다.
시지지詩之至’는 의 지극한 이치가 여기에서 곡진한 것이다. 에서 의 이치를 곡진하게 말하였으므로 ‘시지지詩之至’라는 말로 맺은 것이다.
시경詩經≫의 위서緯書인 ≪범력추汎歷樞≫에 “대아大雅의 〈대명大明〉은 ‘’에 배속시켰으니 수시水始이고, 소아小雅의 〈사모四牡〉는 ‘’에 배속시켰으니 목시木始이며, 소아小雅의 〈가어嘉魚〉는 ‘’에 배속시켰으니 화시火始이고, 소아小雅의 〈홍안鴻雁〉은 ‘’에 배속시켰으니 금시金始이다.” 하여
모서毛序의〉 사시四始와 다른 것은 위서의 글은 가 ‘사시四始’의 뜻을 가지고 있으므로 시문詩文으로 가탁한 것이다.
정현鄭玄이 ≪육예론六藝論≫을 지을 적에 ≪춘추春秋≫의 위서緯書인 ≪연공도演孔圖≫의 “오제五際육정六情을 포함한다.”라고 한 것을 인용한 것은,
정현鄭玄이 “≪범력추汎曆樞≫의 ‘의 때는 혁명에 해당되고, 의 때는 개정에 해당되며, 천문天門에서 제왕의 흥망과 성쇠를 살피고 듣는다.
는 〈소아 천보小雅 天保〉이고, 는 〈소아 기보小雅 祈父〉이며, 는 〈소아 채기小雅 采芑〉이고, 는 〈대아 대명大雅 大明〉이다.’ 하였으니, 그렇다면 는 혁명이 되니 일제一際이고, 가 또 천문이 되어 제왕의 흥쇠와 득실을 살피고 감청하니 이제二際이며,
는 음양이 바뀌는 때이니 삼제三際이고, 는 양이 시들고 음이 일어나니 사제四際이며, 는 음이 성하고 양이 쇠미하니 오제五際이다.” 한 것이고, ‘육정六情’은 ≪춘추좌씨전春秋左氏傳≫에 “”라 한 것이 이것이다.
시경詩經≫은 이 ‘오제五際’와 ‘육정六情’을 포함하고 있다. 그리하여 정현鄭玄이 ≪육예론六藝論≫에서 이를 말한 것이다.
그렇다면 〈관저關雎〉와 〈인지麟趾〉의 교화는 왕자王者이다. 그리하여 주공周公에 연계시켰고, ‘’은 교화가 북에서 남까지 이르렀음을 말한 것이다.
작소鵲巢〉와 〈추우騶虞〉의 덕은 제후의 이니 선왕이 교화한 것이다. 그리하여 소공召公에 연계시킨 것이다.
’는 ‘부터’이니, ‘종북이남從北而南’은 교화가 ‘기주岐周’에서 ‘강한江漢’의 지역에까지 미친 것을 말한다. ‘선왕先王’은 태왕太王왕계王季를 가리킨다.
의 [연즉관저인지지화 왕자지풍然則關雎麟趾之化 王者之風 고계지주공故係之周公]에서 [계지소공繫之召公]까지
정의왈正義曰는 ‘관저시풍화지시關雎是風化之始’를 가지고 마침내 거듭 밝혀서 의리義理를 광범위하고 곡진하게 논하였다. 그런 다음에 비로소 ‘주남周南’과 ‘소남召南’을 말한 것이다.
’은 윗말을 옳게 여긴 것이고 ‘’은 곧 아래의 일이니, 앞의 말로 인하여 뒤의 말을 일으키는 문투이다. 그렇다면 〈관저關雎〉와 〈인지麟趾〉의 교화는 왕자王者이니, 문왕文王이 백성을 교화한 것이다.
왕자王者는 반드시 성인이어야 하니 주공周公이 성인이므로 주공周公에 연계시킨 것이다. ‘’라고만 하지 않고 ‘’을 이어 말한 것은 문왕의 교화가 북방에서부터 남방에까지 시행됨을 말한 것이다.
작소鵲巢〉와 〈추우騶虞〉의 덕은 제후의 이니, 선왕先王태왕太王왕계王季가 백성을 교화한 것이다. 제후는 반드시 현인이어야 하니 소공召公이 현인이므로 소공에 연계시킨 것이다.
다시 ‘’을 말하지 않은 것은 뜻이 주남周南과 같기 때문이다. 주남周南에서는 ‘’라 하고 소남召南에서는 ‘’이라 한 것은 변문變文이다. 위에서 ‘관저 후비지덕關雎 后妃之德’이라 한 경우도 이와 통한다.
제후지풍諸侯之風에서는 선왕先王이 교화한 것임을 말하고 왕자지풍王者之風에서는 문왕이 교화한 것임을 말하지 않은 것은 주남과 소남이 모두 문왕의 교화이므로 문왕의 교화가 아니라고 의심하지 않을 것이기 때문이다.
다만 문왕이 교화를 행한 것은 선왕의 도를 겸하여 행한 것이지만, 문왕의 교화에 감복한 것은 주남이 되고 선왕의 교화에 감복한 것은 소남이 되니, 〈소남에〉 선왕의 교화를 말하지 않으면 그러한 줄을 알지 못하므로 특별히 밝힌 것이다.
주남과 소남이 사실 문왕의 시인데도 주공과 소공에 연계시킨 것은, ≪정지鄭志≫에 장일張逸이 “‘왕자지풍王者之風’이라 하였으니 왕자王者는 당연히 ‘’에 있어야 하는데 ‘’에 둔 것은 무슨 이유입니까?” 하니, 정현鄭玄이 “문왕은 제후이면서 왕자王者의 교화가 있었으니, 그 근본을 말한다면 이라고 해야 한다.” 하였다.
장일은 문왕을 왕이라 불렀으면 시가 의당 ‘’에 있어야 한다고 여긴 것이다. 그리하여 질문한 것이고, 정현은 이 시의 내용이 문왕이 제후일 때의 일을 말한 것이지만, 왕자王者의 교화가 있었으므로 ‘왕자지풍王者之風’이라고 하였으나 당시에 실제 제후였기 때문에 시인이 ‘’를 짓지 못하였다 여긴 것이다.
문왕이 천하의 3분의 2를 교화하였으므로 ‘왕자지풍王者之風’이라 하였으니, 문왕의 은 왕업의 기초인 것이다.
이 시는 을 섬길 때에 왕업의 기초를 닦은 일을 말하였다. 그리하여 ‘그 근본을 말한다면 이라고 해야 한다.’ 한 것이다.
교화가 한 나라에 흡족한 것을 ‘’이라 하고, 왕도가 천하에 행해진 뒤에라야 마침내 ‘’라 할 수 있다.
문왕은 겨우 육주六州를 얻어서 천하를 통일하지는 못했으니, 비록 제후보다는 크지만 바로 제후 중의 큰 제후일 뿐이었다.
이는 주남과 소남을 지은 시인들이 아직 제후로 대우하여 ‘’을 짓고 ‘’의 로 짓지 않았으니, 가 실제 ‘’이므로 ‘’라 할 수 없는 것이다.
문왕文王의 말년에는 몸소 실제 왕이라 하였으므로 또 ‘국풍國風’의 시를 왕에게 연계시킬 수 없었으니, 명칭은 연계시킬 곳이 없으나 시는 버릴 수 없었다.
그리하여 주공과 소공이 왕을 위하여 교화를 행한 것으로 인하여 시를 주공과 소공에 연계시킨 것이다. 천자가 딸을 제후에게 시집을 보낼 때에 동성의 제후에게 주관하게 하는 것도 이 이치이다.
소아 녹명小雅 鹿鳴〉은 문왕 때의 시인이 본래 천자로 대우하여 ‘’를 지은 것이니, 왕업의 기초를 닦는 일이 아니므로 ‘’이라 하지 않은 것이다.
만약 그렇다면 〈문왕의 시를〉 왕자王者의 ‘’으로 지을 때에 반드시 성인의 교화에 감화되었을 것이니, 문왕의 성스러움을 이미 알아 결국 반드시 왕이 될 것을 알았을 것이다.
’를 짓지 않고 ‘’을 지은 것은 시인의 뜻이니, 각자 자신의 뜻을 말한 것이다.
문왕이 이때에 아직 ‘왕호王號’를 칭하지 않았는데, 어떤 이는 문왕을 위해 ‘’를 짓기도 하고 어떤 이는 ‘’을 짓기도 한 것은 사람의 뜻이 같지 않기 때문이다.
의 [자종自從]에서 [왕계王季]까지
정의왈正義曰:≪이아爾雅≫ 〈석고釋詁〉에 “‘’은 ‘부터()’이다.” 하여 반복하여 훈을 냈으니 ‘’가 ‘’이 될 수 있는 것이다.
문왕의 나라가 기주岐周의 동북쪽에 있어 주왕紂王의 도읍에 가까웠고 서북쪽으로는 융적戎狄에 가까웠으므로 문왕의 교화가 남쪽으로 행해진 것이다.
주남 한광周南 漢廣〉의 에 “아름다운 교화가 강수江水한수漢水의 지역에 행해졌다.” 하였으니, 이는 기주岐周에서 강수江水한수漢水의 지역까지 교화가 미친 것이다.
태왕太王이 처음으로 기업基業을 세운 자취가 있어 가 시호를 추증함에 위로 태왕太王까지 이른 것이다. 그리하여 ‘선왕先王’이 태왕太王왕계王季를 가리킨 것임을 안 것이다.
주남周南소남召南은 시작을 바르게 하는 도이고 왕화王化의 기본이다.
의 [주남周南]에서 [지기之基]까지
정의왈正義曰주남周南소남召南주공周公소공召公에 연계됨을 말하고 나서 또 주남과 소남의 긴요한 뜻을 총괄하여 들었으니,
주남과 소남 25편의 시는 모두 처음을 바르게 하는 대도大道이고 왕업과 교화의 기본이다.
높이 오르는 것은 낮은 곳에서 시작하고 멀리 가는 것은 가까운 곳에서 시작하는 것이니, 문왕文王이 집안을 바르게 한 뒤에 나라에 미친 것은 시작을 바르게 하는 것이고, 남쪽을 교화하여 왕업을 이룬 것은 왕화王化의 기본이다.
계찰季札이 주남과 소남을 노래하는 것을 보고 “기초를 시작하였으나 아직 을 다 이루지는 못했다.” 하고 복건服虔이 “아직 ‘’와 ‘’의 공을 이룸은 없다.” 한 것 역시 ‘이남二南’이 왕화王化의 기본임을 말한 것이니, ‘’의 뜻은 저들의 글에서 나온 것이다.
이 때문에 〈관저關雎〉는 〈후비后妃가〉 숙녀를 얻어 군자의 배필로 삼아주는 것을 즐거워하고, 근심이 어진 여인을 천거함에 있어서 자신의 아름다움을 지나치게 드러내지 않은 것이다.
그윽하고 한적한 곳에 있는 여인이 천거되지 못할까 가슴 아파하고 어진 자질의 여인을 얻을 것을 생각하여 착한 사람을 해치는 마음이 없으니, 이것이 〈관저關雎〉의 뜻이다.
’는 아마도 글자의 오류인 듯하니 ‘’이 되어야 한다. ‘’은 충심으로 미루어 생각함을 이른다. ‘무상선지심無傷善之心’은 ‘좋은 배필’이라는 것이다.
○‘’은 착함이다. ‘’는 선유들이 모두 본음대로 읽는다고 하였으니, ≪논어論語≫의 “슬퍼하지만 화기和氣를 해치지 않는다.”라고 한 것이 이것인데, 정현鄭玄이 ‘’으로 바꾼 것이다.
모형毛亨은 “요조窈窕는 그윽하고 한적한 것이다.” 하고, 왕숙王肅은 “착한 마음을 ‘’라 하고 아름다운 얼굴을 ‘’라 한다.” 하였다. ‘’는 ‘’으로 되어 있는 본도 있다.
의 [시이是以]에서 [지의야之義也]까지
정의왈正義曰:위에서 이미 주남周南소남召南을 총괄하여 말하고, 또 〈관저關雎〉의 뜻을 말하여 위의 후비后妃의 덕을 반복하여 기술하였으니, 주남周南소남召南이 모두 시작을 바르게 하는 방도를 말한 것이기 때문에 집안의 교화를 먼저 찬미한 것이다.
이 때문에 〈관저關雎〉는 ‘후비后妃의 마음에 즐거워하는 것은 어질고 착한 여인을 얻어 자기 군자(남편)의 배필로 삼는 것이고, 마음에 근심하는 것은 어진 여인을 천거하는 데에 있어 자신의 아름다움을 지나치게 드러내지 않은 것이며,
또 그윽하고 한적한 곳에 있는 여인이 아직 천거되지 못함을 슬퍼하여 어진 여인을 얻어 그와 함께 군자를 섬길 것을 생각한 것이다.
노심초사하지만 선한 도를 해치는 마음이 없으니, 이것이 〈관저關雎〉의 의미이다.’라고 풀이하였으니 모형毛亨의 뜻이 당연하다. 정본定本의 ‘시관저지의是關雎之義’는 속본俗本에는 ‘’ 아래에 ‘’가 있는데, 이는 잘못이다.
정현鄭玄이 ‘’를 ‘’이라 하여 ‘후비后妃가 충심으로 생각하는 것이 요조숙녀에 있어, 행실이 어진 이 여인으로 하여금 궁궐 안을 화목하게 하고, 착한 사람을 해치려는 마음이 없게 하고자 함을 생각한 것이다.’ 하였다.
나머지는 모형毛亨의 뜻과 같다. 부인婦人이 남편을 군자君子라 하는 것은 상하에 통하는 호칭이다.
악득숙녀이배군자樂得淑女以配君子’는 아름다운 을 갖춘 숙녀를 구하여 남편의 빈어嬪御로 삼아 그들과 문왕을 함께 모실 것을 말한 것이니, 〈관저關雎〉 5의 내용이 모두 그렇다.
여인이 미색美色이 있으면 남자가 기뻐한다. 그리하여 의 글에서 모두 여인을 ‘’이라 한 것이다. ‘’은 ‘지나침’이니 정도에 지나친 것을 ‘’이라 한다.
남자가 여인을 지나치게 사랑하는 것을 ‘여색女色에 빠졌다’ 하고, 여인이 지나치게 총애를 구하는 것은 자신의 아름다움을 지나치게 드러내는 것이니, 여기에서 ‘불음기색不淫其色’이라 한 것은 후비后妃가 〈총애를 구하기 위해〉 자신의 아름다움을 지나치게 드러내지 않음을 말한 것이다.
’는 후비后妃이다. 부덕婦德은 싫증내지 않으며 뜻은 가득 차게 해서는 안 되니 욕정欲情이 있으면 투기하지 않을 수가 없는 것인데, 오직 후비后妃의 마음은 근심이 어진 여인을 천거하는 데 있어서, 어진 여인이 천거되지 못하는 것을 자신의 근심으로 삼은 것이다.
자신의 아름다움을 지나치게 드러내어 총애를 독차지하기를 구하지 않는 것은 사람으로서 어려운 일인데도 후비后妃의 성품이 그렇게 할 수 있었다. 그리하여 노래하여 찬미한 것이다.
모형毛亨은 “보이지 않는 곳에 있는 여인이 후비后妃와 덕이 같은 자인데, 후비后妃가 자신은 군자의 배필이 되었고 저 여인은 홀로 보이지 않는 곳에 있어 아직 천거되지 못한 것을 슬퍼하였다. 그리하여 이를 슬프게 생각한 것이다.”라고 여긴 것이니,
보이지 않는 곳에 있는 여인이 아직 천거되지 못함을 슬퍼하고 또 훌륭한 자질을 갖춘 여인을 생각하여 천거하고자 한 것이다.
애요조哀窈窕’가 곧 ‘악득숙녀樂得淑女’이고 ‘사현재思賢才’가 곧 ‘우재진현憂在進賢’이니 속마음을 드러내 말한 것이다.
의 글을 지적하자면 ‘우재진현憂在進賢’은 아래 3이고, ‘불음기색不淫其色’은 첫 의 첫 두 구절이다.
이 시를 지은 의도는 주안점이 후비后妃가 어진 여인을 천거한 것을 찬미한 것이니, 어진 여인을 추천할 수 있는 이유가 자신의 아름다움을 지나치게 드러내지 않기 때문이므로 자신의 아름다움을 지나치게 드러내지 않은 것을 먼저 말한 것이다.
작자作者의 뜻을 논함에 ‘진현進賢’에 주안점을 두었으므로 먼저 ‘진현進賢’을 말하였으니 이 때문에 의 순서가 도치된 것이다. 정현鄭玄이 ‘’자를 풀이한 것은 다르지만, 의 뜻을 풀이한 것은 모향毛享과 같다.
의 [애개哀蓋]에서 [호구好逑]까지
정의왈正義曰후비后妃가 어진 여인을 구하는 것만을 생각할 뿐이니 슬퍼하는 일이 그 사이에 개입될 수가 없었다.
에 ‘종과 북을 연주하며 즐거워한다.’ 하고, ‘거문고와 비파를 연주하면서 친애한다.’ 하였으니, 슬픔과 즐거움을 같이하지 않으므로 슬퍼함이 있을 수 없다. 그리하여 ‘개자지오蓋字之誤’라 한 것이다.
에서 글자를 바꾼 곳이 많은데 모두 ‘당위모자當爲某字’라 주석하였다. 이곳은 의 시작부분에 있으므로 ‘’라 하여 의문의 말로 만든 것이니, 이후는 모두 이와 같다.
’과 ‘’은 글자는 다르지만 뜻은 같다. 글에 ‘이 되고 가 된다.’ 하였으므로 ‘서지恕之’라 한 것이다.
보이지 않는 곳에 있는 여인을 생각함을 말하여 ‘훌륭한 자질을 가진 어진 여인이기를 생각한다.’ 하였으니 자기보다 나은 여인을 꺼려 어진 여인을 해치지 않음을 말한 것이다.
무상선지심無傷善之心’은 선량한 사람을 해치지 않음을 말한다. 에서는 “중첩衆妾들이 모여 원망하므로 요조숙녀로 하여금 화해시켜 서로 해치지 못하게 하였다.”라고 하였다. 그리하여 ‘위호구야謂好逑也’라 한 것이다.
논어論語≫에 “〈관저關雎〉는 즐거워하지만 지나치지 않고, 슬퍼하지만 화기를 해치지 않는다.” 한 것이 바로 이 의 뜻이다.
논어論語≫ 주석에 “세상의 부부가 이러한 사람을 만나지 못함을 슬퍼하지만 그 사랑을 해치지 않는다.” 하였으니, 정현鄭玄이 여기에서는 ‘’를 ‘’이라 하고 ≪논어論語≫에서는 그대로 ‘’로 뜻을 삼은 것이다.
정현鄭玄유염劉炎에게 “≪논어論語≫의 주석이 세상에 유행된 지가 오래되었으니 의미가 혹시 그러할 것이다. 그리하여 새롭게 정하지 않고 후설後說로 남겨놓는다.” 하였으니, 이는 정현鄭玄이 의심하여 두 가지로 해석한 것이다.
모형毛亨의 뜻이 정현鄭玄의 뜻과 반드시 다르다는 것을 알 수 있는 것은 이 시의 모형毛亨에게서 나왔고 글자가 삼가三家(신공申公, 원고轅固, 한생韓生)와 다른 것이 흔하기 때문이다.
모형毛亨의 처음에 두었으니 만약 모형毛亨이 잘못임을 알았다면 스스로 그것을 고쳤을 것인데, 무엇 때문에 그대로 ‘’자로 했겠는가.
모형毛亨파자破字를 해야 할 이치가 없었다. 그리하여 ‘’의 뜻을 따른 것을 알 수 있다. 모형毛亨이 이미 ‘’를 뜻으로 삼았으니 이하는 뜻과 문세가 모두 정현鄭玄과 다르다.
사현재思賢才’는 어진 자질을 지닌 착한 여인을 생각함을 말한다. ‘무상선지심無傷善之心’은 선도善道를 온전히 실천하게 할 수 있음을 말한다.
보통 사람은 어진 이를 좋아하면 뜻이 나태해지고 〈이어서〉 중도에 그만 두면 선한 마음을 해치는데, 후비后妃는 자나 깨나 생각하고 전전반측하는 근심을 그만둘 수 없어서 나태한 적이 없으니,
이것이 선도善道를 반드시 온전하게 하여 해침이 없는 마음인 것이다. 그렇다면 모형毛亨이 ‘무상선지심無傷善之心’이라 여긴 것은 마땅히 세 번째 이 된다.
왕숙王肅은 “보이지 않는 곳에 있는 여인이 천거되지 못함을 슬퍼하고, 어진 자질의 훌륭한 여인을 생각하였으니 선을 해치는 마음이 없는 것이다. 만약 구차하게 총애만을 탐하면 선한 마음을 해친다.” 하였다.
구욱구욱 정겨운 물수리 하수河水의 모래톱에 있네
雎鳩(≪毛詩名物圖說≫)雎鳩(≪毛詩名物圖說≫)
이다. ‘관관關關’은 서로 부르고 화답하는 소리이다. ‘저구雎鳩’는 왕저王雎인데 암수의 새가 정이 지극하면서도 분별이 있다. 물 가운데 머물만한 곳을 ‘’라 한다.
후비后妃군자君子의 덕을 기뻐하여 화목하고, 또 〈총애를 구하기 위해〉 자신의 아름다움을 지나치게 드러내지 않아서 그윽하고 한적한 곳에서 삼가고 견고한 것이 물수리가 분별이 있는 것과 같았다. 그런 뒤에야 천하를 교화할 수 있는 것이다.
부부가 분별이 있으면 부자가 친애하고, 부자가 친애하면 군신이 공경하며, 군신이 공경하면 조정이 바르게 되고, 조정이 바르면 왕의 교화가 이루어진다.
전운箋云:‘’의 뜻은 ‘지극함’이니, 왕저王雎가 암수의 정이 지극하지만 분별이 있는 것을 말한다.
○‘저구雎鳩’는 새 중에서 암수의 분별을 지극히 하는 새이다. 살펴보면 ‘’은 비유하는 것의 명칭이니, 뜻에 미진함이 있으므로 ‘’이라 한 것이다. 다른 경우도 모두 이와 같다.
얌전한 숙녀 군자의 좋은 배필이네
요조窈窕’는 ‘얌전함’이다. ‘’은 ‘착함’이고, ‘’는 ‘배필’이다. 후비后妃에게 물수리와 같은 덕이 있으니, 얌전하며 지조가 굳은 착한 여인이다. 그리하여 군자君子의 좋은 배필이 되기에 마땅함을 말한 것이다.
전운箋云:나쁜 배필을 ‘’라 하니 후비后妃의 덕이 화목하면 그윽하고 한적한 깊은 궁궐에 거처하는 지조가 굳고 마음이 한결같은 착한 여인이 군자를 위해 원망하는 첩들을 화목하게 할 수 있음을 말한 것이다.
모두가 후비后妃의 덕에 감화되어 질투하지 않음을 말한 것이니 삼부인三夫人 이하를 말한다.
○‘’는 모형毛亨은 본음대로 읽었는데 〈토저兎罝에서도 이와 같다. ‘’는 모형毛亨은 ‘배필이다’ 하였다. ‘’로 되어 있는 본도 있으나 음은 같다. 정현鄭玄은 ‘원우왈구怨耦曰仇’라 하였다.
의 [관관關關]에서 [호구好逑]까지
정의왈正義曰모형毛亨은 “구욱구욱 암수가 다정하게 지저귀어 소리가 조화롭고 아름다운 것이 물수리이다.
물수리는 암수가 비록 정이 지극하지만 오히려 스스로 분별할 줄 알아서 물 가운데의 모래톱에 물러가 있으면서 네 마리가 함께 살거나 홀로 살지 않고 제 짝만 따른다.
이로써 정이 지극하고 성품이 화목한 이가 후비后妃이니, 후비后妃가 비록 군자를 기쁘고 즐겁게 하지만 오히려 총애를 구하기 위해 자신의 아름다움을 지나치게 드러내지 않고 물러나 깊은 궁중에 있으면서 소홀히 하고 함부로 대하지 않은 것이다.
후비后妃가 이러한 덕이 있고 또 투기하지 않아서 숙녀를 얻어 군자의 배필로 삼을 것을 생각한 것이다. 그리하여 얌전하고 지조가 굳은 선한 여인이 군자의 좋은 배필이 되기에 마땅함을 한 것이다.”라고 여긴 것이다.
후비后妃가 투기하지 않아서 함께 군자를 섬길 수 있으므로 ‘’라 한 것이다.
정현鄭玄은 아래 두 구절만을 다르게 여겨 “‘유한지선녀幽閒之善女’는 삼부인三夫人구빈九嬪을 이르니, 이미 후비后妃에게 교화되어 역시 투기하지 않았다.
그리하여 남편인 문왕을 위해 뭇 첩들 중에 문왕을 원망하는 여인들을 조화롭게 하여 모두 기뻐하게 하였다.”라고 하였다.
의 [관관關關]에서 [왕화성王化成]까지
정의왈正義曰:≪이아爾雅≫ 〈석고釋詁〉에 “관관關關옹옹雍雍이니 소리가 조화로운 것이다.” 하였으니, 관관關關은 서로 부르고 화답하는 소리이다.
저구 왕저야雎鳩 王雎也’는 〈석조釋鳥〉의 글이다. 곽박郭璞은 “저구雎鳩는 독수리의 종류이다. 현재 강동에서는 이것을 물수리라 하는데, 강변이나 모래톱에 서식하기를 좋아하고 역시 물고기를 먹는다.” 하였는데,
육기陸機에 “저구雎鳩는 크기가 올빼미와 같고 움푹한 눈에 눈두덩이 튀어나왔는데 유주幽州 사람들은 독수리라 부른다. 양웅揚雄허신許慎은 모두 ‘흰 물수리로 매와 비슷하고 꼬리의 위쪽이 흰색이다.’ 했다.” 하였다.
정본定本에 ‘조지이유별鳥摯而有別’이라 한 것은 새 가운데 암수가 정이 지극히 도타운데도 오히려 분별할 줄 안다고 말한 것이다. 그리하여 후비后妃가 군자를 기쁘고 즐겁게 하여 정이 깊으면서도 총애를 구하기 위해 자신의 아름다움을 지나치게 드러내지 않음을 한 것이다.
에서 ‘’자를 썼으니 ‘지극하다’는 뜻을 취하였다. 그리하여 에 ‘지지언지 왕저지조摯之言至 王雎之鳥 웅자정의지 연이유별雄雌情意至 然而有別’이라 하여 모형毛亨을 거듭 밝힌 것이다.
속본俗本에 “저구雎鳩왕저王雎의 새이다.”라고 한 것은 잘못이다.
수중가거자왈주水中可居者曰洲’는 ≪이아爾雅≫ 〈석수釋水〉의 글이다. 이순李巡은 “사방이 물이고 중앙에만 머물 수 있다.” 하였다. 〈석수釋水〉에 또 “작은 모래톱을 라 하고, 작은 라 하고, 작은 라 한다.” 하였는데,
소남 강유사召南 江有汜〉의 ‘강유저江有渚’에 대한 에 “는 작은 모래톱이다.” 하고 〈진풍 겸가秦風 蒹葭〉의 과 〈패풍 곡풍邶風 穀風〉의 에도 모두 “소저小渚라 한다.” 하였으니, 모두 ≪이아爾雅≫에 근거하여 말한 것이다.
주남 채번周南 采蘩〉의 에 “이다.” 하고, 〈대아 부예大雅 鳧鷖〉의 에 “이다.” 하였으니, 번갈아 말하여 사람들을 이해시킨 것이다.
겸가蒹葭의 내용에 “는 작은 이다.” 하고 ‘소지小沚’를 말하지 않은 것은, 는 크기에 따라 명칭이 다를 뿐이고 보다 작은 것이므로 를 들어 말한 것이다.
화해和諧’는 마음이 화평하고 뜻이 맞는 것이니, 일마다 그러하므로 ‘무불화해無不和諧’라 한 것이다.
또 ‘재하지주在河之洲’로 비유를 삼은 뜻을 해석하여, ‘후비后妃가 비록 군자를 기쁘고 즐겁게 하지만 총애를 구하기 위해 자신의 아름다움을 지나치게 드러내지 않고,
근신하고 정도를 굳게 지켜서 그윽하고 한적한 깊은 궁궐에 있으면서 함부로 군자에게 외설스럽게 대하지 않는 것이 마치 물수리가 분별이 있는 것과 같았다. 그리하여 한 것이다.’라 한 것이다.
후비后妃의 덕이 이와 같게 된 뒤에라야 천하를 교화하여 부부가 분별이 있게 할 수 있는 것이다.
부부가 분별이 있으면 덕성이 순후해져서 자식이 효도하므로 부자가 친애하게 되고, 효자가 신하가 되면 반드시 충성한다. 그러므로 부자가 친애하면 군신이 공경하는 것이다.
군신이 공경하면 조정이 자연 엄정해지고, 조정이 바르게 되면 천하에 무례無禮를 범하는 이가 없게 된다. 그리하여 왕의 교화가 이루어지는 것이다.
의 [요조窈窕]에서 [호필好匹]까지
정의왈正義曰:‘요조窈窕’는 숙녀가 거처하는 궁궐의 모습이 그윽하고 한적한 것을 말한다. 그리하여 에서 ‘유한심궁幽閒深宮’이라 한 것이 이것이다.
에서 그러한 것을 안 것은 숙녀가 여인을 부르는 좋은 호칭이기 때문이다. 그렇다면 ‘요조窈窕’는 마땅히 거처가 되어야 하기 때문이다. 그리하여 ‘유한幽閒’이라 하였으니, 깊숙하고 한적함을 말한 것이다.
양웅楊雄이 ‘착한 마음을 「」라 하고 아름다운 용모를 「」라 한다.’ 한 것은 잘못이다. ‘구 필逑 匹’은 ≪이아爾雅≫ 〈석고釋詁〉의 글이니, 손염孫炎은 ‘서로 찾는 배필이다.’ 하였다. ≪≫에 본래 ‘’로 되어 있는데 ≪이아爾雅≫에 대부분 ‘’로 되어 있는 것은 글자는 다르지만 음과 뜻이 같기 때문이다.
또 ‘후비유관저지덕 시유한정전지선녀后妃有關雎之德 是幽閒貞專之善女 의위군자지호필宜爲君子之好匹’이라 한 것은 후비后妃가 어진 여인을 생각하는 마음이 있음을 찬미하였다.
그리하여 마땅히 어진 여인을 구하려고 하는 모습을 말한 것이다. 마땅히 구하여 군자의 좋은 배필로 삼을 만한 자를 모두 말하자면 120인임을 말한 것이다.
의 [부질不嫉]에서 [이하以下]까지
정의왈正義曰:아래 의 ‘삼부인三夫人구빈이하九嬪以下’를 여기에서는 ‘삼부인이하三夫人以下’라고만 하였으니, 그렇다면 구빈九嬪 이하는 중첩衆妾을 총괄하여 말한 것이고,
삼부인이하三夫人以下’는 구빈九嬪만을 포함할 뿐이니, 숙녀가 중첩衆妾들을 화목하게 한 것은 존귀한 이를 위주로 말한 것이다. 그리하여 구빈九嬪 이상만을 가리킨 것이다.
나물을 구함은 모두 후비后妃의 일을 즐겁게 함을 말한 것이다. 그리하여 ‘구빈이하九嬪以下’를 겸하여 말하면, 모두 120인이다. 만약 그렇다면 여기의 중첩衆妾은 ‘세부世婦’와 ‘여어女御’를 말한 것이다.
주례周禮≫의 에 “세부世婦여어女御에 대해 인원수를 말하지 않은 것은, 군자는 여색에 구차하지 않아서 부덕婦德을 갖춘 여인이 있으면 충원하고 없으면 비워두기 때문이다.” 하였으니,
원망을 가지는 이유가 그 여인이 직분이 낮고 덕이 부족하여 원망함이 없을 수 없기 때문이다. 그리하여 숙녀가 그들을 화목하게 한 것이다.
후비后妃가 화목하게 하여 중첩을 잘 교화하면 비록 작은 원망을 가진 첩이 있더라도 화목하게 되어 교화를 따랐음을 보인 것이니, 역시 이로써 후비后妃의 덕을 밝힌 것이다.
여기에서 120인이라 한 것은 주남周南왕자王者이기 때문에 천자의 수를 가지고 추측한 것이지 당시에 그렇다는 것이 아니다.
어째서인가? 문왕文王은 일찍 제후가 되었으니 어찌 먼저 이나 이 한 사람도 없어서 모두 반드시 후비后妃가 구했겠는가.
또 120인이란 수는 ≪주례周禮≫에 처음으로 보이는데, 정현鄭玄이 ≪예기禮記≫ 〈단궁檀弓〉에서 다르게 해석하여 “제곡帝嚳이 4를 두었는데 제요帝堯는 이를 따랐고, 은 어버이에게 알리지 않고 장가를 들어 정비正妃를 세우지 않았는데,
는 9를 더하여 12으로 하였고, 은 27을 더하여 39으로 하였으며, 주대周代에는 81을 더하여 120으로 하였다.” 하였다.
은대殷代에는 39뿐이었는데, 하물며 문왕文王은 제후의 세자였으니 어떻게 120을 두었겠는가.
올망졸망 노랑어리연꽃 나물 도움 받아 찾았고
荇菜(≪毛詩品物圖攷≫)荇菜(≪毛詩品物圖攷≫)
’은 ‘접여接余’이고 ‘’는 ‘찾음’이다. 후비后妃가 물수리의 덕이 있어 마침내 노랑어리연꽃을 올리고 여러 제수祭需를 갖춰 종묘를 섬길 수 있었던 것이다.
전운箋云:‘좌우左右’는 ‘돕다’이다. 후비后妃가 노랑어리연꽃 나물 절임을 올리려고 할 적에, 반드시 후비를 도와서 나물을 찾는 여인이 있었음을 말하였으니, 3부인夫人과 9 이하가 모두 후비后妃를 돕는 일을 즐거워했음을 말한 것이다.
○‘좌우左右’는, 왕숙王肅모형毛亨이 본래의 음으로 읽는다고 한 뜻을 옳다 하고, 정현鄭玄은 앞의 글자는 음이 ‘’이고 뒤의 글자는 음이 ‘’라 하였다. ‘’이 ‘’으로 되어 있는 이 있으니, 아래 ‘공행채共荇菜’도 같다. ‘’는 글자가 ‘’로도 되어 있다. ‘’은 내궁內宮의 명칭이다.
얌전한 숙녀를 자나 깨나 찾았네
’는 깨어있는 것이고 ‘’는 잠자는 것이다.
전운箋云후비后妃가 자나 깨나 항상 어진 여인을 찾음을 말한 것이니, 그들과 자신의 직분을 함께하고자 한 것이다.
의 [참치參差]에서 [구지求之]까지
모형毛亨은 “후비后妃의 품성이 화평하여 후비后妃의 직분을 감당하였으니 노랑어리연꽃 나물을 올려 종묘를 섬기기에 마땅하였다. 후비后妃가 이 올망졸망 고르지 못한 노랑어리연꽃을 반드시 빈첩嬪妾들의 도움을 받아 채취해야 한다고 여겼다.
이런 이유로 숙녀를 찾을 것을 생각하였으니, 깊숙하고 한적한 곳에 있는 지조가 굳고 마음이 한결같은 착한 여인을 후비后妃가 자나 깨나 항상 찾은 것이다.”라고 여긴 것이다.
정현鄭玄은 “부인夫人과 9이 투기하지 않고, 세부世婦여어女御도 원망하여 다투는 일이 없어 상하가 기뻐하여 후비后妃에게 동화되었다.
그리하여 후비后妃가 올망졸망한 노랑어리연꽃 나물을 올려 종묘의 제사를 모시려 할 적에 9여어女御들이 모두 다투어 후비를 도와 나물을 찾았으니, 모두 후비后妃를 돕는 일을 즐거워함을 말한 것이다.
즐겁게 후비后妃를 돕는 것을 말하고 난 다음에 거꾸로 그 일의 근본을 찾은 것이니, 후비后妃가 오늘 돕는 사람을 얻은 것은
그윽하고 한적한 곳에 있는 착한 여인을 아직 얻지 못했을 적에 후비后妃가 자나 깨나 항상 그들을 찾아 자기의 소임을 같이하고자 하였기 때문이다. 그리하여 그들을 얻은 것이다.”라고 여긴 것이다.
의 [행접荇接]에서 [종묘宗廟]까지
정의왈正義曰:≪이아爾雅≫ 〈석초釋草〉에 “접여接余인데 잎은 귀목풀과 같다.” 하였는데, 육기陸機에 “접여接余는 줄기가 희고, 잎은 붉은 색에 둥글며, 지름이 1 정도이다.
물 위에 떠있으며 뿌리가 물의 바닥에 있어 키가 물의 깊이와 같다. 비녀만한 크기에 위쪽은 푸르고 아래는 흰색인데, 흰 줄기를 삶아 식초에 담그면 기름지고 맛있어 안주로 삼을 만하다.” 한 것이 이것이다.
정본定本에는 ‘행 접여야荇 接余也’인데 속본俗本에는 ‘’ 아래에 ‘’자가 있으니 연문衍文이다. ‘류 구流 求’는 ≪이아爾雅≫ 〈석언釋言〉의 글이다.
나물을 구하는 일을 말하여 후비后妃를 찬미한 것은 덕이 화평하지 못하여 신명에게 합당하지 않으면 종묘의 제사를 모실 수 없기 때문이다.
지금 후비后妃가 화평하여 물수리의 덕을 소유하였기 때문에 마침내 노랑어리연꽃 나물을 올리고 여러 음식을 갖춰 종묘를 섬길 수 있는 것이다.
주례周禮≫ 〈천관 해인天官 醢人〉을 살펴보건대 사두四豆에 담은 제수祭需를 진설함에 노랑어리연꽃 나물이 없는 것은 의 예법이고, 시는 당시의 일을 읊은 것이기 때문에 노랑어리연꽃 나물이 있는 것이다.
비서물備庶物’을 말한 것은 노랑어리연꽃 나물이 여러 제수 가운데 한 가지란 것이지 지금 후비后妃가 여러 제수를 모두 갖춤을 말한 것은 아니다.
예기禮記≫ 〈제통祭統〉에 “수초로 만든 김치와 뭍에서 나는 것으로 만든 젓갈은 작은 물건이 갖추어진 것이고, 도마에 올리는 세 가지 희생과 팔궤八簋에 담는 제수는 아름다운 물건이 갖추어진 것이며, 곤충의 진미와 풀과 나무의 열매로 만든 음식은 의 물건이 갖추어진 것이다.
하늘이 내준 것과 땅에서 자란 것 중에 제수로 올릴 수 있는 것이라면 모두 제물에 들어 있지 않음이 없으니, 이는 모든 것을 다 올림을 보이는 것이다.” 하였으니, 이것이 제사에 반드시 여러 제물을 다 갖추는 것이다.
여기의 에서 제사를 말하지 않았는데도 종묘의 제사를 모시는 것임을 알 수 있는 것은 ‘좌우류지左右流之’가 후비后妃를 도와 노랑어리연꽃 나물을 구한 것이라고 말했기 때문이니, 만약 제사를 위한 나물이 아니라면 후비后妃가 친히 구하지 않는다. 〈주남 채번周南 采蘩〉은 부인이 제사를 받드는 것을 말한 것이니, 분명 이 또한 제사인 것이다.
의 [좌우左右]에서 [지사之事]까지
정의왈正義曰:‘좌우 조야左右 助也’는 ≪이아爾雅≫ 〈석고釋詁〉의 글이다. 이 장에서는 아직 노랑어리연꽃 나물을 찾지 못했으므로 도움을 받아 찾는 것이고,
이미 찾았으므로 4에서는 ‘채지采之’라 말하고, 캐서 얻었으므로 끝 에서는 ‘택지擇之’라 한 것이니, 모두 숙녀淑女후비后妃를 도운 것이다. 그리하여 장마다 ‘좌우左右’를 말한 것이다.
이 장에서는 처음 찾는 것이니, 아직 제사를 지낼 때가 되지 않았음을 말한다. 그리하여 ‘장공행채將共荇菜’라 하고, 4의 ‘금슬우지琴瑟友之’와 끝 의 ‘종고락지鍾鼓樂之’는 모두 제사 지낼 때를 말한다. 그리하여 에 ‘공행채지시共荇菜之時’라 한 것이다.
여기에서 ‘조이구지助而求之’는 아직 제사 지내기 전인데도 돕는 것을 말한 것이다.
그리하여 ≪주례周禮≫ 〈천관 구빈직天官 九嬪職〉에 “〈구빈九嬪은〉 제사에 후비后妃가 제물을 올리고 거두는 것을 돕는다.” 하였고, 〈세부직世婦職〉에 “〈세부世婦는〉 제사하는 날에 직접 임하여 궁녀들이 장만한 것을 진설하니, 모두 내수의 제물이다.” 하였으며,
여어직女御職〉에 “〈여어女御는〉 제사를 지낼 적에 세부世婦를 돕는다.” 하였고, 〈천관 서관天官 序官〉의 에 “후비后妃에 대한 삼부인三夫人의 관계는 왕에 대한 삼공三公의 관계와 같아서, 후비를 모시고 부례婦禮를 논하기만 하고 관직으로 맡는 일은 없다.” 하였으니, 분명 제사를 지낼 때에 모두 참여한 것이다.
그리하여 다음 장에 제사를 지내는 것을 말할 때에 모두 ‘숙녀淑女’라는 글이 있으니, 분명 돕는 것을 알 수 있다. 여기에서 ‘구빈이하九嬪以下’는 세부世婦여어女御를 겸한 것이다.
개락후비지사皆樂后妃之事’라 한 것은 이미 후비의 덕에 감화되고 또 후비를 돕는 일을 즐거워함을 밝힌 것이니, 후비의 후덕함에 깊이 감화되었음을 보인 것이다.
’는 노랑어리연꽃 나물을 장만하는 일이다. 일이 수고롭고 힘든데도 오히려 즐거워하였으니 그 덕에 감화됨이 어떠하겠는가.
찾아도 찾지 못해 자나 깨나 생각하네
’은 생각하는 것이다.
전운箋云:‘’은 ‘일’이다. 어진 여인을 찾아도 찾지 못하여 자나 깨나 자신의 일을 누구와 함께할 것인가 생각한 것이다.
이 생각 저 생각에 뒤척이며 잠 못 드네
’는 ‘생각함’이다.
전운箋云:생각하고 생각한다는 것은 자신이 진실로 생각함을 말한 것이다. 모로 누운 것을 ‘’이라 한다.
○‘’은 ‘’으로 되어 있는 도 있다. 정현鄭玄이 ‘부주왈전不周曰輾’이라 한 것은 가 ‘와이부주臥而不周’로 되어 있는 본에 ‘왈전曰輾’ 두 글자를 더한 것이다.
의 [구지求之]에서 [반측反側]까지
모형毛亨은 “후비后妃가 이 어진 여인을 찾아도 찾지 못했을 때에 자나 깨나 마음속으로 항상 생각한 것이다.
또 ‘후비后妃가 진실로 이 숙녀를 생각하고 진실로 이 숙녀를 생각함이여!’ 하였으니, 생각할 적에는 이리저리 뒤척이며 잠 못 이룬 것이니 매우 깊이 생각한 것이다.”라고 여긴 것이다.
정현鄭玄은 다만 라 하여, “어진 여인을 찾았으나 찾지 못해 자나 깨나 자신의 일을 누구와 함께할 것인가를 생각한 것이다.” 하였고, 나머지는 모형毛亨의 뜻과 같다.
의 [복 사지야服 思之也]
정의왈正義曰왕숙王肅은 “마음속으로 생각한 것이다.” 하였는데 에서 ≪이아爾雅≫ 〈석고釋詁〉의 글을 따라 ‘복 사야服 事也’라고 하였으니, 〈후비가〉 본래 숙녀를 찾는 것을 자신의 직무로 삼은 것으로 여겼다. 그리하여 바꾼 것이다.
의 [와이부주왈전臥而不周曰輾]
정의왈正義曰:≪서전書傳≫에 “임금도 뒤척이다 새벽에 일어난다.” 하였으니, 그렇다면 ‘반측反側’도 모로 누워있는 것이다. ‘반측反側’이 한 가지 자세이면 ‘전전輾轉’도 한 가지 자세이니 모두 모로 누워있는 것이다.
에서 만을 ‘부주不周’라 한 것은 분명하게 알기 어려운 것을 분별한 것이니 과 다른 의미라고 의심할 필요가 없다. 〈진풍 택피陳風 澤陂〉에 ‘전전복침輾轉伏枕’이라 하였는데, ‘복침伏枕’은 침상에 엎드려 반듯하게 누워있지 않은 것에 근거한 것이니, 그렇다면 이 똑같이 ‘바로 누워있지 않음’이 되는 것이 분명하다.
반측反側’은 ‘뒤집다’와 같고 ‘전전輾轉’은 ‘뒤척이다’와 같아서 모두 뒤척이는 것이니, 대동소이하다. 그리하여 〈소아 하인사小雅 何人斯〉의 에 “‘반측反側’은 ‘전전輾轉’이다.” 한 것이 이것이다.
올망졸망 노랑어리연꽃 나물 도움 받아 캐었네
전운箋云후비后妃가 노랑어리연꽃 나물을 찾으니, 반드시 도와서 캔 이가 있었음을 말한 것이다.
얌전한 숙녀 거문고 비파 타며 즐겁게 해주리
 琴(≪宋板六經圖≫)                             瑟(≪三才圖會≫) 琴(≪宋板六經圖≫) 瑟(≪三才圖會≫)
거문고와 비파를 연주하여 친애하고 즐겁게 하는 것이 당연하다.
전운箋云:뜻을 같이 하는 사람을 라 한다. 어진 여인이 후비后妃를 도와 노랑어리연꽃 나물을 올리니, 그 마음이 곧 거문고 비파 소리가 잘 어울리는 것과 같다. 그리하여 노랑어리연꽃 나물을 올릴 적에 음악을 반드시 연주함을 말한 것이다.
의 [참치參差]에서 [우지友之]까지
모형毛亨은 “후비后妃가 본래 숙녀淑女를 찾을 뜻이 있어, ‘올망졸망한 노랑어리연꽃 나물을 찾은 뒤에는 반드시 좌우에서 도움을 받아 캐야 하기 때문에 숙녀淑女를 찾은 것이다.
그리하여 그윽하고 한적한 곳에 있는 얌전하고 선한 여인을 찾을 것을 생각하였으니, 선한 여인이 만약 온다면 거문고와 비파를 연주하여 친애하고 즐겁게 할 것이다.” 한 것으로 여겼다. 음악을 연주하여 대우할 것을 생각한 것은 매우 친애한 것이다.
정현鄭玄은 “후비后妃가 아랫사람들을 감화하여 그들을 찾아 얻었고 또 즐겁게 도움을 받아 나물을 캤다고 여겨, ‘올망졸망 노랑어리연꽃 나물을 찾아 얻었으니 모든 여어女御들이 모두 즐겁게 좌우에서 도와 그것을 캔 것이다.
후비后妃에게 교화되어 친애하지 않음이 없으므로 노랑어리연꽃 나물을 올릴 적에 이 거문고 비파의 음악을 연주하여 얌전한 숙녀를 즐겁게 한 것이다.” 하였다.
마음이 화평하여 상하가 서로 친애하는 것이 거문고와 비파의 음이 이 서로 응하는 것과 다름이 없으니, 마치 거문고와 비파가 어울려 함께하는 것처럼 일을 할 때 뜻을 같이 하였기 때문에 ‘금슬우지琴瑟友之’라 한 것이다.
의 [의이금슬우락지宜以琴瑟友樂之]
정의왈正義曰:이는 후비后妃의 뜻을 말한 것이다. 후비后妃가 ‘자기가 이러한 숙녀를 생각하니 이러한 숙녀가 만약 온다면 자기가 응당 거문고와 비파를 연주하여 친애하고 즐겁게 할 것이다.’라고 말한 것이다.
’라 한 것은 친애함이 벗과 같은 것이다. 아래 에 ‘훌륭한 을 지닌 자는 응당 종과 북의 즐거움이 있다.’ 한 것은 이 장과 호언互言한 것이다.
숙녀淑女가 만약 오면 거문고와 비파, 종과 북의 즐거움이 모두 있을 것임을 밝힌 것이다. 그리하여 이 에서 아울러 ‘우락지友樂之’라 한 것이니, 이 또한 아래 장의 뜻을 미리 취한 것이다.
악기는 두 등급이 있으므로 구분하여 뜻을 나타낸 것이니, 거문고와 비파는 악기의 작은 것이므로 먼저 말하여 친애함을 나타내고, 종과 북은 악기의 큰 것이므로 끝 장에서 말하여 덕이 훌륭함을 나타낸 것이다.
모형毛亨에서 ‘’를 파자하지 않았으니, 그렇다면 이 시의 내용은 숙녀淑女를 구할 것을 생각하였으나 아직 얻지 못한 것이다. 만약 얻는다면 거문고와 비파, 종과 북을 연주하여 이 숙녀를 즐겁게 하겠다는 것이다.
그리하여 손육孫毓모형毛亨의 뜻을 말하여 “숙녀淑女를 구하였으나 아직 얻지 못하여 예악禮樂으로 그를 즐겁게 할 것을 생각한 것이다.” 하였으니, 이는 〈숙녀를 구할 것을〉 생각하였으나 아직 이루지 못한 것이니 음악은 숙녀를 위한 것이다.
제사에 연주하는 음악이 아님을 알 수 있는 것은 만약 제사 때라면 음악은 제사를 위해 연주하니, 무엇 때문에 덕이 훌륭함을 말하겠는가. 설령 여인의 이 훌륭하지 않더라도 어떻게 제사에 음악이 없을 수 있겠는가.
또 거문고와 비파가 신을 즐겁게 하는 것이라면 무엇 때문에 ‘우락友樂’을 말하였겠는가. 어찌 제사의 음악을 가지고 숙녀淑女를 친애하고 즐겁게 할 수 있겠는가. 이것으로 모형毛亨의 뜻이 숙녀를 생각하지만 아직 얻지 못했을 적에 가설한 말임을 안 것이다.
의 [동지위우同志爲友]
정의왈正義曰:벗은 뜻이 변하지 않고 협동한다.
이제 숙녀淑女가 와서 온화하고 화목한 것이 거문고와 비파 소리가 어울리는 것과 같으니, 두 사람의 뜻이 같은 것이 친구와 같다. 그리하여 ‘동지위우同志爲友’라 한 것이다.
거문고와 비파, 북과 종은 제사 지낼 때 함께 연주하지만, 다만 이 에서는 구한 것만을 말하였으므로 ‘금슬琴瑟’에 ‘’로 호응하고, 끝 에서는 고르는 것을 말하였으므로 ‘종고鍾鼓’에 ‘’으로 호응하였으나 모두 제사에 쓰이는 것이기 때문에 두 등급으로 나눈 것이다.
의 ‘악필작樂必作’은 아래 장의 ‘종고鍾鼓’를 겸한다. 아래 의 ‘금슬재당琴瑟在堂’도 이 의 ‘금슬우지琴瑟友之’를 취한 것이니, 숙녀淑女를 위해 거문고와 비파를 연주하여 친애함을 말한 것이다.
아래 장의 ‘종고락지鍾鼓樂之’는 노랑어리연꽃 나물을 올릴 때의 일로 종과 북을 연주하여 숙녀淑女를 즐겁게 한 것이니, 두 글이 다른 것은 일이 다르기 때문에 그 글을 바꾼 것이다.
거문고와 비파는 서로 어울림이 사람의 마음과 같으므로 ‘’로 말하고, 종과 북은 크고 널리 퍼져 마음에 견줄 수 있는 것이 아니므로 ‘’으로 말한 것이니, 제사 때 숙녀淑女의 마음이 화평하여 그 마음으로 제사의 음악을 들음을 나타낸 것이다.
올망졸망 노랑어리연꽃 나물 도움 받아 고르네
’는 ‘고름’이다.
전운箋云후비后妃가 이미 노랑어리연꽃 나물을 캐서 얻었으면 반드시 도와서 고르는 사람이 있는 것이다.
의 [모 택야芼 擇也]
정의왈正義曰:≪이아爾雅≫ 〈석언釋言〉에 “는 ‘뽑음’이다.” 하였는데, 손염孫炎은 “나물을 고르는 것이다.” 하고, 모씨某氏는 “은 뽑음과 같다.” 하고, 곽박郭璞은 “나물을 캐는 것이다.” 하였으니, 이는 이 ‘뽑는다’는 뜻이기 때문이다.
사기史記≫에 “참장건기斬將搴旗(적장을 베고 적의 기를 뽑아 온다.)” 하였으니, 〈건기搴旗는〉 적의 기를 뽑아오는 것을 말한 것이다. 이 ‘’인데, 여기에서 ‘모지芼之’라 하였다. 그리하여 나물을 캐서 고르는 것임을 안 것이다.
얌전한 숙녀 종과 북 연주하며 즐겁게 해주리
鍾(≪禮記 附禮器圖(漢文大系)≫)鍾(≪禮記 附禮器圖(漢文大系)≫)
鼓(≪禮記 附禮器圖(漢文大系)≫)鼓(≪禮記 附禮器圖(漢文大系)≫)
훌륭한 덕이 있는 사람은 종과 북의 즐거움이 있는 것이 당연하다.
전운箋云:거문고와 비파는 당 위에 두고 종과 북은 뜰에 두니, 노랑어리연꽃 나물을 올릴 적에 당 위와 아래의 악기를 모두 연주하여 그 예를 성대히 행함을 말한 것이다.
의 [금슬琴瑟]에서 [기예其禮]까지
정의왈正義曰:‘금슬재당 종고재정琴瑟在堂 鍾鼓在庭’을 안 것은 ≪상서尙書≫ 〈고요모皐陶謨〉에 “거문고 비파를 타며 노래하니 조고祖考이 이르렀네.” 하고,
이어서 “아래에는 관악기와 도고鼗鼓를 진열하였다.” 하였으니, 분명 금슬琴瑟은 당상에 있고 도고鼗鼓는 당하에 있는 것이다. ≪의례儀禮≫ 〈대사례大射禮〉에 “송종頌鍾은 서쪽 계단의 서쪽에 두고 생종笙鍾은 동쪽 계단의 동쪽에 둔다.” 하였으니 종과 북은 뜰에 둔 것이다.
이 시는 후비后妃숙녀淑女를 교화하여 숙녀淑女가 함께 그 일을 함을 즐거워하여, 노랑어리연꽃 나물을 얻어 종묘宗廟에 제사를 지낼 때에 당 위와 아래에서 악기를 연주하여 숙녀淑女가 올리는 예를 성대하게 한 것을 찬미한 것이다. 음악은 비록 을 위주로 연주하지만 노랑어리연꽃 나물을 올릴 때에 연주하여 숙녀淑女에게 아름다움을 돌린 것이다.
관저關雎〉는 5이니 마다 4이다. 예전에는 “3이니 한 은 4이고 두 마다 8이다.” 하였다.
○5정현鄭玄이 나눈 것이다. ‘고언故言’ 이하는 모형毛亨의 뜻이니 다음도 이와 같다.
예로부터 의 명칭이 있었으니, 와 같이 시작되었다. 그리하여 〈상송 나商頌 那〉의 에 “상송商頌 12을 얻었다.” 하고, 〈빈풍 동산豳風 東山〉의 에 “1은 그 완전함을 말했다.” 한 것이 이것이다.
’를 옛사람들은 ‘’이라 했으니, ≪논어論語≫에 “≪시경詩經≫ 3백 편을 한 한마디로 요약하면 ‘생각에 사특함이 없다.’는 것이다.” 한 것은 곧 ‘사무사思無邪일구一句일언一言으로 여긴 것이다.
춘추좌씨전春秋左氏傳≫에 “신의 일은 〈당풍 양지수唐風 揚之水〉 끝 장의 4에 있습니다.” 한 것은 4인 ‘감히 남에게 알리지 못하노라.’ 한 것이고, 조간자趙簡子자대숙子大叔에게 “나에게 구언九言을 남겼다.” 한 것은 모두 ‘일구一句’를 ‘일언一言’으로 말한 것이다.
이래로 많은 유자들이 각자 훈고를 하여 ‘’라는 명칭이 있으니, ≪논어論語≫의 주석에 “이것은 〈소아 아행기야小雅 我行其野〉의 이다.” 한 것이 이것이다.
’는 반드시 글자를 이어서 말한 것인데, ‘’는 국한하는 것이니, 글자를 잇고 말의 경계를 나누어 말을 국한하는 것이다.
’은 밝히는 것이니, 를 총괄하여 뜻을 밝힌 것이다. ‘’은 두루 미치는 것이니, 말과 감정을 드러내어 일이 분명해지고 두루 미치게 한 것이다.
그러나 글자의 사용에 있어서 글자를 온전히 취하여 뜻을 나타낸 것은 ‘관관저구關關雎鳩’의 경우이고, 허사虛辭를 빌려 도움으로 삼은 것은 ‘’와 같은 경우이다.
’는 글자를 이어서 말을 만드는 것이니, 한 글자로는 만들지 못한다. 는 뜻을 펴는 것이니 한 글자로는 말이 완전치 못하여 뜻을 펼 수 없다. 그리하여 ≪시경詩經≫에 보이는 구는 적어도 2자 이상이니 〈소아 기보小雅 祈父〉의 ‘기보祈父’와 〈주송 유청周頌 維淸〉의 ‘조인肇禋’의 경우이다.
3자는 〈주송 환周頌 桓〉의 ‘수만방綏萬邦’과 ‘누풍년婁豐年’의 경우이고, 4자는 〈주남 관저周南 關雎〉의 ‘관관저구關關雎鳩’와 ‘요조숙녀窈窕淑女’의 경우이며, 5자는 〈소남 행로召南 行露〉의 ‘수위작무각 하이천아옥誰謂雀無角 何以穿我屋’의 경우이고,
6자는 ‘석자선왕수명昔者先王受命’과 ‘유여소공지신有如召公之臣’의 경우이며, 7자는 〈소아 소민小雅 小旻〉의 ‘여피축실어도모如彼築室於道謀’와 〈제풍 저齊風 著〉의 ‘상지이경화호이尙之以瓊華乎而’의 경우이고,
8자는 〈빈풍 칠월豳風 七月〉의 ‘시월실천입아상하十月蟋蟀入我床下’와 〈소아 시월지교小雅 十月之交〉의 ‘아불감효아우자일我不敢效我友自逸’이 이러한 경우인데, 그 밖에 9자나 10자로 된 구는 더 이상 보이지 않는다.
지우摯虞의 ≪유별론流別論≫에 “≪시경詩經≫에 9자인 구절이 있으니, 〈대아 형작大雅 泂酌〉의 ‘저 멀리 길 바닥에 고인 물을 퍼다 저기에 붓고 여기에 쏟아도(형작피행료읍피주자泂酌彼行潦挹彼注玆)’가 이것이다.” 하였다. 그러나 여러 본을 두루 점검해보니, 모두 “〈대아 형작大雅 泂酌〉은 3장인데 장마다 5이다.” 하였으니 그렇다면 두 구절로 여긴 것이다.
안연지顔延之는 “≪시경詩經≫의 에 본래 9자로 된 것이 없는 것은 성조聲調가 느려 악기에 맞지 않기 때문이니 중흡仲洽(지우摯虞)의 말은 근거할 만하지 못하다.” 하였다.
한 구절의 글자 수는 4자가 대부분인데, 다만 2자나 3자, 7자나 8자로 한 것은 말로 뜻을 펼 때에 알맞게 변화시켜야 악기로 연주함에 모두 문채를 이룰 수 있기 때문이다.
대체大體는 반드시 운을 지켜야 하는데 운과 맞지 않음이 있는 것은 옛사람의 운이 현재와 맞지 않은 것일 뿐이다. ‘’ 등의 글자는 본래 취하여 허사虛辭로 쓴 것이니, 비록 구절의 안에 있더라도 의미를 갖지 않는다. 그리하여 〈 등의 글자가〉 구절의 끝에 위치한 경우에는 모두 그 앞에 있는 글자가 운자韻字가 되는 것이다.
’는 ‘좌우류지左右流之’․‘오매구지寤寐求之’의 경우이고, ‘’는 〈소남 표유매召南 摽有梅〉의 ‘기실칠혜其實七兮’․‘태기길혜迨其吉兮’의 경우이며,
’는 〈소아 교언小雅 巧言〉의 ‘안지후의顔之厚矣’․‘출자구의出自口矣’의 경우이고, ‘’는 〈국풍 패풍國風 邶風〉의 ‘하기처야何其處也’․‘필유여야必有與也’의 경우이다.
제풍 저齊風 著〉의 ‘사아어저호이俟我於著乎而’와 〈위풍 벌단魏風 伐檀〉의 ‘차연의且漣猗 등은 모두 〈허사虛辭의〉 앞에 있는 글자가 운이 되어 〈허사虛辭는〉 뜻이 되지 않는다.
그러나 사람마다 뜻이 다르고 시를 짓는 방법이 다르지만 반드시 성운聲韻을 조화롭게 하여 악기에 맞춰야 한다.
그리하여 또한 구절을 돕는 글자를 가지고 성운聲韻의 체에 해당시킨 것이 있으니, 〈위풍 원유도魏風 園有桃〉의 ‘피인시재 자왈하기彼人是哉 子曰何其’와
위풍 맹衛風 氓〉의 ‘불사기반 반시불사不思其反 反是不思 역이언재亦已焉哉’와 〈소아 상체小雅 常棣〉의 ‘시구시도 단기연호是究是圖 亶其然乎’와 〈패풍 북풍邶風 北風〉의 ‘기허기서 기극지차其虛其徐 旣亟只且’ 등의 경우가 이것이다.
’은 구절이 모여 이루어지는 것으로 구절 수를 제한하지 않으니, 이는 작자가 일을 진술할 때 모름지기 여러 장이 있어야 한 가지 뜻을 총괄할 수 있고 뜻을 다하여야 시를 이루기 때문이다.
구절이 모여 장이 되니, 그렇다면 한 구절만으로는 장이 될 수 없다. 두 구절 이상이 되어야 될 수 있으니, 〈제풍 노령齊風 盧令〉과 〈소아 어려小雅 魚麗〉의 아래 3장(4․5․6)이 이것이고, 3로 이루어진 것은 〈주남 인지周南 麟趾〉와 소남召南의 〈감당甘棠〉과 〈추우騶虞〉의 경우가 이것이다.
구절이 많은 것은 〈주송 재삼周頌 載芟〉의 31와 〈노송 비궁魯頌 閟宮〉의 3이 38인데 이 밖에 더 많은 것은 없다.
의 크기는 의 많고 적음을 따른다. 가운데 적은 것은 그래도 2 이상이니 〈소남 추우召南 騶虞〉와 〈진풍 위양秦風 渭陽〉의 경우가 이것이고, 많은 것은 16 이하이니 〈소아 정월小雅 正月〉과 〈대아 상유大雅 桑柔〉의 경우가 이것이다.
주송周頌 31편과 상송商頌의 〈〉․〈열조烈祖〉․〈현조玄鳥〉만은 모두 1장이다.
이는 가 사람의 일을 서술하여 과오를 풍자하고 공을 논하여 세상을 바르게 구제함에 뜻이 있어서 한 장으로는 미진하여 장을 거듭하여 은근히 펴기 때문에 에 한 장으로 이루어진 이 없는 것이다.
은 나라가 태평하고 임금의 덕이 흡족함을 노래한 것으로, 공을 이룬 것을 진술하여 신명에게 고하는 것이니, 곧바로 말하여 뜻을 진술하고 은근히 드러낼 필요가 없다. 그리하여 1장일 뿐이다.
노송魯頌이 1장으로 이루어지지 않은 것은 노송魯頌희공僖公의 일을 찬미한 것이고 신명에게 고하는 노래가 아니니, 이는 공덕을 논하고 찬송하는 시이므로 역시 은근히 드러내어 장을 거듭한 것이다.
비록 훌륭한 덕을 말하는 것은 같지만 노송魯頌은 실제가 〈의〉 대체大體에 미치지 못한다. 그리하여 의 체가 같지 않은 것이다.
고종高宗은 한 사람인데도 〈상송 현조商頌 玄鳥〉는 1이고 〈장발長發〉과 〈은무殷武〉가 여러 장인 것은 혹 시인의 뜻에 따라 지어진 것이 같지 않거나, 아니면 무정武丁의 덕이 위로 임금에 미치지 못하고 아래로 희공僖公을 넘기 때문일 것이다.
지극함을 논할 적에는 태평太平을 노래한 것과 같이 하고, 조상을 서술할 적에는 공을 논한 과 같이 한 것은 공을 이룸에 크고 작음이 있음을 밝힌 것이니, 아마도 시편을 지음에 우열이 있는 것이다.
을 만드는 방법은 그 체제를 항상 같게 하지는 않는다.
어떤 것은 장을 거듭하여 한 가지 일을 함께 서술하였으니 〈소남 채빈召南 采蘋〉의 종류이고, 어떤 것은 한 가지 일을 중첩하여 여러 장으로 만들었으니 〈소남 감당召南 甘棠〉의 종류이며, 어떤 것은 처음은 같이 하고 끝은 달리하였으니 〈빈풍 동산豳風 東山〉의 종류이고,
어떤 것은 처음은 달리하고 끝은 같게 하였으니 〈주남 한광周南 漢廣〉의 종류이며, 어떤 것은 일이 끝났다가 다시 거듭하였으니 〈대아 기취大雅 旣醉〉의 종류이고, 어떤 것은 장을 거듭하여 일을 다르게 말하였으니 〈빈풍 치효豳風 鴟鴞〉의 종류이다.
소아 하초불황小雅 何草不黃〉은 계절에 따라 색을 바꾸었고, 〈대아 문왕유성大雅 文王有聲〉은 일에 따라 글자를 바꾸었으며, 〈주남 채채부이周南 采采芣苢〉는 한 장에 두 번 말하였고, 〈소아 빈지초연小雅 賓之初筵〉은 3장에서 처음으로 〈풍자하고자 하는 내용을〉 드러냈다.
어떤 편은 여러 장이 있는데 마다 의 수를 같지 않게 하고, 어떤 은 여러 구절이 있는데 구절마다 글자 수를 같지 않게 하였으니, 모두 각각 그 뜻을 말하였기 때문이다. 그리하여 에 일정한 형식이 없는 것이다.
빈풍 동산豳風 東山〉의 에 1․2․3․4이라고 하여 ‘말장末章’을 ‘졸장卒章’이라고 하지 않았는데, ≪춘추좌씨전春秋左氏傳≫에서는 ‘〈빈풍 칠월豳風 七月〉의 졸장卒章’이라 하고, 또 ‘〈당풍 양지수唐風 揚之水〉의 졸장卒章’이라고 하였다.
동산東山〉에서 의 뜻을 구분한 것은 1에 시작하여 4에서 마쳤으므로 ‘졸장卒章’이라 하지 않은 것이고, ≪춘추좌씨전春秋左氏傳≫에 말한 ‘졸장卒章’은, 은 마치는 것이니 한 을 마치는 장을 말한 것이다.
’이라 한 것은 ‘’의 상대이니, 마치는 졸장卒章이면 시작하는 은 ‘수장首章’이 된다. 그리하여 정현鄭玄이 ≪예기禮記≫의 주석에서 ‘〈치의緇衣〉의 수장首章이다.’ 한 것이 이것이다.
만약 그렇다면 ‘’을 ‘’에 상대한 것이니, 〈주송 모周頌 武〉는 1뿐인데도 ≪춘추좌씨전春秋左氏傳≫에서 “무왕武王이 〈〉를 지었는데, 그 졸장卒章에 ‘당신의 공을 이루어 정하셨도다.’라고 했다.” 하였으니, 이는 ‘기정이공耆定爾功’이 이 의 마지막 구절이기 때문이다.
주례周禮≫ 〈춘관 대사악春官 大司樂〉의 주석에 “〈추우騶虞〉는 악장의 명칭이니 소남召南졸장卒章이다.” 한 것은 바로 〈추우騶虞〉가 마지막 편임을 말한 것인데, 이를 ‘’이라 한 것은 위에 〈추우騶虞〉를 악장이라 한 것을 이은 것이다. 그리하여 ‘소남지졸장召南之卒章에 있다.’ 한 것이다.
정본定本의 뒤에 있는데, ≪육예론六藝論≫에 “아직 지금과 같은 가 없었다.” 하였으니, 을 낸 뒤에 비로소 장과 구를 구분하였음을 밝힌 것이다. 어떤 이는 ‘모형毛亨이 구분했다.’ 하고 어떤 이는 ‘후대의 사람이 구분했다.’ 하지만 자세하지 않다.


역주
역주1 關雎……以無所疑亂故也 : 陸德明의 ≪經典釋文≫ 〈毛詩音義〉에 나온다. 注에서 ‘○’ 뒤에 나오는 내용은 모두 육덕명 ≪경전석문≫의 글이다.
역주2 沈重 : 남조 梁나라 吳興의 武康 사람으로 字는 子厚이고 또는 德厚이다. 梁 文帝 때 五經博士에 올랐다. 저서에 ≪周禮義≫․≪儀禮義≫․≪禮記義≫․≪毛詩義≫․≪周禮音≫․≪毛詩音≫ 등이 있다.
역주3 衛敬仲 : 敬仲은 衛宏(25~57)의 字이다. 東海 곧 지금의 山東省 郯城 사람이다.
역주4 征伐玁狁 : 〈小雅 采芑〉의 구절로, “〈宣王의 賢臣인 方叔이〉 험윤을 정복하였으므로, 만형이 두려워하며 와서 복종하였도다.[征伐獫狁 蠻荊來威]” 하였다.
역주5 瞻仰昊天 : 〈大雅 雲漢〉의 구절로, “어찌 나를 위하려고 해서이겠는가. 여러 百官들을 안정시키려고 해서이다. 하늘을 우러러보니, 저 하늘은 언제나 그 편안함을 내려 주실는지.[何求爲我 以戾庶正 瞻仰昊天 曷惠其寧]” 하였다.
역주6 如字 : 한 글자에 두 개 이상의 독음이 있을 경우 가장 통상적인 음, 곧 본래의 음으로 읽는 것을 말한다.
역주7 鹿鳴 : 小雅의 편명으로, 임금이 신하들과 연회할 때, 또는 鄕飮酒禮 등에서 노래하던 시이다.
역주8 燕禮 : ≪儀禮≫의 편명으로, 조정에서 군신 상하간의 친목을 도모하면서 그 구분을 분명히 하는 잔치 의식이다.
역주9 老子云 : ≪道德經≫ 54장에 보인다.
역주10 崔靈恩 : 梁나라 사람으로 五經을 깊이 연구하였으며, 특히 三禮에 정통하였다. 저서로는 ≪毛詩注≫․≪周禮集註≫․≪三禮義宗≫ 등이 있다. ≪梁書 卷48 崔靈恩列傳≫
역주11 劉氏 : 南齊 사람 劉瓛으로 字는 子珪이다. 五經에 널리 통하고 학도를 모아 교수하여 一世의 大儒로 일컬어졌으며 저술로는 ≪周易義疏≫․≪周易劉氏義疏≫․≪乾坤義≫․≪繫辭義疏≫․≪孝經劉氏說≫이 있다.
역주12 風伯 : 바람의 귀신이다. 字는 飛廉인데 폭풍을 일으킨다. ≪離騷≫에 “먼저 望舒로 하여금 앞에서 달리게 하고 뒤에 비렴으로 하여금 나누어 맡게 한다.[前望舒使前驅兮 後飛廉使分屬]” 하였다.
역주13 八音 : 고대 樂器의 총칭이다. 일반적으로 악기를 만드는 素材가 되는 金․石․絲․竹․匏․土․革․木의 8종을 이른다. ≪周禮注疏 卷23 春官 大師≫
역주14 神瞽……知其趣也 : 神瞽는 능히 天道를 알았다는 상고시대의 樂官이다. ≪國語≫ 〈周語〉에 “옛날 神瞽가 中和의 성음을 합하여 이를 헤아려서 음악을 만들어, 율려의 長短을 재서[度] 종소리를 화평하게 골라 百官의 법칙으로 삼고, 三(天神․地祇․人鬼)으로써 회합시키고 六律로써 균형 있게 하였으며 十二律에서 완성하였으니 이것이 곧 天道이다.[古之神瞽 考中聲而量之以制 度律均鐘 百官軌儀 紀之以三 平之以六 成於十二 天之道也]” 하였다.
역주15 汝墳 : 周南의 편명으로, 文王의 교화가 멀리까지 펼쳐졌음을 노래한 시이다.
역주16 楚茨 : 小雅의 편명으로, 周 幽王의 학정을 비난한 시이다.
역주17 對文則別 散則可以通 : ‘對文’은 따로 상대적으로 쓸 경우이고, ‘散文’은 같이 합쳐서 쓰이는 경우를 말한다.
역주18 十一而稅 : 수확량이 10석이면 1석을 세금으로 받는 세제이다. 周나라 때 근교에서 십일세를 받았다.[近郊十一] ≪周禮 地官≫
역주19 良耜 : 周頌의 篇名으로, 그해 농사를 마치고 가을에 社稷에 제사 지내어 올해 농사를 잘되게 하였음에 감사하고, 다음해 농사도 잘되게 해줄 것을 기원하는 내용이다.
역주20 湛露 : 小雅의 篇名으로, 천자의 혜택을 온갖 생물을 윤택하게 하는 이슬에 비유한 것이다.
역주21 天保 : 小雅의 篇名으로 신하가 임금의 복을 빌어주며 부르는 노래이다.
역주22 蓼莪 : 小雅의 篇名으로 자식이 부모를 제대로 봉양하지 못하였음을 읊은 시이다.
역주23 巷伯 : 小雅의 篇名으로 참소로 인해 宮刑을 당하여 내시가 된 자가 자신의 서글픈 심정을 읊은 것이다.
역주24 十月 : 小雅의 篇名인 〈十月之交〉로 幽王을 나무란 시이다.
역주25 苕之華 : 小雅의 篇名으로 周室이 장차 망할 것임을 노래한 시이다.
역주26 大東 : 小雅의 篇名으로 譚國의 대부가 征役에 쪼들려 지은 시이다.
역주27 正月 : 小雅의 篇名으로 소인들이 정권을 잡고 기승을 부리는 난세의 정치를 풍자한 시이다.
역주28 桑間濮上 : 濮水 가에 있는 桑間으로 亡國의 음악이 생긴 곳이다. 이곳은 남녀가 밀회하는 장소로 이용되면서 애정을 주제로 한 음악이 많이 불렸기 때문에 음란한 음악의 대명사가 되었다. ≪禮記注疏 卷37 樂記≫
역주29 : 譙周(?~270)이다. 三國時代 사람으로 자가 允南이며 六經에 밝았다. ≪法訓≫, ≪五經論≫, ≪古史考≫를 저술하였다.
역주30 何休 : 後漢 靈帝 때의 학자로 ≪春秋公羊解詁≫를 지었다.
역주31 嘉樂 : 고대에 잔치나 제사의 음악에 쓰이던 북과 경쇠를 가리킨다.
역주32 互言 : 같은 말을 되풀이하지 않기 위해 일부만 번갈아 쓰는 것을 말한다.
역주33 六代之樂 : 周代에 있었다는 黃帝 이하 六代의 舞樂으로, 黃帝樂(雲門)․堯帝樂(大咸)․舜帝樂(大韶)․禹王樂(大夏)․湯王樂(大濩)․武王樂(大武)를 일컫는다. ≪國語 周語 上≫
역주34 四始 : 風․小雅․大雅․頌을 四始라 한다. ≪漢書 翼奉傳≫
역주35 鄭司農 : 東漢의 학자인 鄭衆(?~83)을 가리킨다. 開封 사람으로 자는 仲師이다. ≪春秋左氏傳≫․≪周易≫․≪詩經≫에 능통하였다. 大司農을 지냈으므로 鄭司農이라 불리며, 후에 鄭玄과 구별하여 ‘先鄭’이라 일컫기도 한다. ≪後漢書 卷36 鄭興列傳 鄭衆≫
역주36 史克 : 魯 僖公의 史官 이름이다.
역주37 雅聲 : 〈麥秀歌〉를 가리키는 것이다. 微子가 주나라에 조회 가는 길에 은나라의 옛터에 벼와 기장이 우거진 것을 보고 상심하여 지었다는 노래로, 고국의 멸망을 통한하는 뜻으로 쓰인다. ≪史記 卷38 宋微子世家≫
역주38 昆吾 : 서쪽 오랑캐 나라인 昆吾國을 말한다.
역주39 (上) : 저본의 교감기에 따라 衍字로 처리하여 번역하였다.
역주40 成康 : 周나라 成王과 그 아들 康王의 병칭이다. 이 시대에 약 40년 동안 천하가 안정되고 죄수가 없어 감옥이 텅 비는 등 태평시대를 이루었다고 한다.
역주41 美哉……猶有先王之遺民 : ≪春秋左氏傳≫ 襄公 29년에 보인다.
역주42 夷身失禮 : 夷王이 諸侯가 入朝할 때에 堂에서 내려와 제후를 만나 본 것을 이른다. “覲禮에 천자는 당을 내려와 제후를 만나지 않는다. 당을 내려와 제후를 만나는 것은 천자가 예를 잃은 것이니, 夷王으로부터 시작되었다.[覲禮 天子不下堂而見諸侯 下堂而見諸侯 天子之失禮也 由夷王以下]” 하였다. ≪禮記 郊特牲≫
역주43 懿始受譖 : 懿王이 紀侯의 참소를 받아들여 齊 哀公을 烹殺한 일을 말한다. ≪春秋公羊傳 莊公 4년≫
역주44 祭公……穆王 : 〈祈招〉는 逸詩의 편명으로, “穆王이 마음을 방일하게 하여 온 천하를 周行하여 곳곳마다 車轍과 馬跡을 남기게 되자, 祭公 謀父가 〈祈招〉詩를 지어 왕의 마음을 안정시킨 것이다.” 하였다.
역주45 瞽矇 : 周代의 春官에 속한 官名으로 樂官이다.
역주46 大姬 : 周 武王의 큰 딸이며 陳 胡公의 妃로, 무당과 가무를 좋아하여 진의 풍속이 가무를 숭상하게 되었다.
역주47 三風十愆 : 세 가지 나쁜 풍습과 그 세목인 열 가지 허물을 말한다. 세 가지 나쁜 풍습은 巫風․淫風․亂風인데, 열 가지 허물 가운데 恒舞․酣歌는 무풍에 해당되고, 殉貨․殉色․恒遊․恒畋은 음풍에 해당되며, 侮聖言․逆忠直․遠耆德․比頑童은 난풍에 해당된다. ≪尙書 伊訓≫
역주48 扁鵲之療太子 : 扁鵲은 戰國時代의 명의로, 絶命한 虢(괵) 태자를 살려낸 이야기가 전한다. ≪史記 卷105 扁鵲列傳≫
역주49 秦和之視平公 : 秦和는 秦의 의사로, 晉 平公의 병을 보고, 晉의 장래를 예견한 이야기가 전한다. ≪國語 晉語 八≫
역주50 鶴鳴沔水 : 〈鶴鳴〉과 〈沔水〉는 小雅의 편명으로, 〈鶴鳴〉은 왕으로 하여금 초야의 賢者를 구하기를 권하는 내용이고, 〈沔水〉는 현인이 세상이 어지러운 것을 걱정하고, 또 벗에게 소인이 참소할 빌미를 제공하는 행동을 하지 말라고 경계하는 내용이다.
역주51 溱洧桑中 : 〈溱洧〉는 鄭風의 편명이고 〈桑中〉은 鄘風의 편명으로, 모두 남녀간의 淫風을 노래한 것이다.
역주52 [之] : 저본의 교감기에 따라 ‘之’를 추가하여 번역하였다.
역주53 谷風黃鳥 : 〈谷風〉은 邶風의 편명으로 부인이 지아비에게 버림을 받고 지은 시이며, 〈黃鳥〉는 小雅의 편명으로 周 宣王 말엽에 부부가 이산하고 반목하여 예로써 대접하지 않는 풍조를 풍자한 시이다.
역주54 北門北山 : 〈北門〉은 邶風의 편명으로 어진 자가 난세에 처해 어두운 임금을 섬겨서 뜻을 얻지 못한 것을 탄식하는 시이며, 〈北山〉은 小雅의 편명으로 幽王 때에 役使가 고르지 못하여 자신만이 일을 하느라 수고로워서 부모를 봉양하지 못한다는 내용을 읊은 시이다.
역주55 弁随務光 : 변수와 무광은 隱者들로, 특히 무광은 湯王이 夏를 멸망시킨 뒤에 왕위를 그에게 양보하였으나 仁義에 합당한 일이 못 된다고 질책하면서 廬水에 투신하여 자결했다고 한다. ≪莊子 讓王≫
역주56 張竦之美王莽 : 前漢 말기에 王莽이 정권을 장악하였을 적에, 당시 大司徒 司直으로 있던 陳崇이 문장에 능한 張竦에게 초안을 하게 하여 상소하였는데, 왕망의 공덕을 禹와 周公에 견주기까지 한 데서 온 말이다. ≪漢書 卷99 王莽傳≫
역주57 蔡邕之惜董卓 : 後漢 獻帝 때에 蔡邕이 董卓의 억압적인 부름에 못 이겨 벼슬에 나갔다가 뒤에 동탁이 죽임을 당하자, 이에 연좌되어 옥사하게 된 것을 말한다. ≪後漢書 卷50 蔡邕列傳≫
역주58 宣王之美詩 : 大雅의 〈雲漢〉을 말하는 것으로, 宣王이 포학한 厲王의 뒤를 이어 선정을 베풀면서 가뭄을 해소할 비를 갈망하는 내용이다.
역주59 醉酒飽德 : 〈大雅 旣醉〉에 “술에 흠뻑 취하였고 덕에 배가 불렀으니, 군자는 만년토록 큰 복을 누리소서.[旣醉以酒 旣飽以德 君子萬年 介爾景福]” 하였다.
역주60 (神) : 저본의 교감기에 따라 衍文으로 처리하여 번역하였다.
역주61 (此四者) : 저본의 교감기에 따라 衍文으로 처리하여 번역하였다.
역주62 詩緯汎歷樞 : ≪詩經≫의 緯書인 ≪汎歷樞≫를 말한다. 이 외에 ≪推度災≫․≪含神霧≫ 등이 있다.
역주63 春秋緯演孔圖 : ≪春秋≫의 緯書인 ≪演孔圖≫를 말한다. ≪春秋≫의 위서는 13가지가 있다.
역주64 五際 : 漢代 ≪齊詩≫의 학자 翼奉이 전한 것으로 ≪詩經≫의 편을 陰陽五行에 배치시켜 정치의 得失을 추론한 것이다.
역주65 天子……之主 : 천자는 同姓의 제후에게 딸의 혼사를 주관하게 하였음을 말한다. ≪春秋公羊傳≫에 “천자는 제후에게 딸을 시집보낼 때에 至尊이므로 스스로 혼사를 주관하지 않고, 반드시 동성인 사람으로 하여금 혼사를 주관하게 하니, 이를 公主라고 하는데 이는 주대의 일이다.[天子嫁女於諸侯 至尊不自主婚 必使同姓者主之 謂之公主 蓋周事也]” 하였다.
역주66 (愛)[憂] : 저본의 교감기에 따라 ‘憂’로 번역하였다.
역주67 三夫人 : 고대의 제도에, “옛날에 天子의 后는 6宮을 세우고 3夫人․9嬪․27世婦․81御妻를 두었다.[古者 天子后 立六宮三夫人九嬪二十七世婦八十一御妻]” 하였다. ≪禮記 昏儀≫
역주68 不乘匹 : 반드시 쌍으로 살고 홀로 살지 않음을 말한다. 漢 劉向의 ≪列女傳≫에 “물수리는 네 마리가 함께 살거나 홀로 사는 것을 본 적이 없다.[夫雎鳩之鳥 猶未嘗見乘居而匹處也]” 하였다.
역주69 檀弓差之 : ≪周禮≫ 〈昏義〉에 천자의 后는 六宮을 세우고, 3夫人과 9嬪과 27世婦와 81御妻 등 총 120인을 둔다 하였는데, ≪禮記≫ 〈檀弓〉의 注에서 정현이 이와 달리 해석한 것이다.
역주70 舜不……正妃 : ≪孟子≫ 〈離婁 上〉에 “舜이 어버이에게 알리지 않고 장가를 든 것은 후사가 없게 될까 염려해서였다. 그래서 군자는 그것을 어버이에게 알린 것과 같다고 여기는 것이다.” 하였고, 鄭玄은 ≪禮記≫ 〈檀弓〉의 注에 “舜이 어버이에게 알리지 않고 장가를 들어 正妃를 세우지 않고 3夫人만을 두었다.[舜不告而娶 不立正配 但三夫人]” 하였다.
역주71 (苻)[符] : 저본의 교감기에 따라 ‘符’로 번역하였다.
역주72 (䰞)[鬻] : 저본의 교감기에 따라 ‘鬻’으로 번역하였다.
역주73 四豆之實 : 豆는 나무로 만든 祭器로 식혜나 절임 등을 담았으니, 네 개의 豆器에 담는 祭需를 말한다.
역주74 水草之葅 陸産之醢 : 葅는 ≪詩經≫ 〈小雅 信南山〉 “疆埸有瓜 是剝是菹”의 注에서 鄭玄이 소금물에 절여 절임을 만든다.[淹漬以爲菹] 하였고, 醢는 ≪詩經≫ 〈大雅 行葦〉 “醓醢以薦 或燔或炙”의 注에서 高亨이 醢는 “육젓이다.[醢 肉醬]” 하였으나, 여기서는 ‘김치’와 ‘젓갈’로 번역하였다.
역주75 (官)[宮] : 저본의 교감기에 따라 ‘宮’으로 번역하였다.
역주76 內羞之物 : 賈公彦의 疏에 “제사에 쓰기 위하여 궁궐 안에 있는 궁녀들이 만들어 바친 각종 음식물을 말하는데, 모두 房으로부터 나오기 때문에 그렇게 부른다.[凡內羞之物者 謂糗餌粉餈 案少牢 皆從房中而來 故名爲內羞]” 하였다.
역주77 書傳 : ≪尙書大傳≫의 약칭으로 尙書를 해석한 책이다. 漢代 伏勝(生)의 저작이라 하나, 작자와 만들어진 시기는 모두 분명치 않고 현재는 淸代 孫之騄과 皮錫瑞의 輯本만이 전한다.
역주78 (禮)[體] : 저본의 교감기에 따라 ‘體’로 번역하였다.
역주79 昔者……之臣 : 〈大雅 召旻〉의 ‘昔先王受命 有如召公’의 오류인 듯하다.
역주80 摯虞流別論 : 摯虞(250~300)는 삼국시대 晉나라 사람으로 자가 仲洽이며, ≪流別集(文章流別論)≫을 지었다. ≪族姓昭穆≫, ≪文章志≫ 등의 저술이 있다.
역주81 (外)[別] : 저본의 교감기에 따라 ‘別’로 번역하였다.
역주82 顔延之 : 六朝時代 宋의 문인으로 자는 延年이다. 謝靈運과 함께 顔謝로 병칭되었다. ≪宋書 卷73 顔延之列傳≫ ≪南史 卷34 顔延之列傳≫
역주83 (冶)[洽] : 저본의 교감기에 따라 ‘洽’으로 번역하였다.
역주84 (乎者)[著] : 저본의 교감기에 의해 ‘著’로 번역하였다.
역주85 著俟……義也 : ‘著’에서 ‘著․素․華’[俟我于著乎而 充耳以素乎而 尙之以琼華乎而]와 ‘伐檀’에서 ‘輻․側․直’[坎坎伐輻兮 置之河之側兮 河水淸且直猗(兮)]이 ‘乎․兮’의 앞에서 운자가 되어 ‘乎․兮’에 뜻이 없음을 말한 것이다.
역주86 高宗 : 殷의 23대 임금으로 이름은 武丁이다.
역주87 (采)[乎] : 저본의 교감기에 따라 ‘乎’로 번역하였다.
역주88 重章……采蘋之類 : 〈采蘋〉은 大夫의 아내가 법도를 잘 따랐음을 보인 시이니, 장을 거듭하여 제사에 쓸 나물을 구하고 삶으며 올리는 일을 서술하였다.
역주89 一事……甘棠之類 : 〈甘棠〉은 召伯의 교화가 南國에 밝혀진 것을 찬미한 시이니, 남국의 백성이 소백을 그리워함을 3章에서 중첩하여 서술하였다.
역주90 初同……東山之類 : 〈東山〉은 周公이 동쪽을 정벌함을 읊은 시이니, 장마다 처음에 “我徂東山 慆慆不歸 我來自東 零雨其濛”의 4구로 시작하고, 그 다음 8구에는 다른 내용을 서술하였다.
역주91 首異……漢廣之類 : 〈漢廣〉은 文王의 교화가 남국에 널리 미침을 찬미한 시이니, 처음 4구는 다른 일을 서술하고, 그 다음 4구는 장마다 “漢之廣矣 不可泳思 江之永矣 不可方思”로 마무리하였다.
역주92 事訖……旣醉之類 : 〈旣醉〉는 태평함을 읊은 시이니, 처음 3장에는 정갈한 제사를 받은 선조가 후손들을 축복하고, 그 다음 5장에는 尸童[公尸]이 고하는 말로 거듭 기술하였다.
역주93 章重……鴟鴞之類 : 〈鴟鴞〉는 周公이 동쪽을 정벌하여 管叔과 蔡叔의 난을 구제하고 成王에게 올리는 내용의 시이니, 첫 장은 더 이상 왕실이 훼손되어서는 안 된다는 것을 말하고, 둘째 장은 자신의 동정이 환란을 방비하기 위한 것임을 말하였으며, 셋째 장은 왕실을 안정시키기 위한 자신의 수고를 말하고, 넷째 장은 자신의 진심을 성왕에게 말하여 깨우치고자 하는 내용이다.
역주94 何草不黃……改色 : 〈何草不黃〉은 下國이 幽王을 풍자한 시이니, 계절에 따라 풀이 누런색[黃]과 검은색[玄]으로 변하듯, 백성들의 수고가 극에 달했음을 말하였다.
역주95 文王有聲……變文 : 〈文王有聲〉은 文王과 武王이 이어서 殷을 정벌함을 읊은 시이니, 문왕과 무왕의 일을 말함에 장마다 끝의 두 구절을 바꾸어 서술하였다.
역주96 采采芣苢……再言 : 〈采采芣苢〉는 后妃의 아름다움을 읊은 시이니, 첫 장의 “采采芣苢 薄言采之 采采芣苢 薄言有之”처럼 장마다 같은 말을 반복하였다.
역주97 賓之初筵……一發 : 〈賓之初筵〉은 衛 武公이 幽王을 풍자한 시이니, 3장에서 술 취한 모습을 말하여 처음으로 풍자하고자 하는 내용을 드러냈다.

모시정의(1) 책은 2019.12.18에 최종 수정되었습니다.
(우)03150 서울시 종로구 삼봉로81, 1332호(두산위브파빌리온)

TEL: 02-762-8401 / FAX: 02-747-0083

Copyright (c) 2022 전통문화연구회 All rights reserved. 본 사이트는 교육부 고전문헌국역지원사업 지원으로 구축되었습니다.