疏
謂之卦者, 易緯云“卦者, 掛也. 言縣掛物象, 以示於人, 故謂之卦.”
但二畫之體, 雖象陰陽之氣, 未成萬物之象, 未得成卦, 必三畫以象三才, 寫天‧地‧雷‧風‧水‧火‧山‧澤之象, 乃謂之卦也.
但初有三畫, 雖有萬物之象, 於萬物變通之理, 猶有未盡,
故更重之而有六畫, 備萬物之形象, 窮天下之能事, 故六畫成卦也.
疏
聖人作易, 本以敎人, 欲使人法天之用, 不法天之體,
天以健爲用者, 運行不息, 應化无窮, 此天之自然之理,
故聖人當法此自然之象而施人事, 亦當應物成務, 云爲不已, 終日乾乾, 无時懈倦, 所以因天象以敎人事.
於物象言之, 則純陽也, 天也, 於人事言之, 則君也, 父也,
疏
[疏]但聖人名卦, 體例不同. 或則以物象而爲卦名者, 若否‧泰‧剝‧頤‧鼎之屬是也.
或以象之所用而爲卦名者, 卽乾‧坤之屬是也, 如此之類多矣.
雖取物象, 乃以人事而爲卦名者, 卽家人‧歸妹‧謙‧履之屬是也.
所以如此不同者, 但物有萬象, 人有萬事, 若執一事, 不可包萬物之象, 若限局一象, 不可總萬有之事.
故名有隱顯, 辭有
, 不可一例求之, 不可一類取之.
故繫辭云“上下无常, 剛柔相易, 不可爲典要.” 韓康伯注云“不可立定準.” 是也.
疏
言此卦之德, 有純陽之性, 自然能以陽氣始生萬物, 而得元始亨通, 能使物性和諧, 各有其利, 又能使物堅固貞正得終.
故謂之四德. 言聖人亦當法此卦, 而行善道, 以長萬物, 物得生存而爲元也,
疏
[疏]正義曰:居第一之位, 故稱‘初’. 以其陽爻, 故稱‘九’.
此自然之象, 聖人作法, 言於此潛龍之時, 小人道盛, 聖人雖有龍德, 於此時, 唯宜潛藏, 勿可施用,
於此小人道盛之時, 若其施用, 則爲小人所害, 寡不敵衆, 弱不勝强, 禍害斯及,
諸儒皆以爲“
.” 舜之時, 當堯之世, 堯君在上, 不得爲小人道盛.
疏
[疏]第一位, 言初, 第六位, 當言終. 第六位, 言上, 第一位, 當言下. 所以文不同者, 莊氏云“下言初, 則上有末義,
故小象云‘潛龍勿用, 陽在下也.’ 則是初有下義,
且第一言初者, 欲明萬物積漸, 從无入有. 所以言初, 不言一與下也.
此初九之等, 是乾之六爻之辭, 但乾卦是陽生之世, 故六爻所述, 皆以聖人出處託之.
其餘卦六爻, 各因象明義, 隨義而發, 不必皆論聖人, 他皆倣此.
疏
[疏]謂之爻者, 繫辭云“爻也者, 效此者也.” 聖人畫爻, 以倣效萬物之象.
先儒云“後代聖人以易占事之時, 先用蓍以求數, 得數以定爻, 累爻而成卦, 因卦以生辭, 則蓍爲爻卦之本, 爻卦爲蓍之末.”
今案, 說卦云“聖人之作易也, 幽贊於神明而生蓍, 三天兩地而倚數, 觀變於陰陽而立卦, 發揮於剛柔而生爻.”
又易乾鑿度云“垂皇策者犧.” 據此諸文, 皆是用蓍以求卦, 先儒之說, 理當然矣.
疏
一者,
, 陽得兼陰, 故其數九, 陰不得兼陽, 故其數六.
二者, 老陽數九, 老陰數六, 老陰‧老陽皆變, 周易以變者爲占.
所以老陽數九, 老陰數六者,
. 其少陽稱七, 少陰稱八, 義亦準此.
但七爲少陽, 八爲少陰, 質而不變, 爲爻之本體. 九爲老陽, 六爲老陰, 文而從變, 故爲爻之別名.
且七旣爲陽爻, 其畫已長, 今有九之老陽, 不可復畫爲陽,
注
[注]出潛離隱이라 故로 曰見龍이요 處於地上이라 故로 曰在田이라
德施周普하고 居中不偏하니 雖非君位나 君之德也라
初則不彰하고 三則乾乾하고 四則或躍하고 上則過亢하니 利見大人은 唯二五焉이라
疏
○正義曰:陽處二位, 故曰‘九二’. 陽氣發見, 故曰‘見龍’.
田是地上, 可營爲有益之處, 陽氣發在地上, 故曰在田.
‘見龍在田’, 是自然之象. ‘利見大人’, 以人事託之.
言龍見在田之時, 猶似聖人久潛稍出, 雖非君位, 而有君德, 故天下衆庶利見九二之大人.
疏
[疏]案, 文言云“九二德博而化.” 又云“君德也.” 王輔嗣注云“雖非君位, 君之德也.”
輔嗣又云“利見大人, 唯二五焉.” 是二之與五, 俱是大人, 爲天下所利見也.
而褚氏‧張氏同鄭康成之說, 皆以爲“九二利見九五之大人.” 其義非也.
故訟卦云“利見大人.” 又蹇卦“利見大人.” 此大人之文, 施處廣矣.
疏
○正義曰:‘處於地上 故曰在田’者, 先儒以爲“重卦之時, 重於上下兩體.
諸儒更廣而稱之, 言“田之耕稼利益, 及於萬物盈滿, 有益於人, 猶若聖人益於萬物, 故稱田也.”
疏
‘居中不偏’者, 九二居在下卦之中, 而於上於下, 其心一等, 是居中不偏也, 不偏則周普也.
‘雖非君位’者, 二爲大人, 己居二位, 是非君位也.
文言云“德博而化.” 又云“君德也.” 是九二有人君之德也.
‘利見大人 唯二五焉’者, 言範模乾之一卦, 故云唯二五焉. 於別卦言之, 非唯二五而已.
故訟卦‧蹇卦竝云“利見大人.” 所以施處廣, 非唯二五也.
疏
則九三爲建辰之月, 九四爲建午之月, 九五爲建申之月, 爲陰氣始殺, 不宜稱飛龍在天.
上九爲建戌之月, 群陰旣盛, 上九不得言與時偕極.
於時, 地之萌
初有出者, 卽是陽氣發見之義, 乾卦之象, 其應然也.
但陰陽二氣共成歲功, 故陰興之時, 仍有陽在, 陽生之月, 尙有陰存,
疏
但易論象, 復臨二卦, 旣有群陰見象於上, 卽須論卦之象義, 各自爲文.
此乾卦初九‧九二, 只論居位一爻, 无群陰見象, 故但自明當爻之地, 爲此與臨‧復不同.
九三은 君子終日乾乾하여 夕惕이나 若厲라야 无咎리라
注
[注]處下體之極하고 居上體之下하여 在不中之位하고 履重剛之險이라
上不在天하여 未可以安其尊也요 下不在田하여 未可以寧其居也라
純脩下道면 則居上之德廢하고 純脩上道면 則處下之禮曠이라
居上不驕하고 在下不憂하여 因時而惕하여 不失其幾면 雖危而勞나 可以無咎라
疏
○正義曰:以陽居三位, 故稱‘九三’. 以居不得中, 故不稱‘大人’. 陽而得位, 故稱‘君子’.
在憂危之地, 故‘終日乾乾’, 言每恒終竟此日, 健健自强勉力, 不有止息.
‘夕惕’者, 謂終竟此日後, 至向夕之時, 猶懷憂惕.
‘若厲’者, 若, 如也, 厲, 危也, 言尋常憂懼, 恒如傾危, 乃得无咎, 謂旣能如此戒愼, 則无罪咎, 如其不然, 則有咎.
疏
○正義曰:‘處下體之極’者, 極, 終也, 三是上卦之下, 下體之極,
又云‘居上體之下’者, 四五與上是上體, 三居四下, 未入上體, 但居上體之下, 四則已入上體, 但居其上體之下,
云‘上不在天 未可以安其尊’者, 若在天位, 其尊自然安處, 在上卦之下, 雖在下卦之上, 其尊未安,
‘下不在田 未可以寧其居’者, 田是所居之處, 又是中和之所, 旣不在田, 故不得安其居.
疏
[疏]‘純脩下道 則居上之德廢’者, 言若純脩下道以事上卦, 則己居下卦之上, 其德廢壞, 言其太卑柔也.
‘純脩上道 則處下之禮曠’者, 曠謂空曠, 言己純脩居下卦之上道, 以自驕矜, 則處上卦之下, 其
終竟空曠.
‘夕惕猶若厲也’者, 言雖至於夕, 恒懷惕懼, 猶如未夕之前,
若厲也.
案, 此卦九三所居之處, 實有危厲, 又文言云“雖危无咎.” 是實有危也.
據其上下文勢, 若字宜爲語辭, 但諸儒竝以若爲如, “如似有厲, 是實无厲也.” 理恐未盡, 今且依如解之.
疏
[疏]‘因時而惕 不失其幾’者, 因時謂因可憂之時.
故文言云“因時而惕.” 又云“知至至之, 可與幾也.” 是因時而惕, 不失其幾也.
‘雖危而勞’者, 若厲是雖危, 終日乾乾, 是而勞也.
以九三與上九相竝, 九三處下卦之極, 其位猶卑, 故竭知力而得免咎也.
上九在上卦之上, 其位極尊, 雖竭知力, 不免亢極, 言下勝於上, 卑勝於尊.
注
[注]去下體之極하고 居上體之下하니 乾道革之時也라
上不在天하고 下不在田하고 中不在人하여 履重剛之險하여 而无定位所處하니 斯誠進退无常之時也라
近乎尊位하여 欲進其道면 迫乎在下하여 非躍所及이요 欲靜其居면 居非所安하여 持疑猶豫하여 未敢決志로되
用心存公하여 進不在私하고 疑以爲慮하여 不謬於果라 故로 无咎也라
疏
○正義曰:‘或’, 疑也. ‘躍’, 跳躍也. 言九四陽氣漸進, 似若龍體欲飛, 猶疑或也.
躍於在淵, 未卽飛也. 此自然之象, 猶若聖人位漸尊高, 欲進於王位, 猶豫
疑, 在於故位, 未卽進也.
云‘无咎’者, 以其(遲)[持]疑, 進退不卽果敢以取尊位, 故无咎也.
疏
○正義曰:‘去下體之極’者, 離下體, 入上體, 但在下體之上, 故云去下體之極.
注九三云“處下體之極.” 彼仍處九三, 與此別也.
云‘乾道革之時’者, 革, 變也, 九四去下體, 入上體, 是乾道革之時.
云‘而无定位所處’者, 九四以陽居陰, 上旣不在於天, 下復不在於地, 中又不當於人, 上下皆无定位所處也.
‘欲進其道 迫乎在下 非躍所及’者, 謂欲進己聖道而居王位, 但逼迫於下, 群衆未許, 非己獨躍所能進及也.
‘欲靜其居 居非所安 持疑猶豫 未敢決志’者, 謂志欲靜其居處, 百姓旣未離禍患, 須當拯救,
所以不得安居, 故遲疑猶豫, 未敢決斷其志而苟進也.
‘用心存公 進不在私’者, 本爲救亂除患, 不爲於己, 是進不在私也.
‘疑以爲慮 不謬於果’者, 謬謂謬錯, 果謂果敢,
若不思慮, 苟欲求進, 當錯謬於果敢之事, 而致敗亡, 若疑惑以爲思慮, 則不錯謬於果敢之事.
注
夫位以德興하고 德以位敍어늘 以至德而處盛位하니 萬物之覩 不亦宜乎아
疏
此, 自然之象, 猶若聖人有龍德飛騰而居天位, 德備天下, 爲萬物所瞻覩,
疏
○正義曰:‘龍德在天 則大人之路亨’, 謂若聖人有龍德, 居在天位, 則大人道路得亨通,
里, 是大人道路未亨也.
‘夫位以德興’者, 位謂王位, 以聖德之人, 能興王位也.
‘德以位敍’者, 謂有聖德之人, 得居王位, 乃能敍其聖德, 若孔子雖有聖德, 而无其位, 是德不能以位敍也.
疏
此自然之象, 以人事言之, 似聖人有龍德, 上居天位, 久而亢極, 物極則反,
凡‘悔’之爲文, 旣是小疵, 不單稱悔也, 必以餘字配之.
其悔若在, 則言有悔, 謂當有此悔, 則此經是也. 其悔若无, 則言悔亡, 言其悔已亡也, 若恒卦九二“悔亡”是也.
其悔雖亡, 或是更取他文結之, 若復卦初九“不遠復, 无祗悔”之類是也.
故文言云“知進退存亡而不失其正者, 其唯聖人乎.” 是知大聖之人, 本無此悔.
但九五天位, 有大聖而居者, 亦有非大聖而居者, 不能不有驕亢,
注
[注]九는 天之德也니 能用天德이면 乃見群龍之義焉이라
夫以剛健而居人之首면 則物之所不與也요 以柔順而爲不正이면 則佞邪之道也라
疏
○正義曰:‘用九見群龍’者, 此一句, 說乾元能用天德也. 九, 天德也.
疏
○正義曰:‘九 天之德’者, 言六爻俱九, 乃共成天德, 非是一爻之九則爲天德也.
大明終始하여 六位時成하면 時乘六龍하여 以御天하나니라
注
夫形也者는 物之累也니 有天之形이요 而能永保无虧하여 爲物之首하니 統之者 豈非至健哉아
升降无常하여 隨時而用하여 處則乘潛龍하고 出則乘飛龍이라
疏
○正義曰:夫子所作彖辭, 統論一卦之義, 或說其卦之德, 或說其卦之義, 或說其卦之名.
案, 褚氏‧莊氏竝云“彖, 斷也, 斷定一卦之義, 所以名爲彖也.”
疏
[疏]‘大哉乾元 萬物資始 乃統天’者, 此三句, 總釋乾與元也.
‘大哉乾元’者, 陽氣昊大, 乾體廣遠, 又以元大始生萬物, 故曰大哉乾元.
‘萬物資始’者, 釋其乾元稱大之義, 以萬象之物, 皆資取乾元, 而各得始生, 不失其宜, 所以稱大也.
‘乃統天’者, 以其至健而爲物始, 以此乃能統領於天.
天是有形之物, 以其至健, 能總統有形, 是乾元之德也.
‘雲行雨施 品物流形’者, 此二句, 釋亨之德也.
言乾能用天之德, 使雲氣流行, 雨澤施布, 故品類之物, 流布成形, 各得亨通, 无所壅蔽, 是其亨也.
‘大明終始 六位時成’者, 此二句, 總結乾卦之德也.
以乾之爲德, 大明曉乎萬物終始之道, 始則潛伏, 終則飛躍, 可潛則潛, 可飛則飛, 是明達乎始終之道,
若其不明終始之道, 應潛而飛, 應飛而潛, 應生而殺, 應殺而生, 六位不以時而成也.
疏
[疏]‘時乘六龍 以御天’者, 此二句, 申明乾元乃統天之義, 言乾之爲德, 以依時乘駕六爻之陽氣, 以控御於天體.
六龍卽六位之龍也, 以所居上下言之, 謂之六位也, 陽氣升降, 謂之六龍也.
‘乾道變化 各正性命’者, 此二句, 更申明乾元資始之義.
道體无形, 自然使物開通, 謂之爲道. 言乾卦之德, 自然通物, 故云‘乾道’也.
‘變’謂後來改前, 以漸移改, 謂之變也. ‘化’謂一有一无, 忽然而改, 謂之爲化,
言乾之爲道, 使物漸變者, 使物卒化者, 各能正定物之性命.
‘性’者, 天生之質, 若剛柔遲速之別, ‘命’者, 人所稟受, 若貴賤夭壽之屬, 是也.
疏
[疏]○注‘天也者形之名也’至‘豈非正性命之情者邪’
○正義曰:‘夫形也者 物之累也’. 凡有形之物, 以形爲累, 是含生之屬, 各憂性命.
而天地雖復有形, 常能永保无虧, 爲物之首, 豈非統用之者, 至極健哉.
‘乘變化而御大器’者, ‘乘變化’則乘潛龍飛龍之屬是也.
‘而御大器’, 大器謂天也, 乘此潛龍飛龍, 而控御天體, 所以運動不息,
疏
[疏]‘靜專動直 不失大和’者, 謂乾之爲體, 其靜住之時, 則專一不轉移也, 其運動之時, 正直不傾邪也.
是以大生焉.” 韓康伯注云“專, 專一也. 直, 剛正也.”
‘豈非正性命之情者邪’, 以乾能正定物之性命, 故云“豈非正性命之情者邪”, 謂物之性命, 各有情, 非天之情也.
所稟生者, 謂之‘性’, 隨時念慮, 謂之‘情’. 无識无情, 今據有識而言, 故稱曰‘情’也.
疏
莊氏以爲“凡有一十二體.” 今則略擧大綱, 不可事事繁說.
發首則歎美卦者, 則此乾彖云‘大哉乾元’, 坤卦彖云‘至哉坤元’, 以乾‧坤德大, 故先歎美之, 乃後詳說其義.
或有先疊文解義而後歎者, 則豫卦
云‘豫之時義大矣哉’之類, 是也.
或有先釋卦名之義, 後以卦名結之者, 則同人彖云‘柔得位得中而應乎乾, 曰「同人」’,
大有彖云‘柔得尊位大中而上下應之, 曰「大有」’之例, 是也.
或有特疊卦名而稱其卦者, 則同人彖云‘同人曰, 「同人於野, 亨.」’
注云‘「同人於野, 亨. 利涉大川.」 非二之所能也, 是乾之所行,
此等之屬, 爲文不同, 唯同人之彖, 特稱‘同人曰.’ 注又別釋.
若一一比竝, 曲生節例, 非聖人之本趣, 恐學者之徒勞心不曉也.
疏
以能保安合會大
之道, 乃能利貞於萬物, 言萬物得利而貞正也.
疏
[疏]正義曰:自上已來, 皆論乾德自然養萬物之道. 此二句, 論聖人上法乾德, 生養萬物.
言聖人爲君, 在衆物之上, 最尊高於物, 以頭首出於衆物之上, 各置君長, 以領萬國, 故萬國皆得寧也.
人君位實尊高, 故於此云首出於庶物者也. 志須卑下, 故前經云“无首, 吉”也.
以此言之, 聖人亦當令萬物資始, 統領於天位, 而雲行雨施, 布散恩澤, 使兆庶衆物, 各流布其形.
又大明乎盛衰終始之道, 使天地四時貴賤高下, 各以時而成. 又任用群賢, 以奉行聖化, 使物各正性命. 此聖人所以象乾而立化.
疏
但萬物之體, 自然各有形象, 聖人設卦, 以寫萬物之象, 今夫子釋此卦之所象,
天有純剛, 故有健用, 今畫純陽之卦, 以比擬之,
疏
[疏]‘天行健’者, ‘行’者運動之稱, ‘健’者强壯之名, 乾是衆健之訓.
今大象不取餘健爲釋, 偏說天者, 萬物壯健, 皆有衰怠,
, 蓋運轉混沒, 未曾休息,
坤則云“地勢坤”, 此不言“天行乾”, 而言健者, 劉表云“詳其名也.” 然則天是體名, 乾則用名, 健是其訓.
疏
或直擧上下二體者, 若“雲雷, 屯”也, “天地交, 泰”也, “天地不交, 否”也, “雷電, 噬嗑”也, “雷風, 恒”也, “雷雨作, 解”也, “風雷, 益”也, “雷電皆至, 豐”也, “洊雷, 震”也, “隨風, 巽”也, “習坎, 坎”也, “明兩作, 離”也, “兼山, 艮”也, “麗澤, 兌”也, 凡此一十四卦, 皆總擧兩體而結義也 .
取兩體俱成, 或有直擧兩體上下相對者, “天與水違行, 訟”也, “上天下澤, 履”也, “天與火, 同人”也, “上火下澤, 睽”也, 凡此四卦, 或取兩體相違, 或取兩體相合, 或取兩體上下相承而爲卦也,
疏
[疏]
雖上下二體共成一卦, 或直指上體而爲文者, 若“雲上於天, 需”也, “風行天上, 小畜”也, “火在天上, 大有”也, “雷出地奮, 豫”也, “風行地上, 觀”也, “山附於地, 剝”也, “澤滅木, 大過”也, “雷在天上, 大壯”也, “明出地上, 晉”也, “風自火出, 家人”也, “澤上於天, 夬”也, “澤上於地, 萃”也, “風行水上, 渙”也, “水在火上, 旣濟”也, “火在水上, 未濟”也, 凡此十五卦, 皆先擧上象而連於下, 亦意取上象以立卦名也 .
亦有雖意在上象, 而先擧下象, 以出上象者, “地上有水, 比”也, “澤上有地, 臨”也, “山上有澤, 咸”也, “山上有火, 旅”也, “木上有水, 井”也, “木上有火, 鼎”也, “山上有木, 漸”也, “澤上有雷, 歸妹”也, “山上有水, 蹇”也, “澤上有水, 節”也, “澤上有風, 中孚”也, “山上有雷, 小過”也, 凡此十二卦, 皆先擧下象以出上象, 亦意取上象, 共下象而成卦也 .
疏
[疏]
或先擧上象而出下象, 義取下象以成卦義者, “山下出泉, 蒙”也, “地中有水, 師”也, “山下有風, 蠱”也, “山下有火, 賁”也, “天下雷行, 无妄”也, “山下有雷, 頤”也, “天下有山, 遯”也, “山下有澤, 損”也, “天下有風, 姤”也, “地中有山, 謙”也, “澤中有雷, 隨”也, “地中生木, 升”也, “澤中有火, 革”也, 凡此十三卦, 皆先擧上體, 後明下體也, 其上體是天, 天與山則稱下也, 若上體是地, 地與澤則稱中也 .
或有雖先擧下象, 稱在上象之下者, 若“雷在地中, 復”也, “天在山中, 大畜”也, “明入地中, 明夷”也, “澤无水, 困”也, 是先擧下象而稱在上象之下, 亦義取下象以立卦也 .
所論之例者, 皆大判而言之, 其間委曲, 各於卦下, 別更詳之.
疏
[疏]先儒所云“此等象辭, 或有實象, 或有假象.”
實象者, 若“地上有水, 比”也, “地中生木, 升”也, 皆非虛, 故言實也.
假象者, 若“天在山中”, “風自火出”, 如此之類, 實无此象, 假而爲義, 故謂之假也.
疏
[疏]‘天行健’者, 謂天體之行, 晝夜不息, 周而復始, 无時虧退,
‘君子以自强不息’, 此以人事法天所行言. 君子之人, 用此卦象, 自彊勉力, 不有止息.
疏
通天子‧諸侯, 兼公卿‧大夫有地者, 凡言君子, 義皆然也.
但位尊者, 象卦之義多也, 位卑者, 象卦之義少也.
若卦體之義, 唯施於天子, 不兼包在下者, 則言先王也,
若比卦稱“先王以建萬國”, 豫卦稱“先王以作樂崇德”, 觀卦稱“先王以省方觀民設敎”,
噬嗑稱“先王以明罰勅法”, 復卦稱“先王以至日閉關”, 无妄稱“先王以茂對時育萬物”,
渙卦稱“先王以享于帝立廟”, 泰卦稱“后以財成天地之道”, 姤卦稱“后以施命誥四方”.
潛龍勿用은 陽在下也요 見龍在田은 德施普也요 終日乾乾은 反復道也라
疏
○正義曰:自此以下至‘盈不可久’, 是夫子釋六爻之象辭, 謂之小象.
用龍德在田, 似聖人已出在世, 道德恩施, 能普徧也, 比初九勿用, 是其周普也, 若比九五, 則猶狹也.
君子終日乾乾, 自彊不息, 故反之與覆, 皆合其道.
反謂進反在上也, 處下卦之上, 能不驕逸, 是反能合道也.
覆謂從上倒覆而下, 居上卦之下, 能不憂懼, 是覆能合道也.
或躍在淵은 進无咎也요 飛龍在天은 大人造也요 亢龍有悔는 盈不可久也라
疏
○正義曰:‘或躍在淵 進无咎’者, 此亦人事言之.
進則跳躍在上, 退在潛處在淵, 猶聖人疑或, 而在於貴位也.
九五是盈也, 盈而不已, 則至上九, 地致亢極, 有悔恨也,
但此六爻象辭, 第一爻言“陽在下”, 是擧自然之象, 明其餘五爻皆有自然之象, 擧初以
末,
疏
[疏]正義曰:此一節, 釋經之用九之象辭. 經稱用九, 故象更疊云‘用九’.
九是天之德也, 天德剛健, 當以柔和接待於下, 不可更懷尊剛, 爲物之首,
元者는 善之長也요 亨者는 嘉之會也요 利者는 義之和也요 貞者는 事之幹也니
君子體仁이 足以長人이며 嘉會 足以合禮며 利物이 足以和義며 貞固 足以幹事니 君子行此四德者라
疏
其餘諸卦及爻, 皆從乾‧坤而出, 義理深奧, 故特作文言以開釋之.
莊氏云“文謂文飾. 以乾‧坤德大, 故特文飾, 以爲文言.”
今謂“夫子但贊明易道, 申說義理.” 非是文飾華彩, 當謂“釋二卦之經文, 故稱文言.”
疏
[疏]從此至‘元亨利貞’, 明乾之四德, 爲第一節,
從‘初九曰潛龍勿用’, 至‘動而有悔’, 明六爻之義, 爲第二節,
自‘潛龍勿用’, 下至‘天下治也’, 論六爻之人事, 爲第三節,
自‘潛龍勿用, 陽氣潛藏’, 至‘乃見天則’, 論六爻自然之氣, 爲第四節,
自‘乾元者’, 至‘天下平也’, 此一節, 復說乾元之四德之義, 爲第五節,
自‘君子以成德爲行’, 至‘其唯聖人乎’, 此一節, 更廣明六爻之義, 爲第六節, 今各依文解之.
疏
[疏]此第一節, 論乾之四德也. ‘元者善之長也’此已下, 論乾之四德.
但乾之爲體, 是天之用, 凡天地運化, 自然而爾, 因无而生有也, 无爲而自爲.
天本无心, 豈造元亨利貞之德也. 天本无名, 豈造元亨利貞之名也.
但聖人以人事託之, 謂此自然之功, 爲天之四德, 垂敎於下, 使後代聖人法天之所爲,
疏
[疏]莊氏云“第一節‘元者善之長’者, 謂天之體性, 生養萬物. 善之大者, 莫善施生, 元爲施生之宗, 故言‘元者善之長’也.
‘亨者嘉之會’者, 嘉, 美也, 言天能通暢萬物, 使物嘉美之會聚, 故云‘嘉之會’也.
‘利者義之和’者, 言天能利益庶物, 使物各得其宜而和同也.
‘貞者事之幹’者, 言天能以中正之氣成就萬物, 使物皆得幹濟.”
疏
於五行之氣, 唯少土也, 土則分王(旺)四季, 四氣之行, 非土, 不載,
疏
[疏]‘君子體仁 足以長人’者, 自此已下, 明人法天之行此四德, 言君子之人, 體包仁道, 汎愛施生, 足以尊長於人也.
‘嘉會 足以合禮’者, 言君子能使萬物嘉美集會, 足以配合於禮, 謂法天之亨也.
‘利物 足以和義’者, 言君子利益萬物, 使物各得其宜, 足以和合於義, 法天之利也.
‘貞固 足以幹事’者, 言君子能堅固貞正, 令物得成, 使事皆幹濟, 此法天之貞也.
施於王事言之, 元則仁也, 亨則禮也, 利則義也, 貞則信也.
疏
[疏]‘君子行此四德者 故曰乾元亨利貞’, 以君子之人, 當行此四種之德.
但行此四德, 則與天同功, 非聖人, 不可, 唯云君子者, 但易之爲道, 廣爲垂法, 若限
聖人, 恐不逮餘下,
但聖人行此四德, 能盡其極也, 君子行此四德, 各量力而爲, 多少各有其分.
疏
[疏]但陰陽合會, 二象相成, 皆能有德, 非獨乾之一卦.
是以諸卦之中, 亦有四德, 但餘卦四德, 有劣於乾.
故乾卦直云四德, 更无所言, 欲見乾之四德, 无所不包.
其餘卦, 四德之下, 則更有餘事, 以四德狹劣, 故以餘事繫之, 卽坤卦之類是也.
亦有四德之上, 卽論餘事, 若革卦云“已日乃孚, 元亨利貞, 悔亡”也, 由乃孚之後, 有元亨利貞, 乃得悔亡也.
疏
[疏]有四德者, 卽乾‧坤‧屯‧臨‧隨‧无妄‧革七卦, 是也.
亦有其卦非善, 而有四德者, 以其卦凶, 故有四德, 乃可也.
故隨卦“有元亨利貞, 乃得无咎.” 是也, 四德具者, 其卦未必善也.
疏
[疏]亦有三德者, 卽離‧咸‧萃‧兌‧渙‧小過凡六卦, 就三德之中, 爲文不一, 或總稱三德於上, 更別陳餘事於下, 若離‧咸之屬, 是也.
就三德之中, 上下不一, 離則云“利貞, 亨”, 由利貞, 乃得亨也.
亦有先云亨, 更陳餘事, 乃始云利貞者, 以有餘事, 乃得利貞故也.
疏
[疏]有二德者, 大有‧蠱‧漸‧大畜‧升‧困‧中孚凡七卦, 此二德, 或在事上言之, 或在事後言之, 由後有事, 乃致此二德故也.
疏
[疏]亦有一德者, 若蒙‧師‧小畜‧履‧泰‧謙‧噬嗑‧賁‧復‧大過‧震‧豐‧節‧旣濟‧未濟凡十五卦, 皆一德也, 竝是亨也.
或多在事上言之, 或在事後言, 履卦云“履虎尾, 不咥人, 亨”, 由有事, 乃得亨.
疏
[疏] 以前所論德者, 皆於經文, 挺然特明德者, 乃言之也.
其有因事相連而言德者, 則不數之也. 若需卦云“需, 有孚, 光亨貞吉”, 雖有亨貞二德, 連事起文, 故不數也.
旅卦云“旅, 小亨, 旅貞, 吉”, 雖有亨貞二德, 亦連他事, 不數也.
比卦云“原筮, 元永貞, 无咎”, 否卦云“否之匪人, 不利君子貞”, 雖有貞字, 亦連他文言之, 又非本卦德, 亦不數之.
同人云“同人於野, 亨”, 坎卦云“有孚, 維心亨”, 損卦云“无咎可貞”, 此等雖有一德, 皆連事而言之, 故亦不數.
所以然者, 但易含萬象, 事義非一, 隨時曲變, 不可爲典要故也.
疏
[疏]亦有卦善而德少者, 若泰與謙‧復之類, 雖善, 唯一德也.
亦有全无德者, 若豫‧觀‧剝‧晉‧蹇‧解‧夬‧姤‧井‧艮‧歸妹凡十一卦也.
大略唯有凶卦无德者, 若剝‧蹇‧夬‧姤之屬, 是也, 亦有卦善而无德者, 晉‧解之屬, 是也, 各於卦下詳之.
疏
[疏]凡四德者, 亨之與貞, 其德特行, 若元之與利, 則配連他事.
, 雖配他事爲文, 元是元大也, 始首也, 利是利益也, 合和也, 以當分言之, 各是其一德也, 唯配亨貞, 俱爲四德.
故比卦云“元永貞”, 坤六五“黃裳元吉”, 是也.
利亦非獨利貞, 亦所利餘事多矣. 若“利涉大川”, “利建侯”, “利見大人”, “利君子貞”, 如此之屬, 是利字所施處廣,
此四德, 非唯卦下有之, 亦於爻下
之, 但爻下, 其事稍少.
故“黃裳元吉”及“何天之衢亨”, “小貞吉”, “大貞凶”, 此皆於爻下言之, 其利則諸爻皆有.
疏
‘初九曰潛龍勿用 何謂也’者, 此夫子疊經初九爻辭, 故言‘初九曰’.
方釋其義, 假設問辭, 故言‘潛龍勿用, 何謂也.’
‘子曰龍德而隱者也’, 此夫子以人事釋潛龍之義, 聖人有龍德隱居者也.
‘不易乎世’者, 不移易其心, 在於世俗, 雖逢險難, 不易本志也.
不成乎名하여 遯世无悶하며 不見是而无悶하여 樂則行之하고 憂則違之하여 確乎其不可拔이 潛龍也라
疏
○正義曰:‘不成乎名’者, 言自隱默, 不成就於令名, 使人知也.
‘遯世无悶’者, 謂逃遯避世, 雖逢无道, 心无所悶.
上云‘遯世无悶’, 心處僻陋, ‘不見是而无悶’, 此因見世俗行惡, 是亦无悶,
‘樂則行之 憂則違之’者, 心以爲樂, 己則行之, 心以爲憂, 己則違之.
‘確乎其不可拔’者, 身雖逐物推移, 隱潛避世, 心志守道, 確乎堅實, 其不可拔, 此是潛龍之義也.
龍德而正中者也니 庸言之信하며 庸行之謹하여 閑邪存其誠하며 善世而不伐하며 德博而化니 易曰見龍在田利見大人이라하니 君德也라
疏
‘子曰龍德而正中者’, 九二居中不偏, 然不如九五居尊得位,
‘庸言之信 庸行之謹’者, 庸謂中庸, 庸, 常也, 從始至末, 常言之信實, 常行之謹愼.
‘閑邪存其誠’者, 言防閑邪惡, 當自存其誠實也.
初爻則全隱遯避世, 二爻則漸見德行以化於俗也.
, 民漸化之, 是也.
‘易曰見龍在田 利見大人 君德’者, 以其異於諸爻, 故特稱易曰.
九三曰 君子終日乾乾하여 夕惕이나 若厲라야 无咎는 何謂也오
君子進德脩業하나니 忠信은 所以進德也요 脩辭立其誠은 所以居業也라
注
[注]處一體之極은 是至也요 居一卦之盡은 是終也라
處事之至而不犯咎는 知至者也라 故로 可與成務矣요 處終而能全其終은 知終者也라
夫進物之速者
는 義不若利
하고 存物之終
는 利不及義
라
故로 靡不有初나 鮮克有終이니 夫可與存義者는 其唯知終者乎인저
疏
‘子曰君子進德脩業’者, 德謂德行, 業謂功業, 九三所以終日乾乾者, 欲進益道德, 脩營功業,
‘忠信所以進德’者, 復解進德之事, 推忠於人, 以信待物, 人則親而尊之, 其德日進, 是進德也.
‘修辭立其誠 所以居業’者, 辭謂文敎, 誠謂誠實也, 外則脩理文敎, 內則立其誠實, 內外相成, 則有功業可居,
上云進德, 下復云進德, 上云脩業, 下變云居業者, 以其間有脩辭之文, 故避其脩文而云居業, 且功業宜云居也.
疏
[疏]‘知至至之 可與幾’者, 九三處一體之極, 方至上卦之下, 是至也, 旣居上卦之下, 而不凶咎, 是知至也.
旣能知是將至, 則是識幾知理, 可與共論幾事, 幾者, 去无入有, 有理而未形之時.
‘知終終之 可與存義’者, 居一體之盡, 而全其終竟, 是知終也.
義者, 宜也, 保全其位, 不有失喪, 於事得宜.
然九三唯是一爻, 或使之欲進知幾也, 或使之欲退存義也.
一進一退, 其意不同, 以九三處進退之時, 若可進則進, 可退則退, 兩意竝行.
疏
○正義曰:‘處一體之極 是至也’者, 莊氏云“極卽至也, 三在下卦之上, 是至極.”
褚氏云“‘一體之極, 是至’者, 是下卦已極, 將至上卦之下, 至謂至上卦也.”
下云“在下位而不憂”, 注云“知夫至至, 故不憂.” 此以人事言之.
旣云下位, 明知在上卦之下, 欲至上卦, ‘故不憂’, 是知將至上卦.
若莊氏之說, 直云下卦上極, 是至極, 儻无上卦之體, 何可至也, 何須與幾也.
‘處事之至而不犯咎 是知至’者, 謂三近上卦, 事之將至, 能以禮知屈, 而不觸犯上卦之咎, 則是知事之將至.
‘故可與成務’者, 務謂事務, 旣識事之先幾, 可與以成其事務.
‘進物之速者 義不若利’者, 利則隨幾而發, 見利則行也, 義者, 依分而動, 不妄求進.
‘存物之終者 利不及義’者, 保全已成之物, 不妄興動,
‘故靡不有初 鮮克有終’者, 見利則行, 不顧在後, 是靡不有初, 不能守成其業, 是鮮克有終.
注
[注]居下體之上하고 在上體之下하니 明夫終敝故로 不驕也요 知夫至至故로 不憂也라
疏
○正義曰:‘是故居上位而不驕’者, 謂居下體之上位而不驕也, 以其知終, 故不敢懷驕慢.
‘在下位而不憂’者, 處上卦之下, 故稱下位, 以其知事將至, 務幾欲進, 故不可憂也.
疏
前經, 知至在前, 知終在後, 此經, 先解知終, 後解知至者, 隨文便而言之也.
疏
因其已終已至之時, 而心懷惕懼, 雖危不寧, 以其知終知至, 故无咎.
疏
○正義曰:‘處事之極 失時則廢’者, 謂三在下卦之上體, 是處事之極至也,
失時不進, 則幾務廢闕,
‘懈怠則曠’者, 旣處事極, 極則終也, 當保守已終之業.
疏
‘子曰上下无常 非爲邪’者, 上而欲躍, 下而欲退, 是无常也, 意在於公, 非是爲邪也.
‘進退无恒 非離群’者, 何氏云“所以進退无恒者, 時使之然, 非苟欲離群也.”
何氏又云“言上下者, 據位也, 進退者, 據爻也,
所謂非離群者, 言雖進退无恒, 猶
群衆而行,
, 竝同於衆, 非是卓絶獨離群也.”
疏
[疏]‘君子進德脩業 欲及時’者, 進德則欲上欲進也, 脩業則欲下欲退也.
進者, 棄位欲躍, 是進德之謂也, 退者, 仍退在淵, 是脩業之謂也.
其意與九三同, 但九四欲前進, 多於九三, 故云欲及時也. 九三則不云及時, 但可與言幾而已.
同聲相應하며 同氣相求하나니 水流濕하고 火就燥하며 雲從龍하고 風從虎라
聖人作而萬物覩하나니 本乎天者는 親上하고 本乎地者는 親下하니 則各從其類也니라
疏
‘飛龍在天’者, 言天能廣感衆物, 衆物應之, 所以利見大人.
因大人與衆物感應, 故廣陳衆物相感應, 以明聖人之作而萬物瞻覩以結之也.
‘同聲相應’者, 若彈宮而宮應, 彈角而角動, 是也.
疏
[疏]‘水流濕 火就燥’者, 此二者, 以形象相感.
水流於地, 先就濕處, 火焚其薪, 先就燥處, 此同氣水火, 皆无識而相感.
疏
[疏]‘聖人作 而萬物覩’者, 此二句, 正釋“飛龍在天, 利見大人”之義.
此亦同類相感, 聖人有生養之德, 萬物有生養之情,
疏
[疏]‘本乎天者親上 本乎地者親下’者, 在上雖陳感應, 唯明數事而已, 此則廣解天地之間共相感應之義.
然萬物之體, 有感於天氣偏多者, 有感於地氣偏多者.
故周禮大宗伯, 有天産地産, 大司徒云“動物植物”.
本受氣於天者, 是動物含靈之屬, 天體運動, 含靈之物亦運動, 是親附於上也, 本受氣於地者, 是植物无識之屬, 地體凝滯, 植物亦不移動, 是親附於下也.
疏
[疏]則‘各從其類’者, 言天地之間, 共相感應, 各從其氣類.
其造化之性, 陶
之器, 非唯同類相感, 亦有異類相感者.
,
,
, 其類煩多, 難一一言也, 皆冥理自然, 不知其所以然也.
感者, 動也, 應者, 報也, 皆先者爲感, 後者爲應.
感應之事
, 非片言可悉, 今意在釋理, 故略擧大綱而已.
注
乾文言에 首不論乾而先說元하고 下乃曰乾은 何也오
夫乾者는 統行四事者也니 君子以自强不息하여 行此四者라
餘爻皆說龍이로되 至於九三하여 獨以君子爲目은 何也오
象之所生은 生於義也하니 有斯義然後에 明之以其物이라
故로 以龍敍乾하고 以馬明坤하여 隨其事義而取象焉이라
是故로 初九, 九二는 龍德이 皆應其義라 故로 可論龍以明之也요 至於九三乾乾夕惕하여는 非龍德也니 明以君子當其象矣라
統而擧之하면 乾體皆龍이요 別而敍之하면 各隨其義니라
疏
○正義
:‘夫乾者 統行四事者也 君子以自强不息 行此四者’, 注意以乾爲四德之主, 文言之首, 不先說乾而先說四德者,
故自發問而釋之, 以乾體當分无功, 唯統行此四德之事, 行此四德, 乃是乾之功.
潛龍勿用은 下也요 見龍在田은 時舍也요 終日乾乾은 行事也요 或躍在淵은 自試也요 飛龍在天은 上治也요 亢龍有悔는 窮之災也라
注
夫能全用剛直하여 放遠善柔는 非天下至理면 未之能也라
見而在田은 必以時之通舍也니 以爻爲人하고 以位爲時하여 人不妄動이면 則時皆可知也라
文王明夷면 則主可知矣요 仲尼旅人이면 則國可知矣니라
疏
○正義曰:此一節, 是文言第三節, 說六爻人事所治之義.
‘潛龍勿用 下也’者, 言聖人於此潛龍之時, 在卑下也.
‘或躍在淵 自試’者, 言聖人逼近五位, 不敢果決而進, 唯漸漸自試, 意欲前進, 遲疑不定,
‘亢龍有悔 窮之災’者, 言位窮而致災, 災則悔也, 非爲大禍災也.
‘乾元用九 天下治’者, 易經上稱用九, 用九之文, 總是乾德,
又乾字不可獨言, 故擧元德以配乾也, 言此乾元用九德而天下治.
九五止是一爻, 觀見事狹, 但云‘上治’. 乾元總包六爻, 觀見事闊, 故云‘天下治也’.
疏
○正義曰:‘此一章全以人事明之’者, 下云“陽氣潛藏”, 又云“乃位乎天德”, 又云“乃見天則”,
‘夫能全用剛直 放遠善柔 非天下至理 未之能也’者, 以乾元用九, 六爻皆陽, 是全用剛直.
善能柔諂, 貌恭心狠, 使人不知其惡, 識之爲難.
‘夫識物之動 則其所以然之理 皆可知’者, 此欲明在下龍潛見之義.
故張氏云“識物之動, 謂龍之動也, 則其所以然之理, 皆可知者, 謂識龍之所以潛, 所以見然, 此之理皆可知也.”
疏
[疏]‘龍之爲德, 不爲妄者’, 言龍靈異於他獸, 不妄擧動, 可潛則潛, 可見則見, 是不虛妄也.
‘見而在田, 必以時之通舍’者, 經唯云時舍也, 注云必以時之通舍者, 則輔嗣以通解舍, 舍是通義也.
‘以爻爲人 以位爲時’者, 爻居其位, 猶若人遇其時.
潛龍勿用은 陽氣潛藏이요 見龍在田은 天下文明이요 終日乾乾은 與時偕行이라
疏
○正義曰:此一節, 是文言第四節, 明六爻天氣之義.
‘天下文明’者, 陽氣在田, 始生萬物, 故天下有文章而光明也.
所以九三乾乾不息, 終日自戒者, 同於天時生物不息, 言與時偕行也, 偕, 俱也.
諸儒以爲“建辰之月, 萬物生長, 不有止息, 與天時而俱行.” 若以不息言之, 是建寅之月, 三陽用事.
或躍在淵은 乾道乃革이요 飛龍在天은 乃位乎天德이요 亢龍有悔는 與時偕極이라
疏
○正義曰:‘乾道乃革’者, 去下體, 入上體, 故云乃革也.
‘乃位乎天德’者, 位當天德之位, 言九五陽居於天, 照臨廣大,
注
唯乾體能用之하니 用純剛以觀天이면 天則을 可見矣라
疏
[疏]正義曰:‘乃見天則’者, 陽是剛亢之物, 能用此純剛, 唯天乃然,
注
[注]不爲乾元이면 何能通物之始며 不性其情이면 何能久行其正이리오
是故로 始而亨者는 必乾元也요 利而正者는 必性情也라
疏
○正義曰:此一節, 是第五節, 復明上初章及乾四德之義也.
‘乾元者, 始而亨者也’, 以乾非自當分有德, 以元亨利貞爲德.
元是四德之首, 故夫子恒以元配乾而言之, 欲見乾元相將之義也.
以有乾之元德, 故能爲物之始而亨通也, 此解元亨二德也.
‘利貞者, 性情也’者, 所以能利益於物而得正者, 由性制於情也.
疏
○正義曰:乾之元氣, 其德廣大, 故能徧通諸物之始.
故云“不爲乾元, 何能通物之始.” 其實坤元亦能通諸物之始, 以此文言論乾元之德, 故注連言乾元也.
‘不性其情 何能久行其正’者, 性者, 天生之質, 正而不邪, 情者, 性之欲也.
言若不能以性制情, 使其情如性, 則不能久行其正.
故合散屈伸, 與體相垂, 形躁好靜, 質柔愛剛, 體與情反, 質與願違.”
輔嗣之意, 以初爲无用之地, 上爲盡末之境, 其居位者, 唯二‧三‧四‧五, 故繫辭唯論此四爻.
略例云“陽之所求者, 陰也, 陰之所求者, 陽也.” 一與四, 二與五, 三與上, 若一陰一陽, 爲有應, 若俱陰俱陽, 爲无應.
疏
○正義曰:‘乾始 能以美利利天下 不言所利 大矣哉’者, 此復說始而亨利貞之義.
乾始謂乾能始生萬物, 解元也, 能以美利利天下, 解利也, 謂能以生長美善之道利益天下也.
不復說亨貞者, 前文亨旣連始, 貞又連利, 擧始擧利, 則通包亨貞也.
‘不言所利, 大矣哉’者, 若坤卦云“利牝馬之貞”及“利建侯”, “利涉大川”, 皆言所利之事,
此直云“利貞”, 不言所利之事, 欲見无不利也, 非唯止一事而已,
其實此利爲无所不利, 此貞亦无所不貞, 是乾德大也.
疏
[疏]‘大哉乾乎 剛健中正 純粹精’者, 此正論乾德, 不兼通元也,
剛健中正”, 謂純陽剛健, 其性剛强, 其行勁健.
‘六爻發揮 旁通情’者, 發謂發越也, 揮謂揮散也, 言六爻發越揮散, 旁通萬物之情也.
‘時乘六龍 以御天’者, 重取乾彖之文, 以贊美此乾之義.
‘雲行雨施 天下平’者, 言天下普得其利, 而均平不偏陂.
疏
○正義曰:此一節, 是文言第六節, 更復明六爻之義, 此節明初九爻辭.
周氏云“上第六節乾元者始而亨者也, 是廣明乾與四德之義, 此君子以成德爲行, 亦是第六節, 明六爻之義.”
‘君子以成德爲行’者, 明初九潛龍之義, 故先開此語也.
言君子之人, 當以成就道德爲行, 令其德行彰顯, 使人日可見其德行之事, 此君子之常也, 不應潛隱, 所以今日潛者, 以時未可見, 故須潛也.
疏
[疏]‘潛之爲言也 隱而未見 行而未成’, 此夫子解潛龍之義.
此經中潛龍之言, 是德之幽隱而未宣見, 所行之行, 未可成就.
‘是以君子弗用’者, 德旣幽隱, 行又未成, 是君子於時不用, 以逢衆陰, 未可用也.
周氏云“德出於己, 在身內之物, 故云成. 行被於人, 在外之事, 故云爲行.” 下又卽云“行而未成.” 是行亦稱成, 周氏之說, 恐義非也.
疏
‘問以辯之’者, 學有未了, 更詳問其事, 以辯決於疑也.
寬以居之하며 仁以行之하나니 易曰 見龍在田이니 利見大人이라하니 君德也라하니라
疏
[疏]正義曰:‘寬以居之’者, 當用寬裕之道, 居處其位也.
‘易曰見龍在田 利見大人 君德’者, 旣陳其德於上, 然後引易本文以結之.
九三은 重剛而不中하여 上不在天하며 下不在田이라
故로 乾乾하여 因其時而惕하면 雖危나 无咎矣리라
疏
上之初九‧九二, 皆豫陳其德於上, 不發首云初九‧九二,
此九三‧九四, 則發首先言九三‧九四, 其九五全不引易文,
以潛‧見, 須言其始, 故豫張本於上. 三‧四俱言重剛不中, 恐其義同, 故竝先云爻位幷重剛不中之事.
九五前章已備, 故不復引易, 但云大人也. 上九亦前章備顯, 故此直言“亢之爲言也”.
案, 初九云“潛之爲言”, 上爻云“亢之爲言”, 獨二爻云言者,
褚氏以“初‧上居无位之地, 故稱言也, 其餘四爻是有位, 故不云言.” 義或然也.
‘故乾乾因其時而惕 雖危无咎矣’者, 居危之地, 以乾乾夕惕, 戒懼不息, 得无咎也.
九四는 重剛而不中하여 上不在天하며 下不在田하며 中不在人이라
疏
其‘重剛不中 上不在天 下不在田’, 竝與九三同也.
‘中不在人’者, 三之與四, 俱爲人道, 但人道之中, 人下近於地, 上遠於天,
九三近二, 是下近於地, 正是人道, 故九三不云中不在人.
九四則上近於天, 下遠於地, 非人所處, 故特云中不在人.
經稱或, 是疑惑之辭, 欲進欲退, 猶豫不定, 故疑之也.
九三中雖在人, 但位卑近下, 向上爲難, 故危惕, 其憂深也. 九四則陽德漸盛, 去五彌近, 前進稍易, 故但疑惑, 憂則淺也.
夫大人者는 與天地合其德하며 與日月合其明하며 與四時合其序하며 與鬼神合其吉凶이라
先天而天弗違하고 後天而奉天時하나니 天且弗違온 而況於人乎며 況於鬼神乎아
疏
但上節, 明大人與萬物相感, 此論大人之德无所不合, 廣言所合之事.
‘與四時合其序’者, 若賞以春夏, 刑以秋冬之類也.
‘先天而天弗違’者, 若在天時之先行事, 天乃在後不違, 是天合大人也.
‘後天而奉天時’者, 若在天時之後行事, 能奉順上天, 是大人合天也.
‘天且弗違 而況於人乎 況於鬼神乎’者, 夫子以天且不違, 遂明大人之德, 言尊而遠者, 尙不違, 況小而近者, 可有違乎,
亢之爲言也는 知進而不知退하며 知存而不知亡하며 知得而不知喪하나니 其唯聖人乎아 知進退存亡이요 而不失其正者는 其唯聖人乎인저
疏
‘知進而不知退 知存而不知亡 知得而不知喪’者, 言此上九所以亢極有悔者, 正由有此三事.
若能三事備知, 雖居上位, 不至於亢也, 此設誡辭.
‘其唯聖人乎 知進退存亡’者, 言唯聖人, 乃能知進退存亡也.
‘而不失其正者 其唯聖人乎’者, 聖人非但只知進退存亡, 又能不失其正道, 其唯聖人乎.
此經再稱其唯聖人乎者, 上稱聖人, 爲知進退存亡發文, 下稱其唯聖人乎者, 爲不失其正發文,
疏
‘괘卦’라고 말한 것은 《역위易緯》에 “괘卦는 ‘걸어놓다[掛]’의 뜻이니, 물건의 상象을 걸어놓아서 사람에게 보여주므로 괘卦라고 말했다.” 하였다.
다만 두 획의 체體는 비록 음陰‧양陽의 기운을 형상하였으나 만물萬物의 상象을 이루지 못하여 괘卦를 이룰 수가 없고, 반드시 세 번 그어서 삼재三才를 형상하여 하늘과 땅, 우레와 바람, 물과 불, 산과 못의 상象을 표시하여야 비로소 괘卦라고 말한다.
그러므로 〈계사전繫辭傳〉에 “팔괘八卦가 열列을 이루니 상象이 이 안에 들어 있다.”는 것이 이것이다.
다만 처음에 세 획이 있어 비록 만물萬物의 상象이 있으나 만물萬物이 변통하는 이치에 있어서는 아직도 미진한 바가 있다.
그러므로 다시 이것을 거듭해서 여섯 획을 그어 만물萬物의 형상을 구비하고 천하의 능한 일을 다하기 때문에 6획에 괘卦를 이룬 것이다.
疏
이 건괘乾卦는 본래 하늘을 형상하였으니, 하늘은 바로 여러 양기陽氣가 쌓여 하늘을 이룬 것이다.
그러므로 이 괘卦의 여섯 효爻가 모두 양陽획으로 괘卦를 이룬 것이다.
이 괘卦가 이미 하늘을 형상하였는데, 어찌하여 천天이라고 말하지 않고 건乾이라고 말하였는가?
천天이란 정해진 형체形體의 이름이고, 건乾이란 체體와 용用을 말한 것이다.
그러므로 〈설괘전說卦傳〉에 “건乾은 굳셈[健]이다.” 하였으니, 하늘의 체體가 건健을 용用으로 삼음을 말한 것이다.
성인聖人이 《주역周易》을 지음은 본래 사람들을 가르쳐서 사람들로 하여금 하늘의 용用을 본받게 하고자 한 것이고, 하늘의 체體를 본받게 한 것은 아니다.
그러므로 건乾이라 이름하고 천天이라 이름하지 않은 것이다.
‘하늘이 건健을 용用으로 삼는다.’는 것은, 〈하늘이〉 운행하여 그치지 않고 변화變化에 응하여 무궁무진하니, 이것이 하늘의 자연한 이치이다.
그러므로 성인聖人이 마땅히 이 자연의 형상을 본받아서 사람의 일에 시행하고, 또한 마땅히 물건에 응하여 일을 이루어서 말하고 행하는 것이 그치지 아니하여 종일토록 부지런히 힘써서 한때도 게으름이 없는 것이니, 이것은 하늘의 상象을 인하여 사람의 일을 가르치신 것이다.
물건의 상象으로 말하면 순양純陽이고 하늘이며, 사람의 일로 말하면 인군人君이고 아버지이다.
높은 자리에 있기 때문에 여러 괘卦의 머리(첫 번째)에 있고 역리易理의 시초가 되는 것이다.
疏
다만 성인聖人이 괘卦 이름을 지을 적에 체례體例가 똑같지 아니하여 혹은 물건의 상象을 가지고 괘卦의 이름으로 삼은 경우가 있으니, 비否와 태泰, 박剝과 이頤, 정鼎과 같은 등속이 이것이고,
혹은 상象에서 사용하는 것을 가지고 괘卦의 이름으로 삼은 경우가 있으니, 바로 건乾과 곤坤의 등속이 이것이니, 이와 같은 유類가 많다.
비록 물건의 상象을 취하였으나 마침내 사람의 일을 가지고 괘卦의 이름으로 삼은 것은 바로 가인家人, 귀매歸妹, 겸謙, 이履의 등속이 이것이다.
이와 같이 똑같지 않은 이유는 다만 물건은 만 가지 형상이 있고 사람은 만 가지 일이 있으니, 만약 한 가지 일을 고집하면 만물萬物의 상象을 포함할 수 없고, 만약 하나의 상象에 국한하면 만 가지 일을 총괄할 수 없다.
그러므로 이름(명칭)에 숨고 드러남이 있고, 말에 순수하고 잡됨이 있는 것이니, 한 예例로 구할 수가 없고 한 유類로 취할 수가 없다.
그러므로 〈계사전繫辭傳〉에 “오르내림이 일정함이 없고 강剛과 유柔가 서로 뒤바뀌어 떳떳한 요체要諦가 될 수 없다.” 하였는데, 한강백韓康伯(韓伯)의 주注에 “일정한 기준을 세울 수 없다.” 한 것이 이것이다.
疏
《자하전子夏傳》에 이르기를 “원元은 시작이요, 형亨은 통함이요, 이利는 화和함이요, 정貞은 바름이다.” 하였으니,
이 괘卦의 덕德이 순양純陽의 성질이 있어서 자연히 양기陽氣를 가지고 만물萬物을 처음 낳게 해서, 원시元始와 형통亨通을 얻어서 물건의 성질을 화和하게 하여 각각 그 이로움이 있게 하고, 또 물건으로 하여금 견고堅固하고 정정貞正하여 좋은 끝마침을 얻게 함을 말한 것이다.
이 괘卦는 자연히 물건으로 하여금 이 네 가지를 소유하여 각각 제자리를 얻게 하였다.
그러므로 네 가지 덕德이라 하였으니, ‘성인聖人 또한 마땅히 이 괘卦를 본받아서, 선善한 도道를 행하여 만물萬物을 자라게 해서 물건이 생존함을 얻어 원元이 되게 해야 하고,
또 마땅히 아름다운 일을 가지고 만물萬物을 회합會合하여 물건으로 하여금 개통開通해서 형亨이 되게 해야 하고,
또 마땅히 의義로써 만물萬物을 화합하게 하여 물건으로 하여금 각기 그 조리條理를 얻어서 이利가 되게 해야 하고,
또 마땅히 정고貞固함으로 일을 주관하여 물건으로 하여금 각각 그 바름을 얻어서 정貞이 되게 해야 함’을 말한 것이다.
이 때문에 성인聖人이 건乾을 본받아서 이 네 가지 덕德을 행한다.
그러므로 ‘원元‧형亨‧이利‧정貞’이라 말한 것이다.
그 자세한 조례條例는 〈문언전文言傳〉에 구비되어 있다.
초구初九는 잠긴 용龍이니, 쓰지 말아야 한다.
疏
정의왈正義曰:첫 번째의 지위에 거하였으므로 ‘초初’라 칭하고, 양陽의 효爻이므로 ‘구九’라 칭한 것이다.
‘잠潛’은 숨고 엎드리는 이름이고, ‘용龍’은 변화變化하는 물건이다.
이는 ‘하늘의 자연스런 기운이 건자建子의 달에서 시작하여 음기陰氣가 처음 성盛하고 양기陽氣가 잠겨 지하地下에 있음’을 말한 것이다.
그러므로 ‘초구初九 잠룡潛龍’이라고 말한 것이다.
이는 자연의 형상이니, 성인聖人이 법을 만들어서 말씀하기를 ‘이 잠겨 있는 용龍의 때에 소인小人의 도道가 성盛하니 성인聖人이 비록 용龍의 덕德을 가지고 있으나, 이때에는 오직 마땅히 잠겨 숨어야 하고 시행해서는 안 된다.’고 한 것이다.
장씨張氏(張譏)는 이르기를 “도道를 아직 행할 수 없기 때문에 ‘쓰지 말라’고 하여 경계하였다.” 하였다.
소인小人의 도道가 성한 이때에 만약 시행하여 쓰게 되면 소인小人에게 해害를 받게 되니, 적은 숫자는 많은 숫자를 대적하지 못하고 약한 자는 강한 자를 이기지 못하여 화禍와 해害가 미치게 된다.
예컨대 한漢 고조高祖가 포학한 진秦나라의 세상에서 태어나 오직 은거하여 사수泗水의 정장亭長이 되었으니, 이것이 ‘물용勿用’이다.
여러 학자들은 모두 ‘순舜 임금이 처음 뇌택雷澤에서 물고기를 잡은 것’이라 하였으나, 순舜 임금의 때는 요堯 임금의 세상을 만나서 성군聖君인 요堯 임금이 윗자리에 있었으니, 소인小人의 도道가 성하다고 말할 수 없다.
이 잠룡潛龍이 처음 일어난 것이 건자建子의 달에 있으니, 뜻에 맞지 않을 듯하다.
疏
첫 번째 자리를 초初라고 말하였으면 여섯 번째 자리를 마땅히 종終이라고 말해야 하고, 여섯 번째 자리를 상上이라고 말하였으면 첫 번째 자리를 마땅히 하下라고 말하여야 하는데, 글이 똑같지 않은 이유는, 장씨莊氏가 설명하기를 “아래에서 초初를 말하였으면 위에는 말末의 뜻이 있다.
그러므로 대과괘大過卦의 〈단전彖傳〉에 ‘기둥이 흔들리는 것은 본本과 말末이 약하기 때문이다.’ 하였으니, 이것은 상上에 말末의 뜻이 있는 것이다.
육六을 상上이라고 말했으면 초初를 마땅히 하下라고 말해야 한다.
그러므로 소상小象에 ‘잠룡潛龍이니 쓰지 말라는 것은 양陽이 아래에 있기 때문이다.’ 하였으니, 이것은 초初에 하下의 뜻이 있는 것이다.
호문互文으로 서로 통한다.” 하였으니, 뜻이 혹 옳을 듯하다.
또 첫 번째에 초初라고 말한 것은 만물萬物이 점점 쌓여서 무無로부터 유有로 들어감을 밝히고자 한 것이니, 이 때문에 초初라 말하고 일一과 하下라고 말하지 않은 것이다.
육六을 상上이라고 말한 것은 자리가 괘卦의 위쪽에 있음을 나타내고자 하였으므로 육六과 말末이라고 말하지 않은 것이다.
이 ‘초구初九’의 등속은 바로 건乾의 여섯 효爻의 효사爻辭인데, 다만 건괘乾卦는 양陽이 생겨나는 세상이므로 여섯 효爻에서 말한 것이 모두 성인聖人의 출처出處를 가지고 가탁假託하였고,
다른 괘卦의 여섯 효爻는 각각 상象을 인하여 뜻을 밝혀서 뜻을 따라 발명하여 굳이 다 성인聖人을 논하지는 않았으니, 다른 것도 모두 이와 같다.
疏
‘효爻’라고 말한 것은 〈계사전繫辭傳〉에 “효爻라는 것은 이것을 본받는 것[效此者]이다.” 하였으니, 성인聖人이 괘卦를 그어서 만물萬物의 상象을 따라 본받은 것이다.
선유先儒가 이르기를 “후대 성인聖人이 《주역周易》을 가지고 일을 점칠 때에 먼저 시초蓍草를 사용하여 수數를 구하고, 수數를 얻어 효爻를 정하고, 효爻를 여러 개 모아 괘卦를 이루고, 괘卦를 인하여 괘사卦辭와 효사爻辭를 만들어내었으니, 그렇다면 시초蓍草는 효爻와 괘卦의 본本이 되고 효爻와 괘卦는 시초蓍草의 말末이 된다.” 하였다.
이제 살펴보건대 〈설괘전說卦傳〉에 “성인聖人이 역易을 지을 적에 은연중에 신명神明의 도움을 받아 시초蓍草를 만들어내었고, 하늘에서 셋을 취하고 땅에서 둘을 취하여 수數를 의지하였고, 음陰‧양陽에서 변화變化를 관찰하여 괘卦를 세웠고, 강剛‧유柔를 발휘하여 효爻를 만들어내었다.” 하였으며,
〈계사전繫辭傳〉에 “천하天下에 부지런히 힘써야 할 것을 이룸은 시초蓍草와 거북점보다 더 큰 것이 없다.
이 때문에 하늘이 신성한 물건을 내시자 성인聖人이 이것을 본받았다.” 하였다.
또 《역건착도易乾鑿度》에는 “황책皇策을 남긴 것은 복희伏犧(伏羲)이다.” 하였으니, 이 여러 글에 근거해보면 모두 시초蓍草를 사용하여 괘卦를 구한 것이니, 선유先儒의 말이 이치에 당연한 것이다.
疏
그러나 양효陽爻를 구九라 칭하고 음효陰爻를 육六이라 칭하는 것은 그 설명이 두 가지가 있다.
하나는 건乾의 체體에는 3획이 있고 곤坤의 체體에는 6획이 있는데, 양陽은 음陰을 겸할 수 있으므로 그 수數가 9이고 음陰은 그 수數를 겸할 수 없으므로 그 수數가 6이라는 것이다.
두 번째는 노양老陽의 수數가 9이고 노음老陰의 수數가 6인데 노음老陰과 노양老陽은 모두 변하니, 《주역周易》은 변하는 것을 가지고 점占을 친다.
그러므로 두원개杜元凱(杜預)가 《춘추좌씨전春秋左氏傳》 양공襄公 9년의 “간艮이 8로 변한 것을 만났다.”고 한 것에 주注를 내고, 정강성鄭康成(鄭玄)이 《주역周易》에 주注를 낼 적에 모두 “《주역周易》은 변하는 것을 가지고 점占을 친다.
그러므로 9라 칭하고 6이라 칭하는 것이다.” 하였다.
노양老陽의 수數가 9이고 노음老陰의 수數가 6인 이유는, 시초蓍草를 세는 수數에 9번 떼어내는 것을 만나면 노양老陽을 얻고, 6번 떼어내는 것을 만나면 노음老陰을 얻어서이니, 소양少陽을 7이라 칭하고 소음少陰을 8이라 칭하는 것도 뜻이 이를 기준으로 한 것이다.
장씨張氏가 말하기를 “양陽의 수數는 7이 있고 9가 있고 음陰의 수數는 8이 있고 6이 있는데,
다만 7은 소양少陽이 되고 8은 소음少陰이 되니 소양少陽과 소음少陰은 질박하여 변치 않아서 효爻의 본체本體가 되고, 9는 노양老陽이 되고 6은 노음老陰이 되니 문채文彩가 나서 변화變化를 따르므로 효爻의 별명別名이 되었다.
다만 7이 이미 양효陽爻가 되어서 그 획이 이미 자랐으나 이제 9의 노양老陽이 있으니 다시 그어서 양陽을 만들 수가 없다.
이 때문에 중전重錢에 소양少陽의 7수數를 피한 것이다.
8은 음陰의 수數라서 음陰의 효爻를 그었으나 이제 6이 노음老陰이 되었으니 다시 음효陰爻를 그을 수가 없다.
그러므로 그 동전을 교交할 때에 8을 피하고 6이라고 칭한 것이다.
다만 《주역周易》은 만 가지 상象을 포함하여 의탁한 것이 여러 가지이다.” 하였으니, 뜻이 혹 옳을 듯하다.
구이九二는 나타난 용龍이 밭에 있으니, 대인大人을 만나봄이 이롭다.
注
잠긴 곳에서 나오고 숨은 곳에서 떠났으므로 ‘현룡見龍’이라 하였고, 지상地上에 처하였으므로 ‘재전在田’이라 한 것이다.
덕德을 베풀기를 두루 하여 넓고, 중中에 거하여 편벽되지 않으니, 비록 인군人君의 자리가 아니나 인군人君의 덕德이다.
초효初爻는 드러나지 못하였고 삼효三爻는 부지런히 힘쓰고 사효四爻는 혹 뛰어오르고 상효上爻는 지나치게 높으니, ‘이견대인利見大人’은 오직 이효二爻와 오효五爻뿐이다.
疏
○정의왈正義曰:양陽이 이二의 자리에 처하였으므로 ‘구이九二’라 하였고, 양기陽氣가 발현되었으므로 ‘현룡見龍’이라 한 것이다.
‘전田’은 바로 지상地上으로, 유익함을 경영할 수 있는 곳이니, 양기陽氣가 발현하여 지상에 있으므로 ‘재전在田’이라 한 것이다.
또 일一과 이二는 모두 땅의 도道가 되는데 이二가 일一의 위에 있으니, 이 때문에 ‘전田’이라 칭한 것이다.
‘현룡재전見龍在田’은 자연의 상象이요, ‘이견대인利見大人’은 사람의 일을 가지고 가탁假託한 것이니,
용龍이 나타나 밭에 있을 때는 성인聖人이 오랫동안 잠겼다가 잠시 나온 것과 같으니, 비록 인군人君의 자리(지위)는 아니나 인군人君의 덕德을 가지고 있으므로 천하의 여러 사람들이 구이九二의 대인大人을 만나봄이 이로움을 말한 것이다.
그러므로 선유先儒가 이르기를 “예컨대 부자夫子가 수사洙泗에서 제자들을 가르칠 적에 천하를 이롭게 하여 인군人君의 덕德을 가지고 있었던 것과 같다.
그러므로 대인大人이라 칭한 것이다.” 하였다.
疏
살펴보건대, 〈문언전文言傳〉에 “구이九二는 덕德이 넓어 교화한다.” 하였고, 또 이르기를 “〈구이九二는〉 군주의 덕德이다.” 하였고, 왕보사王輔嗣(王弼)의 주注에는 “비록 인군人君의 지위는 아니나 인군人君의 덕德이다.” 하였으니,
이는 구이九二가 인군人君의 덕德을 가지고 있으므로 이 때문에 ‘대인大人’이라고 칭한 것이다.
왕보사王輔嗣는 또 말하기를 “‘이견대인利見大人’은 오직 이효二爻와 오효五爻뿐이다.” 하였으니, 이는 이효二爻와 오효五爻가 모두 대인大人으로, 천하 사람들이 그를 만나봄이 이로움이 되는 것이다.
그런데 저씨褚氏(褚仲都)와 장씨張氏는 정강성鄭康成의 설說과 똑같이 모두 “구이九二가 구오九五의 대인大人을 보는 것이 이롭다.” 하였으니, 그 뜻이 잘못되었다.
또 대인大人이라고 말한 것이 오로지 구오九五와 구이九二에만 있지는 않다.
그러므로 송괘訟卦에 “대인大人을 만나봄이 이롭다.” 하였고, 건괘蹇卦에도 “대인大人을 만나봄이 이롭다.” 하였으니, 이는 대인大人이란 글을 쓰는 곳이 넓은 것이다.
그러므로 왕보사王輔嗣의 주注에 〈대인大人에 해당하는 것으로〉 구이九二를 말한 것이니, 이 대인大人은 오로지 구오九五만을 가리키는 것이 아니다.
疏
○정의왈正義曰:[處於地上 故曰在田]선유先儒가 이르기를 “중괘重卦의 때에는 위아래 두 체體를 중하게 여긴다.
그러므로 초효初爻는 사효四爻와 서로 응하고, 이효二爻는 오효五爻와 서로 응하고, 삼효三爻는 상효上爻와 서로 응하니, 이는 위아래 두 체體에 천天‧지地‧인人을 논하는 것이 각기 다를 것이다.
다만 《주역周易》은 만 가지 상象을 포함하여 예例로 삼은 것이 한 가지가 아니다.
그 여섯 자리에 있어서는 일一과 이二는 지도地道가 되고 삼三과 사四는 인도人道가 되고 오五와 상上은 천도天道가 된다.
이二가 일一의 위에 있으니, 이는 구이九二가 지상地上에 처한 것이다.
농사지어 먹는 곳이 오직 지상地上에 있으니 이 때문에 밭이라고 칭한 것이다.” 하였다.
왕보사王輔嗣의 주注의 뜻을 보면 오직 지상地上을 취하여 밭이라고 칭하였는데,
여러 학자들은 다시 넓혀 말하여 “밭의 갈고 심는 이익이 만물萬物에 미쳐 가득하여 사람에게 유익하니, 마치 성인聖人이 만물萬物에게 유익한 것과 같으므로 밭이라고 칭하였다.” 하였다.
疏
[德施周普] 아래 소상小象의 글에 “두루 하여 넓다.” 하였다.
[居中不偏]구이九二가 하괘下卦의 가운데에 있어서 위와 아래가 그 마음이 똑같으니, 이는 중中에 거하여 편벽되지 않은 것이니 편벽되지 않으면 두루 하여 넓은 것이다.
[雖非君位]이二가 대인大人이 되었으나 자신이 이二의 자리에 거하였으니, 이는 인군人君의 지위가 아닌 것이다.
[君之德]덕德의 베풂이 두루 하고 넓기 때문이다.
〈문언전文言傳〉에 “덕德이 넓어 교화된다.” 하였고, 또 이르기를 “인군人君의 덕德이다.” 하였으니, 이는 구이九二가 인군人君의 덕德을 가지고 있는 것이다.
[初則不彰] 잠기고 숨어서 드러나지 못함을 말한 것이다.
[三則乾乾] 위태롭고 두려워 편안하지 못한 것이다.
[四則或躍] 나가고 물러남에 의심이 있음을 말한 것이다.
[上則過亢] ‘과過’는 지나침이 심함을 이르고, ‘항亢’은 항극亢極을 이른다.
[利見大人 唯二五焉]건乾의 한 괘卦를 모범으로 하였으므로 오직 이효二爻와 오효五爻라고 말하였으나 다른 괘卦에서 말할 적에는 단지 이효二爻와 오효五爻뿐만이 아니다.
그러므로 송괘訟卦와 건괘蹇卦에 모두 “대인大人을 만나봄이 이롭다.”고 말하였으니, 이 때문에 〈대인大人이란 글을〉 쓰는 곳이 넓어서 오직 이효二爻와 오효五爻뿐만이 아닌 것이다.
疏
여러 학자들은 “구이九二가 태주太蔟의 달(정월)에 해당하여 양기陽氣가 발현했다.” 하였으니,
그렇다면 구삼九三은 건진建辰의 달(3월)이 되고 구사九四는 건오建午의 달(5월)이 되므로, 구오九五는 건신建申의 달(7월)이 되는데, 음기陰氣가 처음 나와 물건을 죽이는 때가 되므로, “나는 용龍이 하늘에 있다.”고 칭할 수가 없다.
또 상구上九는 건술建戌의 달(9월)이 되니, 여러 음陰이 이미 성하므로, 상구上九에서 “때와 함께 지극하다.”고 말할 수 없는 것이다.
이때에는 양기陽氣가 겨우 보존되어 있으니, 무슨 지극함이 있겠는가.
여러 학자들의 이 말은 이치에 다소 어긋난다.
여기에 건乾의 양기陽氣가 점점 생겨난다는 것은 성인聖人이 점점 나오는 것과 같아서 마땅히 11월의 이후로 건사建巳의 달(4월)까지에 해당해야 하니, 이는 구이九二가 건축建丑(12월)과 건인建寅(정월)의 사이에 해당해야 하는 것이다.
이때에 땅속에 있는 초목의 싹이 처음 나오는 것이 있으니, 이는 양기陽氣가 발현하는 뜻이니, 건괘乾卦의 상象이 그러함이 당연한 것이다.
다만 음陰과 양陽 두 기운이 함께 1년의 공功을 이루기 때문에 음陰이 일어날 때에 그대로 양陽이 남아 있는 경우가 있고, 양陽이 생겨나는 달에 아직도 음陰이 존재하는 경우가 있는 것이다.
이 때문에 육률六律과 육려六呂는 음陰과 양陽이 서로 사이하여(교차해) 있는 것이니, 상象을 취하여 의義를 논하는 것이 이와 다르지 않다.
疏
건괘乾卦의 초구初九는 복괘復卦와 다르지 않고, 건괘乾卦의 구이九二는 임괘臨卦와 분별이 없는데, 어찌하여 복괘復卦와 임괘臨卦 두 괘卦가 이와 같지 않은가?
다만 《주역周易》은 상象을 논하였는데, 복괘復卦와 임괘臨卦 두 괘卦는 이미 여러 음陰이 위에서 나타난 상象이 있으니 모름지기 괘卦의 상象과 뜻을 논해야 하는바, 이는 각자 따로 글이 되는 것이다.
이 건괘乾卦의 초구初九와 구이九二는 다만 자리에 처한 한 효爻만을 논하였고, 여러 음陰이 나타난 상象이 없으므로 다만 효爻에 해당하는 자리만을 각각 밝힌 것이니, 이 때문에 임괘臨卦‧복괘復卦와 똑같지 않은 것이다.
구삼九三은 군자君子가 종일토록 부지런히 힘써서 저녁까지도 두려워하나 위태로운 듯하여야 허물이 없으리라.
注
하체下體의 극極에 처하고 상체上體의 아래에 거하여, 중中하지 못한 자리에 있고 중강重剛의 험함을 밟고 있다.
위로는 하늘에 있지 아니하여 그 높음을 편안히 할 수 없고, 아래로는 밭에 있지 아니하여 그 거처를 편안히 할 수 없다.
순수하게 아래(아랫사람)의 도道를 닦으면 위에 거한(윗사람의) 덕德이 폐해지고, 순수하게 위의 도道를 닦으면 아래에 처한 예禮가 비게 된다.
그러므로 종일토록 부지런히 힘써서 저녁에 이르도록 두려워하나 오히려 위태로운 듯한 것이다.
위에 있으면서도 교만하지 않고 아래에 있으면서도 근심하지 아니하여 때에 따라 두려워해서 그 기미를 잃지 않으면 비록 위태롭고 수고로우나 허물이 없을 수 있는 것이다.
하괘下卦의 극極에 처하여 상구上九의 항극亢極보다는 낫다.
그러므로 지혜와 힘을 다한 이후에 허물을 면할 수 있는 것이다.
건괘乾卦의 삼효三爻는 하괘下卦의 위에 처하였으므로 항룡亢龍의 후회를 면하고, 곤괘坤卦의 삼효三爻는 하괘下卦의 위에 처하였으므로 용龍이 싸우는 재앙을 면한 것이다.
疏
○정의왈正義曰:양陽으로서 삼三의 자리에 거하였으므로 ‘구삼九三’이라 칭하였고, 거한 자리가 중中을 얻지 못하였으므로 ‘대인大人’이라 칭하지 않았고, 양陽으로서 정위正位를 얻었으므로 ‘군자君子’라 칭한 것이다.
근심스럽고 위태로운 자리에 있으므로 ‘종일건건終日乾乾’하는 것이니, 항상 이 날을 마치도록 부지런히 스스로 힘써서 힘쓰고 노력하여 그치지 않음을 말한 것이다.
[夕惕] 이 날을 끝마친 뒤에 저녁을 향할 때에 이르러도 오히려 근심과 두려움을 품음을 말한 것이다.
[若厲] ‘약若’은 같음이요 ‘여厲’는 위태로움이니, 평소 근심하고 두려워하여 항상 기울고 위태로운 것처럼 하여야 비로소 허물이 없을 수 있음을 말한 것이니, 이미 이와 같이 경계하고 삼가면 죄罪와 허물이 없을 것이요, 만일 그렇지 않으면 허물이 있음을 말한 것이다.
그러므로 〈계사전繫辭傳〉에 “허물이 없다는 것은 허물을 잘 보전補塡한 것이다.” 하였다.
이 한 효爻는 양陽이 구삼九三의 자리에 거함을 인하여 모두 사람의 일을 가지고 그 상象을 밝혔다.
疏
○정의왈正義曰:[處下體之極] ‘극極’은 종終이니, 삼효三爻는 바로 상괘上卦의 아래이고 하체下體의 극極이다.
[居上體之下]사효四爻와 오효五爻와 상효上爻가 바로 상체上體이니, 삼효三爻는 사효四爻의 아래에 거하여 아직 상체上體에 들어가지 않고 다만 상체上體의 아래에 거하였으며, 사효四爻는 이미 상체上體에 들어갔는데 다만 상체上體의 아래에 거하였다.
그러므로 구사九四의 주注에 “상체上體의 아래에 거했다.” 한 것이 이와 다른 것이다.
[履重剛之險] 위아래에 모두 양효陽爻가 있으니, 강강剛强하여 험난한 것을 하기를 좋아한다.
그러므로 “중강重剛의 험함을 밟고 있다.[履重剛之險]”라고 말한 것이다.
[上不在天 未可以安其尊] 만약 하늘의 지위에 있으면 그 높음이 자연 편안히 거처할 수 있으나, 상괘上卦의 아래에 있어서 비록 하괘下卦의 위에 있지만 그 높음이 아직 편안하지 못하다.
그러므로 “그 높음을 편안히 할 수 없다.[未可以安其尊]”라고 말한 것이다.
[下不在田 未可以寧其居] ‘전田’은 바로 거처한 바의 곳이요 중화中和의 자리인데, 이미 밭에 있지 않기 때문에 그 거처를 편안히 할 수 없는 것이다.
疏
[純脩下道 則居上之德廢] 만약 순수하게 아래의 도道를 닦아서 상괘上卦를 섬기면 자기가 하괘下卦의 위에 거하여 그 덕德이 폐하고 무너짐을 말한 것이니, 너무 낮추고 유순함을 말한 것이다.
[純脩上道 則處下之禮曠] ‘광曠’은 빔을 이르니, 자기가 순수하게 하괘下卦의 위에 거한 도道를 닦아서 스스로 교만하고 자랑하면 상괘上卦의 아래에 처하여 그 예禮를 끝마침이 끝내 비게 됨을 말한 것이다.
[夕惕猶若厲也] 비록 저녁에 이르러도 항상 조심하고 두려워하는 마음을 품어서 마치 저녁이 되기 전과 같이 하여 항상 위태로운 것처럼 여김을 말한 것이다.
살펴보건대, 이 괘卦의 구삼九三이 처한 위치는 실로 위태로움이 있고, 또 〈문언전文言傳〉에 이르기를 “비록 위태로우나 허물이 없다.” 하였으니, 이는 실제로 위태로움이 있는 것이다.
상하上下의 문세文勢를 상고해보면 ‘약若’자는 마땅히 어조사가 되어야 할 것이나, 다만 여러 학자들이 모두 ‘약若’을 ‘여如’라 하여 “위태로움이 있는 듯하나 이는 실제로 위태로움이 없는 것이다.” 하였으니, 이치(문리)가 혹 미진한 듯하지만 지금 우선 이와 같이 해석한다.
疏
[因時而惕 不失其幾] ‘인시因時’는 두려워할 만한 때를 따름을 이른다.
그러므로 〈문언전文言傳〉에 “때를 따라 두려워한다.”고 하였고, 또 “이를 데를 알아 이르므로 더불어 기미를 알 수 있다.” 하였으니, 이는 때를 따라 두려워하여 그 기미를 잃지 않는 것이다.
[雖危而勞] 〈경문經文의〉 ‘약려若厲’는 바로 〈주注의〉 ‘수위雖危’이고, 〈경문經文의〉 ‘종일건건終日乾乾’은 바로 〈주注의〉 ‘이로而勞’이다.
바로 구삼九三이 상구上九와 서로 아우르니, 구삼九三은 하괘下卦의 극極에 처하여 그 지위가 아직 낫기 때문에 지혜와 힘을 다하면 허물을 면할 수 있는 것이요,
상구上九는 상괘上卦의 위에 있어서 그 지위가 매우 높으니 비록 지혜와 힘을 다하나 항극亢極을 면치 못하니, 이는 아래가 위보다 낫고 낮은 것이 높은 것보다 나음을 말한 것이다.
구사九四는 혹 뛰어올라 연못에 있으면 허물이 없으리라.
注
하체下體의 극極을 떠나고 상체上體의 아래에 거하였으니, 건도乾道가 변혁하는 시기이다.
위로는 하늘에 있지 않고 아래로는 밭에 있지 않고 가운데로는 사람에 있지 아니하여 중강重剛의 험함을 밟아서 일정한 자리로 처한 바가 없으니, 이는 진실로 나아가고 물러남이 일정함이 없는 때이다.
높은 지위에 가까워서 그 도道를 진전시키려 하면 아랫자리에게 핍박을 받아 도약하여 미칠 바가 아니요, 그 거처를 고요히 하고자 하면 거처가 편안한 것이 아니어서 의심을 품고 유예猶豫하여 감히 뜻을 결정하지 못한다.
그러나 마음 씀이 공정함을 보존하여 나아감이 사사로움에 있지 않고, 의심하고 염려해서 과감함에 잘못되지 않으므로 허물이 없는 것이다.
疏
○정의왈正義曰:‘혹或’은 의심함이요 ‘약躍’은 뛰는 것이니, 구사九四의 양기陽氣가 점점 나아가니, 용체龍體가 날고자 하나 오히려 혹 의심하는 것과 같음을 말한 것이다.
뛰어올라 못에 있는 것은 즉시 날지 않는 것이니, 이는 자연의 상象이니, 성인聖人이 지위가 점점 높아져서 왕의 지위에 나아가고자 하나 유예猶豫하고 의심을 품어 옛날 자리에 남아 있어서 즉시 나아가지 않는 것과 같다.
[无咎] 의심을 품어서 나아가고 물러감을 즉시 과감히 결정하여 높은 지위를 취하지 않았으므로 허물이 없는 것이다.
만약 이익을 탐하고 나아감에 힘써서 때가 아직 행할 수 없는데 행하면, 남들이 함께 따르지 않는다.
예를 들면 주周나라 서백西伯이 안으로는 왕자王者의 마음을 간직하고 밖으로는 제후를 거느려서 주왕紂王을 섬긴 것과 같다.
疏
○정의왈正義曰:[去下體之極]하체下體를 떠나서 상체上體에 들어간 것인데 다만 하체下體의 위에 있기 때문에 ‘거하체지극去下體之極’이라고 말한 것이다.
구삼九三의 주注에 “하체下體의 극極에 처하였다.” 하였으니, 저것은 그대로 구삼九三의 자리에 처하고 있으므로 이와 다른 것이다.
[乾道革之時] ‘혁革’은 변함이니, 구사九四가 하체下體를 떠나 상체上體로 들어갔으니, 이는 건도乾道가 변혁하는 시기인 것이다.
[上不在天 下不在田 中不在人] 《주역周易》의 체體가 삼효三爻와 사효四爻는 사람의 도道(자리)가 되지만, 사람은 가까이 아래(三爻)에 있어서 위(四爻)에 가깝지 않으므로 구사九四에는 “가운데로는 인간에 있지 않다.[中不在人]”라고 하여 구삼九三과 다른 것이다.
[而无定位所處]구사九四가 양효陽爻로서 음陰의 자리에 거하여, 위로는 이미 하늘에 있지 않고 아래로는 다시 땅에 있지 않고 가운데로는 또 사람의 자리에 해당되지 않아서 위와 아래에 모두 일정한 자리로 처한 바가 없는 것이다.
[斯誠進退无常之時] 〈문언전文言傳〉에 “오르내림이 일정함이 없다.”는 것과 “나아가고 물러남에 항상함이 없다.”고 말한 것이 이것이다.
[欲進其道 迫乎在下 非躍所及] 자기의 성인聖人의 도道를 진전하여 왕의 지위에 거하고자 하나 다만 아랫자리에게 핍박을 받아 여러 사람들이 허여하지 않아서, 자기가 홀로 도약하여 미칠 수 있는 바가 아님을 말한 것이다.
[欲靜其居 居非所安 持疑猶豫 未敢決志] 뜻은 그 거처를 고요히 하고자 하나 백성들이 아직 화환禍患을 떠나지 못했으니 모름지기 백성들을 구제해야 한다.
이 때문에 편안히 거처할 수가 없으므로 머뭇거리고 의심하고 유예猶豫해서 감히 그 뜻을 결단하여 구차히 나아가지 않는 것이다.
[用心存公 進不在私] 〈구사九四의 나아감이〉 본래 난亂을 구제하고 환란患亂을 제거하기 위해서요, 자기를 위하는 것이 아니니, 이는 나아감이 사사로움에 있지 않는 것이다.
[疑以爲慮 不謬於果] ‘유謬’는 잘못됨을 이르고 ‘과果’는 과감함을 이르니,
만약 깊이 사려하지 않고 구차히 나아가기를 구하고자 하면 필시 과감한 일에 잘못되어 패망을 불러들일 것이요, 만약 의혹하여 사려思慮하면 과감한 일에 잘못되지 않을 것이다.
잘못되는 것은 송宋 양공襄公이 초楚나라 사람과 싸워서 패망을 불러들인 일과 같은 것이 이것이다.
구오九五는 나는 용龍이 하늘에 있는 것이니, 대인大人을 봄이 이롭다.
注
가지도 않고 뛰지도 않으면서 하늘에 있으니, 나는 것이 아니고 무엇이겠는가.
용龍의 덕德이 하늘에 있으면 대인大人의 길이 형통한 것이다.
지위는 덕德으로 인하여 일어나고 덕德은 지위로 인하여 펴지는데, 지극한 덕德을 가지고 높은 지위에 처하였으니, 만물萬物이 우러러보는 것이 당연하지 않은가.
疏
○정의왈正義曰:구오九五의 양기陽氣가 성하여 하늘에 이름을 말하였다.
그러므로 “나는 용龍이 하늘에 있다.[飛龍在天]”라 한 것이다.
이는 자연의 상象이니, 성인聖人이 용龍의 덕德을 지니고 날아올라 천위天位(天子의 지위)에 거하여, 덕德이 천하에 구비되어서 만물萬物이 우러러보는 바가 되는 것과 같다.
그러므로 천하 사람들이 이 왕위王位에 거한 대인大人을 봄이 이로운 것이다.
疏
○정의왈正義曰:[龍德在天 則大人之路亨]성인聖人이 용龍의 덕德을 지니고 천위天位에 있으면 대인大人의 도로道路가 형통함을 얻는 것과 같음을 말한 것이니, 예를 들면 문왕文王이 구류되어 유리羑里의 옥獄에 있는 것과 같음은, 이는 대인大人의 도로道路가 형통하지 못한 것이다.
[夫位以德興] ‘위位’는 왕위王位를 이르니 성덕聖德의 사람으로서 능히 왕위王位를 일으키는 것이다.
[德以位敍]성덕聖德이 있는 사람이 왕위王位에 거하여야 비로소 성덕聖德을 펼칠 수 있음을 말한 것이니, 공자孔子와 같은 분은 비록 성덕聖德을 지니고 있었으나 그 지위가 없었으니, 이는 덕德이 지위로 인하여 펴지지 못한 것이다.
상구上九는 항극亢極의 용龍이니, 뉘우침이 있으리라.
疏
정의왈正義曰:상구上九는 항양亢陽이 지극히 커서 너무 성하다.
이는 자연의 상象이니, 사람의 일을 가지고 말하면 성인聖人이 용龍의 덕德을 지니고서 위로 천위天位에 거하여 오래되어 항극亢極한 것과 같으니, 물건이 지극하면 뒤집어진다.
순양純陽이 비록 지극하나 아직 대흉大凶에는 이르지 않았고, 다만 뉘우침과 부끄러움이 있을 뿐이다.
〈계사전繫辭傳〉에 이르기를 “뉘우침과 부끄러움은 작은 하자를 말한다.” 하였다.
그러므로 정현鄭玄은 요堯 임금의 말년에 사흉四凶이 조정에 있었던 것을 인용하여 “이 때문에 뉘우침이 있는 것이요, 크게 흉하지는 않은 것이다.”라고 말하였다.
무릇 ‘회悔’란 글자는, 이미 작은 하자이면 ‘회悔[뉘우침]’ 한 글자로만 칭하지 않고 반드시 남은 글자로 배합하였다.
그리하여 그 뉘우침이 아직 남아 있으면 ‘뉘우침이 있다.[有悔]’라고 말하였으니, 마땅히 이 뉘우침이 있음을 말한 것이니, 이 〈상구효上九爻의〉 경문經文이 이것이요, 그 뉘우침이 만약 없어지면 ‘뉘우침이 없어졌다.[悔亡]’고 말하였으니, 그 뉘우침이 이미 없어졌음을 말한 것이니, 항괘恒卦 구이九二에 “뉘우침이 없어졌다.”는 것이 이것이다.
그 뉘우침이 비록 없어졌으나 혹 다시 다른 글자를 취하여 결합하는 경우가 있으니, 복괘復卦 초구初九에 “멀리 가지 아니하여 돌아오면 뉘우침에 이르지 않는다.[不遠復 无祗悔]”는 것과 같은 따위가 이것이다.
다만 성인聖人은 지극하여 시종 이지러짐이 없다.
그러므로 〈문언전文言傳〉에 “진퇴進退와 존망存亡의 이치를 알아서 그 바름을 잃지 않는 자는 오직 성인聖人일 것이다.”라고 한 것이니, 이는 대성인大聖人은 본래 이 뉘우침이 없음을 알 수 있는 것이다.
다만 구오九五의 천위天位를 대성인大聖人으로서 거한 자가 있고, 또한 대성인大聖人이 아니면서 거한 자가 있어서 교만함과 높음이 없을 수 없다.
그러므로 성인聖人이 법法을 만들어서 경계하신 것이다.
용구用九는 여러 용龍을 보는 것이니, 앞장섬이 없으면 길하리라.
注
구九는 하늘의 덕德이니, 능히 하늘의 덕德을 쓰면 이에 여러 용龍의 뜻을 볼 수 있는 것이다.
강건剛健으로서 남의 앞에 거하면 물건(사람)이 더불지 않는 것이요, 유순柔順함으로서 바르지 못함을 하면 간사한 도道이다.
그러므로 건괘乾卦는 길함이 앞장서지 않음에 있고, 곤괘坤卦는 이로움이 영원하고 정고貞固함에 있는 것이다.
疏
○정의왈正義曰:[用九見群龍] 이 한 구句는 건원乾元이 능히 하늘의 덕德을 사용함을 말한 것이니, 구九는 하늘의 덕德이다.
만약 건원乾元을 체행體行해서 성인聖人이 능히 하늘의 덕德을 사용하면 여러 용龍의 뜻을 볼 수 있는 것이다.
여러 용龍의 뜻은 앞장섬이 없는 것을 길함으로 삼는다.
그러므로 “용구用九는 여러 용龍을 보는 것이니, 앞장섬이 없으면 길하리라.” 한 것이다.
疏
○정의왈正義曰:[九 天之德] 여섯 효爻가 모두 구九여서 이에 함께 하늘의 덕德을 이룬 것이요, 이 한 효爻의 구九가 하늘의 덕德이 되는 것이 아님을 말한 것이다.
만물萬物이 자뢰(의뢰)하여 시작하니, 마침내 하늘을 통령統領(통솔)하도다.
구름이 가고 비가 내리니, 품물品物이 유포流布되어 형체形體를 이룬다.
종終과 시始를 크게 밝혀서 여섯 자리가 제때에 이루어지면 때에 따라 여섯 용龍을 타고서 하늘을 제어한다.
건도乾道가 변變함과 화化함이 각각 〈만물萬物의〉 성명性命을 바룬다.
注
‘천天’이란 형체形體의 이름이요, ‘건健’이란 형체形體를 쓰는 것이다.
형체形體라는 것은 물건의 누累이니, 하늘의 형체形體를 가지고 있으면서 능히 길이 보존하고 이지러짐이 없어서 물건의 머리가 되니, 통솔하는 것이 어찌 지극히 굳세지 않겠는가.
그러므로 여섯 자리가 제때를 잃지 않고서 이루어지는 것이다.
오르내림이 일정함이 없어서 때에 따라 운용하여, 처하면(머물러 있으면) 잠긴 용龍을 타고, 나가면 나는 용龍을 탄다.
그러므로 ‘시승육룡時乘六龍’이라 하였으니, 변화變化를 타서 대기大器(하늘)를 제어하는 것이다.
정靜하면 전일專一하고 동動하면 정직하여 대화大和를 잃지 않으니, 어찌 성명性命의 정情을 바루는 것이 아니겠는가.
疏
○정의왈正義曰:부자夫子가 지으신 단사彖辭는 한 괘卦의 뜻을 통론統論하고, 혹은 그 괘卦의 덕德을 말하고, 혹은 그 괘卦의 뜻을 말하고, 혹은 그 괘卦의 이름을 말씀하였다.
그러므로 《주역약례周易略例》에 “단彖이란 무엇인가?
한 괘卦의 체體를 통론하여 그 연유한 바의 주체를 밝힌 것이다.” 한 것이다.
살펴보건대, 저씨褚氏와 장씨莊氏는 모두 “단彖은 결단(단정)함이니, 한 괘卦의 뜻을 단정한 것이니, 이 때문에 단彖이라 이름한 것이다.” 하였다.
다만 이 〈단전彖傳〉은 건乾과 원元‧형亨‧이利‧정貞을 해석한 것이다.
다만 여러 학자들이 말한 이 〈단전彖傳〉은 네 덕德을 나누어 해석하여 뜻이 각각 똑같지 않다.
지금 살펴보건대 장씨莊氏의 설說이 이치에 다소 치밀하니, 이것을 따라 쓰노라.
疏
[大哉乾元 萬物資始 乃統天] 이 세 구句는 건乾과 원元을 총괄하여 해석한 것이다.
‘건乾’은 바로 괘卦의 이름이고, ‘원元’은 바로 건乾의 덕德의 첫 번째이다.
그러므로 원元의 덕德을 가지고 건乾에 짝하여 해석한 것이다.
[大哉乾元]양陽의 기운이 크고 건乾의 체體가 넓고 원대하며, 또 원元의 큼이 만물萬物을 처음 낳기 때문에 “대재건원大哉乾元”이라고 말한 것이다.
[萬物資始]건원乾元이 위대함을 칭찬한 뜻을 해석한 것이니, 만상萬象의 물건이 모두 건乾의 원元을 자뢰하고 취하여 각각 처음으로 태어나 그 마땅함을 잃지 않으니, 이 때문에 ‘대大’라고 칭한 것이다.
[乃統天] 지극히 굳셈으로서 물건의 시작이 되니, 이로써 마침내 하늘을 통령統領한 것이다.
하늘은 바로 형체形體가 있는 물건인데 지극히 굳세기 때문에 능히 형체形體가 있는 것을 통령統領하는 것이니, 이것이 바로 건원乾元의 덕德이다.
[雲行雨施 品物流形] 이 두 구句는 형亨의 덕德을 해석한 것이다.
건乾이 능히 하늘의 덕德을 사용해서 구름 기운을 운행하게 하여 비의 은택恩澤이 베풀어지고 펴지므로 품류品類의 물건이 유포流布되어 형체形體를 이루어서 각각 형통함을 얻어 가려진 바가 없음을 말한 것이니, 이것이 바로 형亨이다.
[大明終始 六位時成] 이 두 구句는 건괘乾卦의 덕德을 총괄하여 맺은 것이다.
건乾의 덕德을 가지고 만물萬物의 시始와 종終의 도道를 크게 밝혀서 처음에는 잠복潛伏하고 끝에는 비약飛躍하여, 잠길 만하면 잠기고 비약할 만하면 비약하니, 이는 시始와 종終의 도道에 밝게 통달한 것이다.
그러므로 여섯 효爻의 자리가 때에 맞춰 이루어진 것이다.
만약 시始와 종終의 도道에 밝지 못하여 마땅히 잠겨야 할 때에 날고 마땅히 날아야 할 때에 잠기며, 마땅히 살려야 할 때에 죽이고 마땅히 죽여야 할 때 살리면, 여섯 자리가 제때에 이루어지지 못할 것이다.
疏
[時乘六龍 以御天] 이 두 구句는 건乾의 원元이 마침내 하늘을 통솔하는 뜻을 거듭 밝힌 것이니, 건乾의 덕德이 때에 맞춰 여섯 효爻의 양기陽氣를 타고서 천체天體를 제어함을 말한 것이다.
여섯 용龍은 바로 여섯 자리의 용龍이니, 거한 바의 위와 아래를 가지고 말하면 여섯 자리라 말하고, 양기陽氣가 오르내림을 가지고 말하면 여섯 용龍이라 말한다.
위 글은 지극히 굳세어 처음 시작하는 것으로 건乾의 덕德을 총괄하여 밝혔다.
그러므로 ‘내통천乃統天’이라고 말하였고, 여기서는 여섯 용龍을 타고서 각각 그 일을 나눔을 밝혔다.
[乾道變化 各正性命] 이 두 구句는 다시 〈만물萬物이〉 건원乾元을 자뢰하여 시작하는 뜻을 거듭 밝힌 것이다.
도道의 체體가 형체形體가 없으나 자연히 물건으로 하여금 개통開通하게 함을 일러 도道라 하니, 건괘乾卦의 덕德이 자연히 물건을 개통開通하게 함을 말하였으므로 ‘건도乾道’라고 말한 것이다.
‘변變’은 후래에 앞의 것을 바꾸어서 점점 옮기고 고치는 것을 변變이라 이르고, ‘화化’는 한 번은 있고 한 번은 없어서 갑자기 바뀌는 것을 화化라 이르니,
건乾의 도道가 물건으로 하여금 점점 변變하게 하는 것과 물건으로 하여금 갑자기 화化하게 하는 것이 각각 능히 물건의 성명性命을 바루고 정定함을 말한 것이다.
‘성性’이란 하늘이 낸 자질이니 강剛과 유柔, 지遲와 속速의 분별과 같고, ‘명命’이란 사람이 받은 것이니 귀貴와 천賤, 요夭와 수壽의 등속이 이것이다.
疏
○주注의 [天也者形之名也]에서 [豈非正性命之情者邪]까지
○정의왈正義曰:[夫形也者 物之累也] 무릇 형체形體를 가지고 있는 물건은 형체形體 때문에 누累가 되니, 이는 생명을 품고 있는 등속이 각각 성명性命을 근심하는 것이다.
그러나 하늘과 땅은 비록 다시 형체形體를 가지고 있지만 항상 능히 길이 보존하고 이지러짐이 없어서 물건의 머리가 되니, 어찌 통령하여 쓰는 것이 지극히 굳셈이 아니겠는가.
만약 지극히 굳셈이 아니면 어찌 하늘의 형체形體로 하여금 누累가 없게 할 수 있겠는가.
그 누累가 없음을 보면 지극히 굳셈을 알 수 있는 것이다.
[乘變化而御大器] ‘승변화乘變化’는 잠긴 용龍과 나는 용龍을 타는 등속이 이것이다.
‘이어대기而御大器’의 경우, ‘대기大器’는 하늘을 이르니 이 잠긴 용龍과 나는 용龍을 타고서 천체天體를 제어하는 것이니, 이 때문에 운동하여 그치지 않는다.
그러므로 ‘이어대기而御大器’라고 말한 것이다.
疏
[靜專動直 不失大和]건乾의 체體가 고요히 멈춰 있을 때에는 전일專一하여 전이轉移하지 않고, 운동할 때에는 정직하여 기울거나 간사하지 않음을 말한 것이다.
그러므로 〈계사상전繫辭上傳〉에 이르기를 “건乾은 그 고요함이 전일專一하고 그 동함이 정직하다.
이 때문에 대大가 생겨난 것이다.” 하였는데, 한강백韓康伯의 주注에 “전專은 전일專一함이요, 직直은 강剛하고 바름이다.” 하였다.
[不失大和] 아래 글에 “대화大和를 보존하고 합한다.”는 것이 이것이다.
[豈非正性命之情者邪]건乾이 능히 물건의 성명性命을 바루고 정定하게 하기 때문에 “어찌 성명性命의 정情을 바루는 것이 아니겠는가.[豈非正性命之情者邪]”라고 한 것이니, 물건의 성명性命이 각각 정情이 있음을 말한 것이요, 하늘의 정情이 아니다.
하늘은 본래 정情이 없으니, 무슨 정情이 있겠는가.
받고 태어난 것을 ‘성性’이라 이르고, 때에 따라 생각하는 것을 ‘정情’이라 이르니, 〈성명性命은〉 의식意識도 없고 정情도 없으나 이제 의식意識이 있음을 근거로 하여 말하였으므로 ‘정情’이라고 말한 것이다.
疏
부자夫子(孔子)가 〈단전彖傳〉을 만든 체體는 한 괘卦의 뜻을 단정하여 밝혀서 체례體例가 똑같지 않다.
장씨莊氏가 말하기를 “모두 12체體가 있다.” 하였으니, 지금 그 대강만을 간략히 열거하고 일마다 번거롭게 말할 수가 없다.
“단彖이라는 것은 첫 번째로 말하면 괘卦를 탄미한 것이니, 이 건괘乾卦의 〈단전彖傳〉에 ‘위대하다, 건乾의 원元이여.’라고 한 것과, 곤괘坤卦의 〈단전彖傳〉에 ‘지극하다, 곤坤의 원元이여.’라고 말한 경우이니, 건乾과 곤坤의 덕德이 크기 때문에 먼저 감탄하여 찬미하고 그런 뒤에 그 뜻을 상세히 말한 것이다.
혹은 먼저 중첩된 글로 뜻을 해석하고 뒤에 감탄한 경우가 있으니, 예괘豫卦의 〈단전彖傳〉에 ‘예豫의 때와 뜻이 크다.’라고 한 따위가 이것이다.
혹은 먼저 괘명卦名의 뜻을 해석하고 뒤에 괘명卦名을 가지고 맺은 경우가 있으니, 동인괘同人卦의 〈단전彖傳〉에 ‘유柔가 정위正位를 얻고 중中을 얻어 건乾에 응하므로 「同人」이라 하였다.’는 것과,
대유괘大有卦의 〈단전彖傳〉에 ‘유柔가 높은 지위를 얻고 크게 중中하여 상하가 응하므로 「大有」라 하였다.’는 예가 이것이다.
혹은 특별히 괘卦의 이름을 중첩하여 괘卦를 칭한 경우가 있으니, 동인괘同人卦의 〈단전彖傳〉에 ‘동인同人에 이르기를 「들에서 사람과 함께하니 형통하다.」 했다.’ 하였는데,
주注에 이르기를 ‘「들에서 사람과 함께하니 형통하다. 대천大川을 건넘이 이롭다.」는 것은, 이효二爻가 능한 바가 아니요 이는 건乾이 행하는 바이다.
그러므로 특별히 「同人曰」이라고 말했다.’ 하였다.”
이러한 등속은 글을 지은 것이 똑같지 않고, 오직 동인괘同人卦의 〈단전彖傳〉에 특별히 ‘동인왈同人曰’을 칭하고 주注에 또다시 별도로 해석한 것이다.
그 나머지 여러 괘卦의 〈단전彖傳〉은 혹 상세하고 혹 간략하고, 혹 먼저하고 혹 뒤에 하였다.
그러므로 위아래가 서로 어긋나서 체례體例가 똑같지 아니하여 혹 자세히 해석하기가 어렵고 혹 간략히 해석하기가 쉽다.
만약 하나하나 나란히 나열하여 간곡하게 절節의 예例를 만들면 이는 성인聖人의 본래 취지가 아니니, 배우는 자들이 공연히 마음을 수고롭게 하고 깨닫지 못할까 염려된다.
그리하여 이제 모두 생략하고 말하지 않았으며, 반드시 그 의의意義가 있으면 괘卦 아래에 자세히 말하였다.
대화大和를 보존하고 합하여야 이에 이정利貞하다.
疏
정의왈正義曰:이 두 구句는 ‘이利‧정貞’을 해석한 것이다.
순양純陽이 강포剛暴하니, 만약 화순和順함이 없으면 물건이 이로움을 얻지 못하고 또 그 바름을 잃는다.
대화大和의 도道를 보존하여 편안히 하고 합하여 모아야 비로소 만물萬物을 이롭게 하고 바르게 할 수 있으니, 만물萬物이 이로움을 얻어서 정정貞正함을 말한 것이다.
만물萬物에서 첫 번째로 나옴에 만국萬國이 모두 편안하다.”
疏
정의왈正義曰:위로부터 이하는 모두 건덕乾德이 자연히 만물萬物을 길러주는 방도를 논하였고, 이 두 구句는 성인聖人이 위로 건덕乾德을 본받아서 만물萬物을 낳고 기름을 말하였다.
이는 성인聖人이 군주가 되어서 여러 물건의 위에 있어 물건 중에 가장 높으니, 머리가 여러 물건의 첫 번째로 나와서 각각 군장君長을 설치하여 만국을 통령하므로 만국이 모두 편안하다는 말이다.
인군人君의 지위가 실로 높으므로 여기에 “만물萬物에서 첫 번째로 나온다.”고 말하였고, 뜻은 모름지기 낮추어야 하므로 앞의 경문經文에 “머리가 없는 것이 길吉하다.”고 말한 것이다.
다만 앞의 글은 건乾이 천덕天德을 사용함을 말하여 그 일이 이미 자세하다.
그러므로 이 글은 성인聖人이 사람의 일을 가지고 건乾을 형상하여 글에 간략하게 한 것이다.
이것을 가지고 말하면 성인聖人 또한 마땅히 만물萬物로 하여금 자뢰하여 시작하게 하고 천위天位에서 통령統領하여 구름이 가고 비가 내리게 하여 은택을 펴서 여러 백성과 물건들로 하여금 각각 그 형체를 유포流布하게 해야 한다.
또 성쇠盛衰와 종시終始의 도道에 크게 밝아서 천지天地와 사시四時, 귀천貴賤과 고하高下로 하여금 각각 때에 따라 이루어지게 해야 하고, 또 여러 현자賢者들을 임용하여 성인聖人의 교화를 받들어 행해서 만물萬物로 하여금 각각 성명性命을 바루게 하여야 하니, 이는 성인聖人이 건乾을 형상하여 교화를 세우는 것이다.
“하늘의 운행이 굳세니, 군자君子가 이것을 응용하여 스스로 힘쓰고 쉬지 않는다.
疏
○정의왈正義曰:이는 대상大象이니, 십익十翼 가운데 3번째 익翼이니, 한 괘卦를 총괄하여 형상하였다.
다만 만물萬物의 체體가 자연히 각각의 형상이 있는데 성인聖人이 괘卦를 만들어서 만물萬物의 상象을 그렸으니, 지금 부자夫子가 이 괘卦가 형상한 바를 해석하였다.
하늘은 순수한 강함이 있으므로 굳셈의 쓰임이 있으니, 이제 순양純陽의 괘卦를 그어서 여기에 견주었다.
〈상전象傳〉이 〈단전彖傳〉의 뒤에 있는 것은 〈단전彖傳〉이 자세하고 〈상전象傳〉이 소략하기 때문이다.
그러므로 반을 넘는 뜻과 생각이 〈단전彖傳〉에 있고 〈상전象傳〉에 있지 않은 것이니, 이유가 있어 그러한 것이다.
疏
[天行健] ‘행行’은 운동運動(運行)을 일컫고, ‘건健’은 강하고 건장함의 명칭이니, 건乾은 바로 여러 굳셈의 훈訓이다.
지금 대상大象에 다른 건健을 취하여 해석하지 않고 오직 천天만을 말한 것은 만물萬物이 건장한 것은 모두 쇠하고 태만함이 있으나 오직 하늘의 운동은 하루에 한 도수度數를 지나가니, 운행함이 혼전混全하여 일찍이 쉬거나 그치지 않는다.
건健은 건乾의 훈訓이고, 순順은 곤坤의 훈訓이다.
곤괘坤卦에서는 “지세地勢가 곤坤이다.”라고 말하였으나, 여기서는 “하늘의 운행이 건乾이다.”라고 말하지 않고 ‘건健’이라고 말한 것은, 유표劉表가 말하기를 “그 이름을 자세히 한 것이다.” 하였으니, 그렇다면 천天은 체體의 이름이고 건乾은 용用의 이름이고 건健은 바로 그 훈訓이다.
세 가지가 함께 나타나서 가장 자세하니, 건乾을 높이기를 다른 괘卦와 달리한 것이다.
疏
무릇 64괘卦에 상象을 말한 것이 똑같지 않아서 혹은 상象이 연유한 바를 총괄하여 들고 상象의 실체實體를 논하지 않았으며, 또 6효爻를 모두 포괄하고 상체上體와 하체下體를 드러내지 않았으니, 건괘乾卦와 곤괘坤卦 두 괘卦가 이것이다.
혹은 곧바로 위아래 두 체體를 든 경우는, “구름과 우레가 둔屯䷂”이라는 것과, “하늘과 땅이 사귐이 태泰䷊”라는 것과, “하늘과 땅이 사귀지 않음이 비否䷋”라는 것과, “우레와 번개가 서합噬嗑䷔”이라는 것과, “우레와 바람이 항恒䷟”이라는 것과, “우레와 비가 일어남이 해解䷧”라는 것과, “바람과 우레가 익益䷩”이라는 것과, “우레와 번개가 모두 이르름이 풍豐䷶”이라는 것과, “거듭된 우레가 진震䷲”이라는 것과, “바람을 따름이 손巽䷸”이라는 것과, “거듭된 감坎[習坎]이 감坎䷜”이라는 것과, “밝음이 두 개가 일어남이 이離䷝”라는 것과, “산을 겸함이 간艮䷳”이라는 것과, “못이 붙어있음이 태兌䷹”라는 경우와 같은 것이니, 무릇 이 14괘卦는 모두 두 체體를 다 들어서 뜻을 맺은 것이다.
두 체體를 취하여 함께 이루고 혹은 곧바로 두 체體를 들어서 상하로 상대한 경우가 있으니, “하늘과 물이 어긋나게 가는 것이 송訟䷅”이라는 것과, “위는 하늘이고 아래는 못인 것이 이履䷉”라는 것과, “하늘과 불이 동인同人䷌”이라는 것과, “위는 불이고 아래는 못인 것이 규睽䷥”라는 것이니, 무릇 이 네 괘卦는 혹 두 체體가 서로 어김을 취하였고, 혹은 두 체體가 서로 합함을 취하였고, 혹은 위아래 두 체體가 서로 받들어 괘卦가 된 것을 취하였다.
그러므로 두 체體를 상대하여 함께 말한 것이다.
疏
비록 위아래 두 체體가 함께 한 괘卦를 이루었으나 혹은 곧바로 상체上體를 가리켜 글로 삼은 것은, “구름이 하늘로 올라가는 것이 수需䷄”라는 것과, “바람이 하늘 위로 다니는 것이 소축小畜䷈”이라는 것과, 불이 하늘 위에 있는 것이 대유大有䷍”라는 것과, “우레가 땅에서 나와 분발奮發하는 것이 예豫䷏”라는 것과, “바람이 지상地上으로 다니는 것이 관觀䷓”이라는 것과, “산이 땅에 붙어 있는 것이 박剝䷖”이라는 것과, “못이 나무를 멸하는(없애는) 것이 대과大過䷛”라는 것과, “우레가 하늘 위에 있는 것이 대장大壯䷡”이라는 것과, “밝음이 지상에 나오는 것이 진晉䷢”이라는 것과, “바람이 불에서 나오는 것이 가인家人䷤”이라는 것과, “못이 하늘로 올라가는 것이 쾌夬䷪”라는 것과, “못이 땅으로 올라가는 것이 췌萃䷬”라는 것과, “바람이 물 위로 다니는 것이 환渙䷺”이라는 것과, “물이 불 위에 있는 것이 기제旣濟䷾”라는 것과, “불이 물 위에 있는 것이 미제未濟䷿”라는 것과 같은 것이니, 무릇 이 15괘卦는 모두 먼저 위의 상象을 들고 아래를 이었으니, 또한 뜻이 위의 상象을 취하여 괘卦의 이름을 세운 것이다.
또한 비록 뜻이 위의 상象에 있으나 먼저 아래의 상象을 들어서 위의 상象을 드러낸 경우가 있으니, “땅 위에 물이 있는 것이 비比䷇”라는 것과, “못 위에 땅이 있는 것이 임臨䷒”이라는 것과, “산 위에 못이 있는 것이 함咸䷞”이라는 것과, “산 위에 불이 있는 것이 여旅䷷”라는 것과, “나무 위에 물이 있는 것이 정井䷯”이라는 것과, “나무 위에 불이 있는 것이 정鼎䷱”이라는 것과, “산 위에 나무가 있는 것이 점漸䷴”이라는 것과, “못 위에 우레가 있는 것이 귀매歸妹䷵”라는 것과, “산 위에 물이 있는 것이 건蹇䷦”이라는 것과, “못 위에 물이 있는 것이 절節䷻”이라는 것과, “못 위에 바람이 있는 것이 중부中孚䷼”라는 것과, “산 위에 우레가 있는 것이 소과小過䷽”라는 것이니, 무릇 이 12괘卦는 모두 먼저 아래의 상象을 들어서 위의 상象을 드러내었으니, 또한 뜻이 위의 상象을 취하였으나 아래의 상象을 함께하여 괘卦를 이룬 것이다.
疏
혹 먼저 위의 상象을 들어서 아래의 상象을 드러내었으나 뜻은 아래의 상象을 취하여 괘卦의 뜻을 이룬 것은, “산 아래 샘물이 나오는 것이 몽蒙䷃”이라는 것과, “땅 가운데 물이 있는 것이 사師䷆”라는 것과, “산 아래 바람이 있는 것이 고蠱䷑”라는 것과, “산 아래 불이 있는 것이 분賁䷕”라는 것과, “하늘 아래 우레가 다니는 것이 무망无妄䷘”이라는 것과, “산 아래 우레가 있는 것이 이頤䷚”라는 것과, “하늘 아래 산이 있는 것이 둔遯䷠”이라는 것과, “산 아래 못이 있는 것이 손損䷨”이라는 것과, “하늘 아래 바람이 있는 것이 구姤䷫”라는 것과, “땅 가운데 산이 있는 것이 겸謙䷎”이라는 것과, “못 가운데 우레가 있는 것이 수隨䷐”라는 것과, “땅 가운데 나무가 생기는 것이 승升䷭”이라는 것과, “못 가운데 불이 있는 것이 혁革䷰”이라는 것이니, 무릇 이 13괘卦는 모두 먼저 위의 체體를 들고 뒤에 아래 체體를 밝힌 것인데, 위의 체體가 하늘이면 하늘과 산인 경우에는 하下라고 칭하고, 만약 위의 체體가 땅이면 땅과 못인 경우에는 중中이라고 칭하였다.
혹은 비록 먼저 아래의 상象을 들었으나 위의 상象의 아래에 있는 것처럼 칭한 것이 있으니, “우레가 땅 가운데 있는 것이 복復䷗”이라는 것과, “하늘이 산 가운데 있는 것이 대축大畜䷙”이라는 것과, “밝음이 땅속으로 들어가는 것이 명이明夷䷣”라는 것과, “못에 물이 없는 것이 곤困䷮”이라는 것과 같으니, 이는 먼저 아래의 상象을 들었으나 위의 상象의 아래에 있는 것처럼 칭한 것이니, 또한 뜻이 아래의 상象을 취하여 괘卦를 세운 것이다.
논한 바의 예는 모두 크게 판별하여 말한 것이요, 그 사이의 자세한 내용은 각각 괘卦 아래에 따로 자세히 말하였다.
疏
선유先儒가 말하기를 “이러한 〈상전象傳〉의 말은 혹 실상實象이 있고 혹은 가상假象이 있다.” 하였다.
실상實象이라는 것은 “땅 위에 물이 있는 것이 비比䷇”라는 것과, “땅 가운데 나무가 나는 것이 승升䷭”이라는 것과 같은 것이니, 이는 헛된 것이 아니므로 ‘실實’이라고 말하였다.
가상假象이라는 것은 “하늘이 산 가운데 있다.”는 것과, “바람이 불에서 나왔다.”는 것과 같은 것이니, 이와 같은 따위는 실제로 이러한 상象이 없으나 빌려서 뜻을 삼았으므로 ‘가假’라고 말한 것이다.
비록 실상實象이 있고 가상假象이 있으나 모두 뜻을 가지고 사람에게 보여주었으니, 총괄하여 ‘상象’이라 말한 것이다.
疏
[天行健] 천체의 운행이 밤낮으로 쉬지 아니하여 두루 하면 다시 시작해서 한때도 이지러지거나 물러남이 없음을 말하였다.
그러므로 “하늘의 운행이 굳세다.[天行健]”라고 말한 것이다.
[君子以自强不息] 이는 사람의 일로서 하늘의 운행을 본받음을 가지고 말한 것이니, 군자君子인 사람이 이 괘상卦象을 응용하여 스스로 힘쓰고 노력하여 그침이 있지 않는 것이다.
疏
[君子] 높은 지위에 군림하여 아래 백성들을 자식처럼 사랑함을 말한 것이다.
천자天子와 제후諸侯를 통하고 공경公卿과 대부大夫 중에 채읍采邑(食邑)이 있는 자를 겸하였으니, 무릇 군자君子라고 말한 것은 뜻이 모두 그러하다.
다만 지위가 높은 자는 괘卦를 형상한 뜻이 많고, 지위가 낮은 자는 괘卦를 형상한 뜻이 적다.
다만 모름지기 자신의 힘을 헤아려 행해서 각각 그 괘卦를 본받아야 하니, 이 때문에 여러 괘卦에 모두 군자君子라고 칭한 것이다.
만약 괘체卦體의 뜻이 오직 천자天子에게만 시행되어서 아래에 있는 자를 겸하여 포괄하지 않은 경우에는 ‘선왕先王’이라고 말하였으니,
비괘比卦에 “선왕先王이 보고서 만국을 세운다.”는 것과, 예괘豫卦에 “선왕先王이 보고서 음악을 만들어 덕德을 높인다.”는 것과, 관괘觀卦에 “선왕先王이 보고서 지방을 살펴보고 백성을 살펴보아 가르침을 베푼다.”는 것과,
서합괘噬嗑卦에 “선왕先王이 보고서 형벌을 밝히고 법을 신칙한다.”는 것과, 복괘復卦에 “선왕先王이 보고서 동짓날에 관문을 닫는다.”는 것과, 무망괘无妄卦에 “선왕先王이 보고서 크게 때를 대하여 만물萬物을 기른다.”는 것과,
환괘渙卦에 “선왕先王이 보고서 상제에게 제향하고 사당을 세운다.”는 것과, 태괘泰卦에 “임금[后]이 보고서 천지의 도道를 재성財成한다.”는 것과, 구괘姤卦에 “임금이 보고서 명命을 베풀어 사방을 가르친다.”는 것과 같은 것이다.
‘후后’라고 칭한 것은 제후諸侯를 겸한 것이고, 이 밖의 괘卦에는 모두 군자君子라고 칭하였다.
‘잠긴 용龍이니 쓰지 말라.’는 것은 양陽이 아래에 있기 때문이요, ‘나타난 용龍이 밭에 있다.’는 것은 덕德의 베풂이 넓은 것이요, ‘종일토록 부지런히 힘쓴다.’는 것은 반복反復함이 도道에 맞는 것이다.
注
위를 가지고 말하면 교만하지 않고 아래를 가지고 말하면 근심하지 않으니, 반反과 복復이 모두 도道인 것이다.
疏
○정의왈正義曰:이로부터 이하로 ‘영불가구盈不可久’까지는 바로 부자夫子가 여섯 효爻를 해석한 〈상전象傳〉의 말이니, 이를 소상小象이라 이른다.
그러므로 “양陽이 아래에 있다.”고 말한 것이다.
경經에서는 용龍을 말하였는데 〈상전象傳〉에서는 양陽이라고 말한 것은, 경문經文에 용龍이라고 말한 것이 바로 양기陽氣임을 밝힌 것이다.
이는 한 효爻의 상象이니, 오로지 하늘의 자연의 기氣를 밝힌 것이다.
[見龍在田 德施普] 이는 사람의 일을 가지고 말한 것이다.
용龍의 덕德이 밭에 있음을 사용함은 성인聖人이 이미 나와 세상에 있어서 도덕道德과 은혜恩惠의 베풂이 넓고 두루 함과 같으니, 초구初九의 ‘쓰지 말라’는 것에 비하면 이는 두루 하고 넓은 것이나 만약 구오九五에 비하면 아직도 좁다.
[終日乾乾 反復道] 이 또한 사람의 일을 가지고 말한 것이다.
군자君子가 종일토록 부지런히 힘써서 스스로 힘쓰고 쉬지 않으므로 ‘반反’과 ‘복覆’이 모두 그 도道에 부합하는 것이다.
‘반反’은 나아갔다가 돌아와서 위에 있음을 이르니, 하괘下卦의 위에 처하여 능히 교만하고 안일하지 않는 이것은 반反이 능히 도道에 합한 것이다.
‘복覆’은 위로부터 거꾸로 내려옴을 이르니, 상괘上卦의 아래에 거하여 능히 근심하고 두려워하지 않는 이것은 복覆이 능히 도道에 합한 것이다.
‘혹 뛰어올라 연못에 있다.’는 것은 나아감에 허물이 없는 것이요, ‘나는 용龍이 하늘에 있다.’는 것은 대인大人의 함이요, ‘항극亢極의 용龍이니 뉘우침이 있다.’는 것은 가득함을 오래해서는 안 되는 것이다.”
疏
○정의왈正義曰:[或躍在淵 進无咎] 이 또한 사람의 일을 가지고 말한 것이다.
나아가면 뛰어서 위에 있고 물러나면 깊이 숨어 연못 속에 있으니, 성인聖人이 의혹하면서 귀한 지위에 있는 것과 같다.
마음에 나아가고자 하는 것은 뜻이 공정함에 있고, 사사로움을 하려는 것이 아니다.
[飛龍在天 大人造] 이 또한 사람의 일을 가지고 말한 것이다.
‘비룡재천飛龍在天’은 성인聖人이 왕의 지위에 있는 것과 같다.
‘조造’는 함이니, 오직 대인大人이라야 능히 이 일을 하여 성취하는 것이다.
요신姚信과 육적陸績의 무리는 모두 ‘조造’자를 ‘조지造至(나아감)의 조造’라 하였다.
이제 살펴보건대 〈상전象傳〉의 글은 모두 상하가 운韻으로 되어 있으니, 요신姚信의 뜻은 그 독음讀音이 잘못되었다.
[亢龍有悔 盈不可久] 이 또한 사람의 일을 가지고 말한 것이다.
구오九五는 바로 가득함이니, 가득하고 그치지 않으면 상구上九에 이르러서 자리가 항극亢極을 이루게 되니, 뉘우침과 한恨이 있는 것이다.
그러므로 “가득함을 오래해서는 안 된다.[盈不可久]”라고 말한 것이다.
다만 이 여섯 효爻의 〈상전象傳〉의 글의 첫 번째 효爻에서 “양陽이 아래에 있다.”고 말한 것은 자연의 상象을 들어서 그 나머지 다섯 효爻가 모두 자연의 상象이 있음을 밝혔으니, 처음을 들어서 끝을 나타낸 것이요,
다섯 효爻는 모두 사람의 일을 논하였으니, 초효初爻에도 사람의 일이 있음을 알 수 있는바, 호문互文으로 서로 통한다.
용구用九는 하늘의 덕德은 머리가 되어서는 안 되는 것이다.
疏
정의왈正義曰:이 한 절節은 경經의 용구用九를 해석한 〈상전象傳〉의 글이니, 경經에 ‘용구用九’라고 칭하였으므로 〈상전象傳〉에 다시 중첩하여 ‘용구用九’라고 말한 것이다.
[天德不可爲首] 이는 부자夫子가 해석한 글이다.
구九는 하늘의 덕德이니, 하늘의 덕德은 강건하니 마땅히 유순함과 온화함으로써 아랫사람을 접대해야 하고, 다시 높음과 강함을 품어서 물건의 머리가 되어서는 안 된다.
그러므로 “하늘의 덕德은 머리가 되어서는 안 된다.[天德不可爲首]”라고 말한 것이다.
원元은 선善의 으뜸이요, 형亨은 아름다움의 모임이요, 이利는 의義의 화합함이요, 정貞은 일의 근간根幹이다.
군자君子가 인仁을 체행하는 것이 충분히 사람의 우두머리가 될 수 있으며, 모임을 아름답게 하는 것이 예禮에 합할 수 있으며, 물건을 이롭게 하는 것이 의義에 화합할 수 있으며, 정고貞固함이 일의 근간根幹이 될 수 있으니, 군자君子는 이 네 가지 덕德을 행하는 자이다.
그러므로 ‘건乾은 원元‧형亨‧이利‧정貞’이라고 말한 것이다.
疏
○정의왈正義曰:[文言] 이는 부자夫子의 7번째 익翼이다.
“건乾과 곤坤은 그 역易의 문호門戶일 것이다.” 하였으니, 그 나머지 여러 괘卦와 효爻는 모두 건乾‧곤坤으로부터 나와서 건乾‧곤坤의 의리가 심오하기 때문에 특별히 〈문언전文言傳〉을 지어서 해석한 것이다.
장씨莊氏는 “문文은 문식文飾을 이르니, 건乾과 곤坤의 덕德이 크기 때문에 특별히 문식文飾하여 〈문언전文言傳〉을 만들었다.” 하였으나,
지금 “부자夫子가 다만 《주역周易》의 도道를 찬명贊明하여 의리를 거듭 말씀했다.”고 한다면, 이는 문식文飾하여 화려한 채색을 한 것이 아니니, 마땅히 “건乾‧곤坤 두 괘卦의 경문經文을 해석하였으므로 문언文言이라 칭하였다.”라고 하여야 할 것이다.
疏
이로부터 ‘원형이정元亨利貞’까지는 건乾의 네 가지 덕德을 밝힌 것이니 첫 번째 절節이 되고,
‘초구왈初九曰 잠룡물용潛龍勿用’으로부터 ‘동이유회動而有悔’까지는 여섯 효爻의 뜻을 밝힌 것이니 두 번째 절節이 되고,
‘잠룡물용潛龍勿用’으로부터 아래로 ‘천하치야天下治也’까지는 여섯 효爻의 인사人事를 논한 것이니 세 번째 절節이 되고,
‘잠룡물용潛龍勿用 양기잠장陽氣潛藏’으로부터 ‘내견천칙乃見天則’까지는 여섯 효爻의 자연스러운 기氣를 논한 것이니 네 번째 절節이 되고,
‘건원자乾元者’로부터 ‘천하평야天下平也’까지의 이 한 절節은 건원乾元의 네 가지 덕德의 뜻을 다시 말하였으니 다섯 번째 절節이 되고,
‘군자이성덕위행君子以成德爲行’으로부터 ‘기유성인호其唯聖人乎’까지의 이 한 절節은 다시 여섯 효爻의 뜻을 넓혀 밝힌 것이니 여섯 번째 절節이 되는데, 이제 각각 글에 따라 해석한다.
疏
이는 첫 번째 절節이니, 건乾의 네 가지 덕德을 논한 것인데, ‘원자선지장야元者善之長也’ 이 이하는 건乾의 네 가지 덕德을 논한 것이다.
다만 건乾의 체體는 바로 하늘의 용用이니, 무릇 천지의 운행과 조화가 자연히 그러하여 무無로 인해 유有가 생겨나서 함이 없이 자연히 그러하다.
하늘은 본래 마음이 없으니 어찌 원형이정元亨利貞의 덕德을 만들 것이며, 하늘은 본래 이름이 없으니 어찌 원형이정元亨利貞의 이름을 만들겠는가.
다만 성인聖人이 사람의 일을 가지고 여기에 의탁해서 “이 자연의 공功이 하늘의 네 가지 덕德이 된다.” 하여, 아래에 가르침을 드리워서 후대의 성인聖人들로 하여금 하늘이 하는 바를 본받게 하였다.
그러므로 하늘의 네 가지 덕德을 세워서 가르침을 베푼 것이다.
疏
장씨莊氏가 말하기를 “첫 번째 절節의 ‘원자선지장元者善之長’은, 하늘의 본체와 성性이 만물萬物을 낳고 기르는데, 선善의 큰 것이 만물을 생육시키는 것보다 더 좋은 것이 없으니, ‘원元’은 만물을 생육시키는 종주宗主가 되므로 ‘원자선지장元者善之長’이라고 말한 것임을 이른다.
‘형자가지회亨者嘉之會’는, ‘가嘉’는 아름다움이니 ‘하늘이 만물萬物을 통창通暢하게 하여 물건의 아름다움을 모이게 하였으므로 ‘가지회嘉之會’라 한 것임을 말한다.
‘이자의지화利者義之和’는, 하늘이 능히 여러 물건을 이롭게 하여 물건으로 하여금 각각 그 마땅함을 얻어 화합하고 함께하게 함을 말한 것이다.
‘정자사지간貞者事之幹’은, 하늘이 능히 중정中正한 기운을 가지고 만물萬物을 성취시켜 물건으로 하여금 모두 근간根幹이 되어 이루게 함을 말한 것이다.” 하였다.
장씨莊氏의 뜻은 이 네 구句를 가지고 하늘의 덕德을 밝혀 사시四時에 배합한 것이다.
疏
원元은 물건의 시작이고 철에는 봄에 배합하니, 봄은 발생發生(생명을 발함)이라고 한다.
그러므로 아래에 “인仁을 체행한다.” 하였으니, 인仁은 바로 봄이다.
형亨은 만물萬物을 통창通暢하게 하고 철에는 여름에 배합한다.
그러므로 아래에 “예禮에 합한다.” 하였으니, 예禮는 바로 여름이다.
이利는 의義에 화합함이 되고 철에는 가을에 배합하니, 가을에는 이미 물건이 이루어져서 각각 그 마땅함에 합한다.
정貞은 일의 근간根幹이 되고 철에는 겨울에 배합하니, 겨울에는 이미 거두어 갈무리해서 일을 모두 주간主幹하여 끝낸다.
오행五行의 기운에 오직 토土가 없으니, 토土는 사계四季에 나누어 왕성하여, 〈목木‧화火‧금金‧수水〉 네 기운의 운행이 토土가 아니면 실리지 못한다.
疏
[君子體仁 足以長人] 이로부터 이하는 하늘이 이 네 가지 덕德을 행함을 사람이 본받음을 밝힌 것이니, 군자君子인 사람이 체體가 인仁의 도道를 포괄하여 널리 사랑하고 만물을 생육시키면 충분히 사람에게 높은 우두머리가 될 수 있음을 말한 것이다.
인仁은 곧 선善이니, 인덕仁德을 행한다고 말한 것은 하늘의 원덕元德을 본받는 것이다.
[嘉會 足以合禮]군자君子가 능히 만물萬物로 하여금 모임을 아름답게 하면 충분히 예禮에 배합됨을 말한 것이니, 하늘의 형亨을 본받음을 말한 것이다.
[利物 足以和義]군자君子가 만물萬物을 이롭게 하여 물건으로 하여금 각각 그 마땅함을 얻게 하면 충분히 의義에 화합함을 말한 것이니, 하늘의 이利를 본받는 것이다.
[貞固 足以幹事]군자君子가 능히 견고하고 정정貞正하여 물건으로 하여금 이루어지게 해서 일마다 모두 근간根幹이 되어 이루어지게 함을 말한 것이니, 이는 하늘의 정貞을 본받는 것이다.
왕의 일에 베푸는 것을 가지고 말하면, 원元은 인仁이고 형亨은 예禮이고 이利는 의義이고 정貞은 신信이다.
지智를 논하지 않은 것은 이 네 가지 일을 행할 적에 모두 모름지기 지혜智慧에 의뢰하기 때문이다.
또 《건착도乾鑿度》에 이르기를 “수水와 토土 두 행行은 신信과 지智를 겸하였다.” 하였으니, 이 때문에 생략하고 말하지 않은 것이다.
疏
[君子行此四德者 故曰乾元亨利貞]군자君子인 사람은 마땅히 네 가지의 덕德을 행하여야 한다.
그러므로 문왕文王이 《역易》을 지을 적에 원元‧형亨‧이利‧정貞의 덕德을 말씀하여 군자君子로 하여금 본받게 하고자 한 것이다.
다만 이 네 가지 덕德을 행하면 하늘과 공功이 같게 되니, 성인聖人이 아니면 할 수 없는데 오직 군자君子라고만 말한 것은, 다만 《역易》의 도道가 넓게 법을 드리웠으니, 만약 성인聖人에 국한하면 나머지 아래에 미치지 못할까 염려되어서이다.
그러므로 총괄하여 군자君子라고 말해서 제후諸侯와 공경公卿의 무리들로 하여금 모두 다 행하게 한 것이다.
다만 성인聖人은 이 네 가지 덕德을 행하여 능히 그 극極을 다하고, 군자君子는 이 네 가지 덕德을 행하나 각기 그 힘을 헤아려 행하여 많고 적음이 각기 그 분수가 있는 것이다.
다만 건괘乾卦는 하늘을 형상하였으므로 이 네 가지 덕德을 모두 하늘의 덕德이라 한 것이다.
疏
다만 음陰과 양陽이 모여서 두 상象이 서로 이루어지면 모두 덕德이 있는 것이요, 비단 건乾의 한 괘卦만 그런 것이 아니다.
이 때문에 여러 괘卦의 가운데에도 네 가지 덕德이 있으나 다만 나머지 괘卦의 네 가지 덕德은 건乾보다 못하다.
그러므로 건괘乾卦에만 곧바로 네 가지 덕德을 말하여 다시 말한 바가 없으니, 이는 건乾의 네 가지 덕德이 포함하지 않는 바가 없음을 나타내고자 한 것이다.
그 나머지 괘卦는 네 가지 덕德의 아래에 다시 다른 일이 있으니, 네 가지 덕德이 좁고 부족하기 때문에 다른 일을 가지고 단 것인바, 바로 곤괘坤卦의 따위가 이것이다.
또한 네 가지 덕德 위에 즉시 나머지 일을 논한 경우가 있으니, 혁괘革卦에 “하루가 끝나야 비로소 믿으니, 원형이정元亨利貞하여 후회가 없다.”는 것과 같으니, 믿은 뒤에 원형이정元亨利貞이 있음으로 말미암아야 비로소 후회가 없는 것이다.
疏
네 가지 덕德을 가지고 있는 것은 바로 건乾, 곤坤, 둔屯, 임臨, 수隨, 무망无妄, 혁革의 7괘卦가 이것이다.
또한 그 괘卦가 선善하지 않으나 네 가지 덕德을 가지고 있는 경우가 있으니, 그 괘卦가 흉하기 때문에 네 가지 덕德을 가지고 있어야 비로소 괜찮은 것이다.
그러므로 수괘隨卦에 “원형이정元亨利貞이 있어야 비로소 허물이 없을 수 있다.”는 것이 이것이니, 네 가지 덕德을 갖추고 있는 것이 그 괘卦가 반드시 선善하지만은 않은 것이다.
疏
또한 세 가지 덕德을 가지고 있는 경우가 있으니, 바로 이離, 함咸, 췌萃, 태兌, 환渙, 소과小過의 모두 6괘卦는 세 가지 덕德 가운데 나아가서 글을 만든 것이 똑같지 아니하여, 혹은 세 가지 덕德을 위에서 총괄하여 말하고 다시 나머지 일을 아래에서 별도로 말하였으니, 예컨대 이離와 함咸과 같은 등속이 이것이다.
세 가지 덕德 가운데 나아가서 위아래가 똑같지 않으니, “이離는 이정利貞하여야 형亨하다.”라고 말한 것은, 이정利貞을 말미암아야 비로소 형통함을 얻을 수 있다는 것이다.
또한 먼저 형亨을 말하고 다시 나머지 일을 말하여 비로소 이정利貞하다고 말한 경우가 있으니, 이는 나머지 일이 있어야 비로소 이정利貞할 수 있기 때문이다.
疏
두 가지 덕德을 가지고 있는 것은 대유大有, 고蠱, 점漸, 대축大畜, 승升, 곤困, 중부中孚의 모두 7괘卦이니, 이 두 가지 덕德은 혹은 일에서 말하고 혹은 일 뒤에서 말하였으니, 이는 뒤에 일이 있어야 비로소 두 가지 덕德을 이룰 수 있기 때문이다.
疏
또한 한 가지 덕德만을 가지고 있는 것이 있으니, 몽蒙, 사師, 소축小畜, 이履, 태泰, 겸謙, 서합噬嗑, 분賁, 복復, 대과大過, 진震, 풍豐, 절節, 기제旣濟, 미제未濟와 같은 모두 15괘卦는 다 한 가지 덕德만 있으니, 모두 형亨이다.
혹은 대부분 일에서 말하였고 혹은 일 뒤에서 말하였으니, 이괘履卦에 “범의 꼬리를 밟더라도 사람을 물지 않으니, 형통하다.”는 것은 일이 있음을 말미암아야 비로소 형통할 수 있는 것이다.
疏
앞에서 논한 덕德은 모두 경문經文에서 두드러지게 특별히 덕德을 밝힌 경우라야 비로소 말한 것이다.
일을 인해 서로 이어서 덕德을 말한 것은 세지(들지) 않았으니, 예컨대 수괘需卦에 “수需는 믿음이 있어서 광명하여 형통하고 정貞하여 길吉하다.”고 한 것은 비록 형亨과 정貞의 두 가지 덕德을 가지고 있으나 일을 이어서 글을 썼으므로 세지 않았다.
둔괘遯卦에 “형통하니 조금 정貞함이 이利롭다.”는 것은 비록 세 가지 덕德을 가지고 있으나 또한 세지 않았다.
여괘旅卦에 “여旅는 조금 형통하니 여旅가 정貞하여 길吉하다.”고 한 것은 비록 형亨과 정貞의 두 가지 덕德을 가지고 있으나 또한 다른 일을 이은 것이어서 세지 않았다.
비괘比卦에 “근원하여 점치되 원元‧영永‧정貞하면 허물이 없다.”는 것과, 비괘否卦에 “비否는 인도人道가 아니니, 군자君子의 정貞에 이롭지 않다.”는 것은 비록 ‘정貞’자가 있으나, 이 또한 다른 글을 이어서 말하였고, 또 본래 괘卦의 덕德이 아니므로 또한 세지 않았다.
동인괘同人卦에 “들에서 남과 함께하니 형통하다.”는 것과, 감괘坎卦에 “믿음이 있어서 마음 때문에 형통하다.”는 것과, 손괘損卦에 “허물이 없어서 정貞할 수 있다.”는 것, 이러한 따위는 비록 한 가지 덕德을 가지고 있으나 모두 일을 이어서 말하였으므로 또한 세지 않았다.
이렇게 한 이유는 다만 《역易》은 만 가지 상象을 포함하여 일의 뜻이 똑같지 않으니, 때에 따라 곡진히 변하여 일정한 요체要諦로 삼을 수 없기 때문이다.
그것에 의의意義가 있으면 각각 괘卦 아래에서 자세히 말하였다.
疏
또한 괘卦는 선善한데 덕德이 적은 것이 있으니, 태泰와 겸謙, 복復과 같은 따위는 비록 괘卦가 선善하나 오직 한 가지 덕德뿐이다.
또한 전혀 덕德이 없는 경우가 있으니, 예豫, 관觀, 박剝, 진晉, 건蹇, 해解, 쾌夬, 구姤, 정井, 간艮, 귀매歸妹와 같은 모두 11괘卦이다.
대체로 오직 흉한 괘卦에 덕德이 없는 경우가 있으니, 박剝, 건蹇, 쾌夬, 구姤와 같은 것이 이것이요, 또한 괘卦는 선善하나 덕德이 없는 경우도 있으니, 진晉, 해解의 등속이 이것이니, 각각 괘卦 아래에 자세히 말하였다.
疏
무릇 네 가지 덕德은, 형亨과 정貞은 그 덕德이 따로 행하고, 원元과 이利는 다른 일에 배합하여 이어진다.
그 뜻은 원元을 형亨에 배합하고 이利를 정貞에 배합하였으니, 비록 다른 일에 배합하여 글을 썼으나 원元은 원대元大함이요 시수始首(처음)이며, 이利는 이익이요 화합이니, 마땅히 나누어 말해야 하면 각각 이 한 가지 덕德이나, 오직 형亨과 정貞에 배합하면 모두 네 가지 덕德이 된다.
원元이 비록 형亨에 배합되나 또한 다른 일에도 배합된다.
그러므로 비괘比卦에서 “원元‧영永‧정貞하다.”고 말한 것과, 곤괘坤卦 육오六五에서 “황색 치마이니, 원길元吉하다.”는 것이 이것이다.
이利 또한 비단 이정利貞만이 아니요, 또한 이로운 바의 다른 일이 많으니, 예컨대 ‘이섭대천利涉大川’과 ‘이건후利建侯’와 ‘이견대인利見大人’과 ‘이군자정利君子貞’과 같은 것이니, 이와 같은 등속은 이 ‘이利’자를 쓰는 곳이 넓다.
그러므로 여러 괘卦에서 다른 일의 이로움을 말한 것은 세어서 덕德으로 삼지 않았다.
이 네 가지 덕德은 비단 괘卦 아래에만 있는 것이 아니요, 또한 효爻 아래에서도 말했으나, 다만 효爻 아래는 그 일이 다소 적다.
그러므로 ‘황상원길黃裳元吉’과 ‘하천지구형何天之衢亨’과 ‘소정길小貞吉’, ‘대정흉大貞凶’, 이는 모두 효爻 아래에서 말했으니, 그 이로움은 여러 효爻에도 모두 있다.
초구初九에 “잠겨 있는 용龍이니 쓰지 말라.”고 한 것은 무슨 말인가?
“용덕龍德을 가지고 은둔한 자이니, 세상에 따라 변하지 아니하며,
疏
○정의왈正義曰:이는 〈문언전文言傳〉의 두 번째 절節이니, 이는 초구初九의 효사爻辭를 해석한 것이다.
[初九曰潛龍勿用 何謂也] 이는 부자夫子가 경문經文의 초구효初九爻의 글을 거듭 해석한 것이므로 ‘초구왈初九曰’이라 한 것이다.
그 뜻을 해석하려 하면서 묻는 말을 가설假設하였으므로 ‘잠룡물용潛龍勿用 하위야何謂也’라고 한 것이다.
[子曰龍德而隱者也] 이는 부자夫子가 사람의 일을 가지고 잠룡潛龍의 뜻을 해석한 것이니, 성인聖人은 용덕龍德을 가지고 숨어 사는 자이다.
[不易乎世] 그 마음을 옮기고 바꾸지 않아, 세속에 있으면서 비록 험난함을 만나더라도 본래의 뜻을 바꾸지 않는 것이다.
이름을 이루려 하지 아니하여 세상에 은둔하여도 근심함이 없으며 이것(善)을 보지 못하여도 근심함이 없어서 즐거우면 행하고 근심스러우면 떠나가서 확고하여 뽑을 수 없는 것이 잠긴 용龍이다.”
疏
○정의왈正義曰:[不成乎名] 스스로 숨고 침묵하여 좋은 이름을 이루어 남들로 하여금 알게 하지 않음을 말한 것이다.
[遯世无悶] 은둔하여 세상을 피해서 비록 무도無道한 때를 만나나 마음에 근심하는 바가 없음을 이른다.
[不見是而无悶] 온 세상이 모두 나빠서 비록 선善을 보지 못하더라도 마음에 또한 근심함이 없음을 말한 것이다.
위에서 ‘둔세무민遯世无悶’이라고 한 것은 마음이 궁벽하고 누추한 곳에 처한 것이요, ‘불견시이무민不見是而无悶’은 이는 세속이 악惡을 행하는 것을 봄으로 인한 것이니, 이 또한 근심함이 없다.
그러므로 근심함이 없다는 글을 다시 쓴 것이다.
[樂則行之 憂則違之] 마음에 즐거우면 자기가 행하고, 마음에 근심하면 자기가 떠나가는 것이다.
[確乎其不可拔] 몸이 비록 물건에 따라 옮겨가고 은둔하여 세상을 피하나 마음과 뜻이 도道를 지켜서 확고하고 진실해서 뽑을 수 없는 것이니, 이것이 바로 잠룡潛龍의 뜻이다.
구이九二에 “나타난 용龍이 밭에 있으니, 대인大人을 만나봄이 이롭다.”고 한 것은 무슨 말인가?
“용덕龍德으로 정중正中한 자이니, 평상시의 말을 신실信實하게 하고 평상시의 행동을 삼가서, 사邪를 막아 성실함을 보존하며, 세상을 좋게 하고도 자랑하지 않으며, 덕德이 넓어 교화된 것이니, 《주역周易》에 이르기를 ‘나타난 용龍이 밭에 있으니, 대인大人을 만나봄이 이롭다.’고 하였으니, 이는 군주의 덕德이다.”
疏
○정의왈正義曰:이는 구이九二의 효사爻辭를 해석한 것이다.
[子曰龍德而正中者]구이九二가 중中에 거하고 편벽되지 않으나, 구오九五가 높은 자리에 거하면서 정위正位를 얻은 것만 못하다.
그러므로 다만 “용덕龍德으로 정중正中한 자이다.[龍德而正中者]”라고 말씀한 것이다.
[庸言之信 庸行之謹]용庸은 중용中庸을 이르며, 용庸은 평상이니, 처음부터 끝까지 평상시의 말을 신실信實하게 하고 평상시의 행실을 삼가는 것이다.
[閑邪存其誠] 사악함을 막아서 마땅히 스스로 그 성실함을 보존해야 함을 말한 것이다.
[善世而不伐] 세상에 좋은 일을 하나 스스로 자기 공功을 자랑하지 않음을 말한 것이다.
[德博而化]덕德이 능히 넓어서 세속을 변화시킴을 말한 것이다.
초효初爻는 완전히 은둔하여 세상을 피하는 것이고, 이효二爻는 점점 덕행德行을 드러내어 세속을 교화하는 것이니, 순舜 임금이 뇌택雷澤에서 물고기를 잡고 하빈河濱에서 질그릇을 구울 적에 그릇이 조악하지 아니하고 백성들이 점점 교화된 것 같은 것이 이것이다.
[易曰見龍在田 利見大人 君德] 다른 효爻와 다르기 때문에 특별히 ‘역왈易曰’이라고 칭한 것이다.
‘현룡재전見龍在田’은 아직 군주의 지위가 아니요 다만 군주의 덕德을 말한 것이다.
구삼九三에 “군자君子가 종일토록 부지런히 힘써서 저녁까지도 두려워하나 위태로운 듯하여야 허물이 없으리라.”고 한 것은 무슨 말인가?
“군자君子가 덕德을 진익進益하고 업業을 닦으니, 충신忠信은 덕德을 진익進益하는 것이요, 말을 닦고 성실함을 세움은 업業을 쌓는 것이다.
이를 줄을 알아 이르므로 기미幾微를 경영함을 허여할 수 있으며, 끝마칠 줄을 알아 끝마치므로 의義를 보존함을 허여할 수 있는 것이다.”
注
한 체體(下體)의 극極에 처함은 바로 이름[至]이요, 한 괘卦(下卦)의 다함에 거함은 바로 끝마침[終]이다.
일이 이르러 옴에 처하여 허물을 범하지 않는 것은 이름[至]을 아는 자이므로 사무事務를 이룰 수 있고, 끝에 처하여 그 끝을 온전히 할 수 있는 것은 끝마침을 아는 자이다.
물건이 나아가기를 신속하게 하는 것은 의義가 이利만 못하고, 물건의 끝마침을 보존하는 것은 이利가 의義에 미치지 못한다.
그러므로 처음이 있지 않은 이가 없으나 능히 끝마침이 있는 이는 적으니, 의義를 보존함을 허여할 수 있는 것은 오직 끝마침을 아는 자일 것이다.
疏
○정의왈正義曰:이는 구삼九三의 효사爻辭를 해석한 것이다.
[子曰君子進德脩業] ‘덕德’은 덕행德行을 이르고 ‘업業’은 공업功業을 이르니, 구삼九三이 종일토록 부지런히 힘쓰는 까닭은 도덕道德을 진익進益하고 공업功業을 닦고자 해서이다.
그러므로 종일토록 부지런히 힘써서 게을리하지 않는 것이다.
덕德을 진익進益하면 이를 줄을 아는 것은 장차 나아가는 것이요, 업業을 닦으면 끝마침을 아는 것은 의義를 보존하는 것이다.
[忠信所以進德] 다시 덕德을 진익進益하는 일을 해석하였으니, 충忠을 남에게 미루어서 성실함으로써 남을 대하면 남들이 친애하고 높여서 그 덕德이 날로 진익進益되니, 이것이 덕德을 진익進益하는 것이다.
[修辭立其誠 所以居業] ‘사辭’는 문교文敎를 이르고 ‘성誠’은 성실을 이르니, 밖으로는 문교文敎를 닦고 다스리며 안으로는 그 성실을 세워서 안과 밖이 서로 이루어지면 쌓을 수 있는 공업功業이 있게 된다.
〈덕德은〉 위에서 진덕進德이라고 말하고 아래에서도 다시 진덕進德이라고 말하였는데, 〈업業은〉 위에서 수업脩業이라고 말하고 아래에서는 변하여 거업居業이라고 말한 것은, 그 사이에 ‘말을 닦는다[脩辭]’는 글이 있기 때문에 ‘닦는다[脩]’는 글을 피하여 거업居業이라 말한 것이요, 또 공업功業은 마땅히 ‘쌓는다[居]’고 말해야 하기 때문이다.
疏
[知至至之 可與幾]구삼九三이 한 체體의 극極에 처하여 막 상괘上卦의 아래에 이르렀으니 이것이 이름[至]이니, 이미 상괘上卦의 아래에 거하였으나 흉함과 허물이 없는 것, 이것이 바로 ‘지지知至’이다.
이미 능히 장차 이를 줄을 알면 기미를 알고 이치를 알아서 함께 기미의 일을 논함을 허여할 수 있으니, ‘기幾’라는 것은 무無를 떠나 유有로 들어가서 이치는 있으나 아직 나타나지는 않은 때이다.
이는 구삼九三이 이미 시절이 장차 이를 줄을 알고 이치가 이르려 함을 알고서 함께 기미를 경영함을 허여할 수 있는 것이다.
[知終終之 可與存義] 한 체體가 다하는 곳에 거하여 그 끝마침을 온전히 하는 것이니, 이는 끝마침을 아는 것이다.
이미 능히 끝마칠 줄을 알면 끝마쳐 다할 때에 그 의義를 보존함을 허여할 수 있다.
‘의義’라는 것은 마땅함이니, 그 지위를 보전保全하여 상실함이 있지 않으면 일에 마땅함을 얻는 것이다.
그러나 구삼九三의 오직 이 한 효爻는 혹 나아가서 기미를 알게 하고자 하고, 혹 물러나서 의義를 보존하게 하고자 한다.
한 번 나아가고 한 번 물러나서 그 뜻이 똑같지 않음은, 구삼九三이 나아가고 물러나는 때에 처하여 만약 나아갈 수 있으면 나아가고 물러날 수 있으면 물러나서 두 가지 뜻이 병행하기 때문이다.
疏
○주注의 [處一體之極]에서 [其唯知終者乎]까지
○정의왈正義曰:[處一體之極 是至也]장씨莊氏는 “극極은 바로 지극함이니, 구삼九三이 하괘下卦의 위에 있으니 이것이 지극함이다.” 하였고,
저씨褚氏(褚仲都)는 “‘일체지극一體之極 시지是至’라는 것은 하괘下卦가 이미 지극하여 장차 상괘上卦의 아래에 이르게 되었으니, ‘지至’는 상괘上卦에 이름을 말한 것이다.” 하였다.
아래에 “아랫자리에 있으면서도 근심하지 않는다.” 하였는데, 주注에 이르기를 “이름[至]이 이를[至] 줄을 알기 때문에 근심하지 않는다.” 하였으니, 이는 사람의 일을 가지고 말한 것이다.
이미 아랫자리라고 말했으면 상괘上卦의 아래에 있어서 상괘上卦에 이르고자 함을 분명히 알 수 있고, ‘그러므로 근심하지 않음[故不憂]’은 장차 상괘上卦에 이를 줄을 알아서이다.
장씨莊氏의 설說과 같이 하여 곧바로 ‘하괘下卦가 위로 지극하다.’고 말하면 이는 지극한 것이니, 만약 상괘上卦의 체體가 없다면 어찌 이를 수가 있으며, 어찌 굳이 기미를 경영함을 허여하겠는가.
이는 바로 ‘지至’가 상괘上卦를 근거로 하여 글을 썼음을 알 수 있는 것이니, 장씨莊氏의 설說은 잘못되었다.
[處事之至而不犯咎 是知至]구삼九三이 상괘上卦에 가까우니, 일이 장차 이를 때에 예禮로써 굽힐 줄을 알아서 상괘上卦의 허물을 저촉하고 범하지 않으면 이는 일이 장차 이를 줄을 아는 것임을 말한 것이다.
[故可與成務] ‘무務’는 사무事務를 이르니, 일이 미리 나타나는 기미를 알면 그 사무를 이룸을 허여할 수 있는 것이다.
‘여與’는 허許와 같으니, 허여할 수 있는 일임을 말한 것이요, 이 사람이 저 사람과 함께 서로 더불어 함을 말한 것은 아니다.
[進物之速者 義不若利]이利는 기미에 따라 나타나서 이로움을 발견하면 행하고, 의義는 분수에 따라 동하여 망령되이 나아가기를 구하지 않는다.
그러므로 물건이 나아가는 빠름은 의義가 이利만 못하니, 의義는 고요하고 이利는 동하기 때문이다.
[存物之終者 利不及義] 이미 이룬 물건을 보전함은 망령되이 일으키고 동하지 않는다.
그러므로 이利가 의義에 미치지 못하는 것이다.
[故靡不有初 鮮克有終] 이로움을 발견하면 행하여 뒤에 있는 것을 돌아보지 않는 것이 ‘미불유초靡不有初’요, 능히 그 업業을 지켜 이루지 못하는 것이 ‘선극유종鮮克有終’이다.
이 때문에 윗자리에 거하여도 교만하지 않으며, 아랫자리에 있으면서도 근심하지 않는 것이다.
注
하체下體의 위에 거하고 상체上體의 아래에 있으니, 끝내 피폐해짐을 알기 때문에 교만하지 않는 것이요, 이름[至]이 이를[至] 줄을 알기 때문에 근심하지 않는 것이다.
疏
○정의왈正義曰:[是故居上位而不驕]하체下體의 윗자리에 거하여도 거만하지 않음을 말한 것이니, 끝마침을 알기 때문에 감히 교만한 마음을 품지 않는 것이다.
[在下位而不憂]상괘上卦의 아래에 처하였으므로 아랫자리라고 한 것이니, 일이 장차 이를 줄을 알아서 사무事務의 기미가 나아가려고 하기 때문에 근심하지 않는 것이다.
疏
○주注의 [明夫終敝故不驕也]에서 [故不憂也]까지
○정의왈正義曰:[明夫終敝 故不驕] ‘지종知終’을 해석한 것이다.
[知夫至至 故不憂] ‘지지知至’를 해석한 것이다.
앞의 경문經文은 지지知至가 앞에 있고 지종知終이 뒤에 있는데, 이 경문經文은 지종知終을 먼저 해석하고 지지知至를 뒤에 해석하였으니, 이는 글의 편리함을 따라 말한 것이다.
그러므로 부지런히 힘써서 때를 따라 조심하면 비록 위태로우나 허물이 없을 것이다.
注
일의 극極에 처하였으니, 때를 잃으면 폐하고 게으르면 비게 된다.
그러므로 때를 따라 조심하면 비록 위태로우나 허물이 없는 것이다.
疏
○정의왈正義曰:구삼九三은 이 때문에 항상 부지런히 힘쓰는 것이다.
이미 끝마치고 이미 이르는 때를 인하여 마음에 두려움을 품으면 비록 위태로워 편안하지 못하나, 끝마침을 알고 이름을 알기 때문에 허물이 없는 것이다.
疏
○정의왈正義曰:[處事之極 失時則廢]구삼九三이 하괘下卦의 상체上體에 있음은 바로 일의 지극함에 처한 것이니, 만약 때를 잃고 나아가지 않으면 기미와 사무가 폐해지고 누락됨을 말한 것이다.
이 때문에 부지런히 힘써 모름지기 나아가야 하는 것이다.
[懈怠則曠] 이미 일의 지극함에 처하였으니 지극하면 끝마치니, 마땅히 이미 끝마친 업業을 보존하여 지켜야 한다.
만약 게으르고 교만하고 안일하면 공업功業이 비게 되니, 이 때문에 부지런히 힘쓰는 것이다.
‘실시즉폐失時則廢’는 ‘지지知至’를 해석한 것이고, ‘해태즉광懈怠則曠’은 ‘지종知終’을 해석한 것이다.
구사九四에 “혹 뛰어오르거나 연못에 있으면 허물이 없다.”고 한 것은 무슨 말인가?
“오르고 내림에 일정함이 없는 것이 간사함이 되지 않으며, 나아가고 물러감에 항상 함이 없는 것이 동류同類를 떠남이 아니다.
군자君子가 덕德을 진익進益하고 업業을 닦음은 때에 미처 행하고자 함이니, 그러므로 허물이 없는 것이다.”
疏
○정의왈正義曰:이는 구사九四의 효사爻辭를 밝힌 것이다.
[子曰上下无常 非爲邪] 위로 올라가서 뛰고자 하고 아래로 내려가서 물러가고자 하니, 이는 일정함이 없는 것이나 뜻이 공정함에 있고 간사함을 하는 것이 아니다.
[進退无恒 非離群]하씨何氏(何妥)가 이르기를 “나아가고 물러감에 일정함이 없는 것은 때가 그렇게 만드는 것이요, 구차히 동류同類를 떠나고자 한 것이 아니다.” 하였고,
하씨何氏가 또 이르기를 “상하上下를 말한 것은 지위를 근거로 한 것이고, 진퇴進退는 효爻를 근거로 한 것이니,
이른바 ‘동류同類를 떠남이 아니라는 것’은 비록 나아가고 물러감에 일정함이 없으나 오히려 무리를 의지하여 행해서 광채를 내면에 감추고 낮추거나 높여 여러 사람과 함께하는 것이요, 세속을 초월하여 홀로 동류同類를 떠남이 아님을 말한 것이다.” 하였다.
疏
[君子進德脩業 欲及時] ‘덕德을 진익進益함’은 위로 올라가고자 하고 나아가고자 하는 것이요, ‘업業을 닦음’은 아래로 내려가고자 하고 물러가고자 하는 것이다.
나아감은 자기 자리를 버리고 뛰어오르고자 하는 것이니 바로 ‘덕德을 진익進益함’을 이르고, 물러감은 그대로 물러나서 못에 있는 것이니 바로 ‘업業을 닦음’을 이른다.
그 뜻이 구삼九三과 같으나 다만 구사九四는 앞으로 나아가고자 하는 것이 구삼九三보다 많으므로 ‘때에 미치고자 한다.[欲及時]’라고 한 것이요, 구삼九三은 ‘때에 미침[及時]’을 말하지 않고, 다만 기미를 말함을 허여할 수 있을 뿐이다.
구오九五에 “나는 용龍이 하늘에 있으니, 대인大人을 만나봄이 이롭다.”고 한 것은 무슨 말인가?
“같은 소리는 서로 응하고 같은 기운은 서로 구하니, 물은 습한 데로 흐르고 불은 건조한 데로 나아가며, 구름은 용龍을 따르고 바람은 범을 따른다.
성인聖人이 나옴에 만물萬物(萬人)이 우러러보니, 하늘에 근본한 것은 위를 가까이하고 땅에 근본한 것은 아래를 가까이하니, 각기 그 유類를 따르는 것이다.”
疏
○정의왈正義曰:이는 구오효九五爻의 뜻을 밝힌 것이다.
[飛龍在天] 하늘이 능히 여러 물건을 크게 감동感動시켜서 여러 물건이 응함을 말하였으니, 이 때문에 대인大人을 만나봄이 이로운 것이다.
대인大人이 여러 물건과 감응함을 인하였기 때문에 여러 물건이 서로 감응함을 넓게 말하여, 성인聖人이 나오면 만물萬物이 우러러봄을 밝혀 끝맺은 것이다.
[同聲相應]궁성宮聲을 타면(연주하면) 궁성宮聲이 응하고 각성角聲을 타면 각성角聲이 동하는 것과 같은 것이 이것이다.
[同氣相求] 하늘이 비를 내리고자 하면 주춧돌이 축축한 것과 같은 것이 이것이다.
이 두 가지는 소리와 기운이 서로 감응하는 것이다.
疏
[水流濕 火就燥] 이 두 가지는 형形과 상象을 가지고 서로 감응하는 것이다.
물이 땅으로 흐를 적에 먼저 습한 곳으로 나아가고, 불이 섶을 태울 적에 먼저 건조한 곳으로 나아가니, 이는 물‧불과 기운이 같아서 모두 지각知覺이 없으나 서로 감응하는 것이다.
먼저 자연의 물건을 밝혔으므로 말하는 초기에 이것을 말한 것이다.
[雲從龍 風從虎]용龍은 수족水族이고 구름은 물 기운이다.
그러므로 용이 읊으면 상서로운 구름이 나오니, 이는 구름이 용龍을 따르는 것이다.
범은 위엄 있고 사나운 짐승이요 바람은 진동震動하는 기운이니, 이 또한 동류同類가 서로 감응하는 것이다.
그러므로 범이 으르렁거리면 골짝에서 바람이 생겨나니, 이는 바람이 범을 따르는 것이다.
이 두 구句는 지각이 있는 물건이 지각이 없는 것을 감응함을 밝혔다.
그러므로 다음에 말하여 점차 지각이 있는 것에 나아가 말한 것이다.
疏
[聖人作 而萬物覩] 이 두 구句는 바로 “나는 용龍이 하늘에 있으니 대인大人을 만나봄이 이롭다.”는 뜻을 해석한 것이다.
‘성인작聖人作’은 나는 용龍이 하늘에 있는 것이요, ‘만물도萬物覩’는 대인大人을 만나봄이 이로운 것이다.
위의 몇 가지 일의 명칭을 나열한 것은 본래 이것을 밝히려고 한 것이니, 이는 지각이 있는 것이 지각이 있는 것을 감응하는 것이다.
이 또한 동류同類가 서로 감응하는 것이니, 성인聖人은 낳고 기르는 덕德이 있고 만물萬物은 낳고 기르는 정情이 있다.
疏
[本乎天者親上 本乎地者親下] 위에서 비록 감응하는 것을 나열하였으나 오직 몇 가지 일을 밝혔을 뿐이요, 이것은 하늘과 땅 사이에 서로 함께 감응하는 뜻을 넓게 해석한 것이다.
장씨莊氏가 말하기를 “천지天地의 기운이 뭉침에 음陰과 양陽 두 기운이 화합하여 함께 만물萬物을 낳는다.” 하였다.
그러나 만물萬物의 체體가 하늘의 기운에 편향되어 감응함이 많은 것이 있고, 땅의 기운에 편향되어 감응함이 많은 것이 있다.
그러므로 《주례周禮》 〈대종백大宗伯〉에 천산天産과 지산地産이 있고, 〈대사도大司徒〉에 동물動物과 식물植物을 말하였다.
본래 하늘에서 기운을 받은 것은 동물로 신령스러움을 머금은 등속이니, 천체天體가 운동하므로 신령스러움을 머금은 물건도 운동하는바, 이는 위에 가까이 붙는 것이요, 본래 땅에서 기운을 받은 것은 식물로 지각이 없는 등속이니, 지체地體가 응체凝滯하여 식물도 움직이지 않는바, 이는 아래에 가까이 붙는 것이다.
疏
[各從其類] 하늘과 땅 사이에 함께 서로 감응하여 각각 그 기류氣類를 따름을 말한 것이다.
이 유類는 성인聖人이 만물萬物을 감동感動시키기를 동류同類로써 함을 인하였다.
조화造化의 성性과 도야陶冶의 기물은 비단 동류同類가 서로 감응할 뿐만 아니요, 또한 다른 종류가 서로 감응하는 것이 있다.
예컨대 자석이 바늘을 끌어오고 호박琥珀이 지푸라기를 달라붙게 하며, 누에가 실을 토하면 상성商聲의 줄이 끊기고 동산銅山이 무너지면 낙양洛陽의 종鍾이 응함과 같은 것이어서 그 종류가 매우 많아 일일이 다 말하기가 어려우니, 이는 다 그윽한 이치가 절로 그러한 것이요, 그 소이연所以然을 알 수는 없다.
감感이란 동動함이요 응應이란 보답이니, 모두 먼저 하는 것이 감感이 되고 뒤에 하는 것이 응應이 된다.
비단 가까운 일만 서로 감응하는 것이 아니요 또한 먼 일이 멀리 서로 감응하는 것이 있으니, 예컨대 주周나라 때 기린을 잡은 것은 바로 한漢 고조高祖의 응應이 되고, 한漢나라 때의 황성黃星은 뒤에 조공曹公(曹操)의 조짐이 되는 것과 같은 것이다.
감응하는 일이 넓어서 한마디 말로 다할 수 있는 것이 아니나, 지금 뜻이 이치를 해석함에 있으므로 대략 대강만을 들었을 뿐이다.
상구上九에 “항극亢極의 용龍이니 뉘우침이 있다.”고 한 것은 무슨 말인가?
疏
정의왈正義曰:이는 상구上九의 효사爻辭를 밝힌 것이다.
[子曰貴而无位]상구上九가 자리가 아닌데 상구上九가 거하였으니, 이는 지위가 없는 것이다.
[高而无民] 여섯 효爻에 모두 음陰이 없으니, 이는 백성이 없는 것이다.
현인賢人이 아랫자리에 있으나 도와주는 이가 없다.
注
현인賢人이 비록 아랫자리에 있으면서 지위를 담당하였으나 상구上九를 위하여 도와주지 않는 것이다.
疏
정의왈正義曰:현인賢人이 비록 아래 지위에 있으나 상구上九를 위하여 도와주지 않는 것이다.
注
상괘上卦의 극極에 처하여 지위를 담당하지 않았다.
홀로 서서 동動하면 남이 함께하는 이가 없다.
건괘乾卦의 〈문언전文言傳〉에 첫 번째로 건乾을 논하지 않고, 먼저 원元을 말하고 아래에 비로소 건乾을 말한 것은 어째서인가?
건乾은 네 가지 일을 통합하여 행하는 것이니, 군자君子가 이것을 보고서 스스로 힘써 쉬지 아니하여 이 네 가지를 행한다.
그러므로 첫 번째로 건乾을 논하지 않고, 아래에 “건乾은 원형이정元亨利貞”이라고 말한 것이다.
나머지 효爻는 모두 용龍을 말하였는데 구삼九三에 이르러는 유독 군자君子를 가지고 지목한 것은 어째서인가?
상象이 생겨난 것은 뜻에서 생겨났으니, 이 뜻이 있은 뒤에야 그 물건을 가지고 밝혔다.
그러므로 용龍으로 건乾을 밝히고 말[馬]로 곤坤을 밝혀서 그 일의 뜻에 따라 상象을 취하였다.
이 때문에 초구初九와 구이九二는 용덕龍德이 모두 그 뜻에 응하므로 용龍을 논하여 밝힐 수가 있고, 구삼九三의 ‘부지런히 힘써서 저녁까지도 두려워함’에 이르러서는 용덕龍德이 아니니, 군자君子를 가지고 그 상象에 해당시킴을 밝힌 것이다.
통합하여 거론하면 건乾의 체體는 모두 용龍이고, 따로 서술하면 각각 그 뜻에 따르는 것이다.
疏
○정의왈正義曰:성인聖人이 이때에 거하면 동작해서는 안 된다고 경계를 베푼 것이다.
疏
○정의왈正義曰:[夫乾者 統行四事者也 君子以自强不息 行此四者]주注의 뜻이 건乾을 사덕四德의 주체로 삼았는데, 〈문언전文言傳〉의 첫머리에 먼저 건乾을 말하지 않고 사덕四德을 말하였다.
그러므로 스스로 물어서 해석하여, 공功이 없고 오직 이 사덕四德의 일을 통합하여 행하는 것에 건乾의 체體를 해당시켜 구분한 것이니, 이 사덕四德을 행하는 것은 바로 건乾의 공功이다.
그러므로 〈문언전文言傳〉에 먼저 ‘군자君子가 이것을 보고서 스스로 힘써 쉬지 아니하여 이 사덕四德을 행함’을 말한 것이다.
그래서 사덕四德을 먼저 말하고 첫머리에 건乾을 논하지 않은 것이다.
다만 사덕四德이 이미 갖추어지면 건乾의 공功이 절로 이루어진다.
그러므로 아래에 비로소 “건乾은 원형이정元亨利貞”이라고 한 것이다.
‘잠긴 용龍이니 쓰지 말라.’는 것은 아래에 있기 때문이요, ‘나타난 용龍이 밭에 있음’은 때가 통함이요, ‘종일토록 부지런히 힘씀’은 일을 행하는 것이요, ‘혹 뛰어오르거나 연못에 있음’은 스스로 시험하는 것이요, ‘나는 용龍이 하늘에 있음’은 위에서 다스림이요, ‘항극亢極의 용龍이니 뉘우침이 있음’은 궁극의 재앙이다.
건원乾元의 용구用九는 천하가 다스려지는 것이다.
注
이 한 장章은 온전히 사람의 일을 가지고 밝혔다.
구九는 양陽이니 양陽은 강하고 곧은 물건이다.
강하고 곧음을 온전히 써서 유순히 하기를 잘하는 것을 추방하고 멀리함은 천하의 지극한 이치를 간직한 자가 아니면 능하지 못하다.
그러므로 건원乾元이 구九를 쓰면 천하가 다스려지는 것이다.
물건의 동함을 알면 그 소이연所以然의 이치를 다 알 수 있는 것이다.
용龍의 덕德은 망령된 짓을 하지 않는 자인데 잠기고 쓰지 않음은 어째서인가?
나타나 밭에 있음은 반드시 때가 통하기 때문이니, 효爻를 사람으로 삼고 자리(위치)를 때로 삼아서 사람이 망령되이 동하지 않으면 때를 모두 알 수 있는 것이다.
문왕文王이 밝음이 상했으면 군주를 알 수 있고, 중니仲尼가 나그네가 되었으면 그 나라를 알 수 있는 것이다.
疏
○정의왈正義曰:이 한 절節은 〈문언전文言傳〉의 세 번째 절節이니, 여섯 효爻에 사람의 일을 가지고 다스리는 바의 뜻을 말하였다.
[潛龍勿用 下也]성인聖人이 이 잠룡潛龍의 때에 낮은 지위에 있음을 말한 것이다.
[見龍在田 時舍] ‘사舍’는 통함[通舍]을 이른다.
구이九二가 나타난 용龍으로 밭에 있으니, 이는 때가 통하는 것이다.
[終日乾乾 行事] 이 ‘이름을 알고 끝마칠 줄을 아는[知至知終]’ 일을 행함을 말한 것이다.
[或躍在淵 自試]성인聖人이 오위五位와 매우 가까우니, 감히 과단성 있게 결단하여 나아가지 않고 오직 점점 스스로 시험하여, 마음은 앞으로 나아가고자 하나 지체하고 의심하여 결정하지 못한다.
[飛龍在天 上治]성인聖人이 윗자리에 거하여 다스림을 말한 것이다.
[亢龍有悔 窮之災] 지위가 궁극하여 재앙이 이르게 됨을 말한 것이니, 재앙은 바로 뉘우침이요, 큰 재화災禍가 아니다.
[乾元用九 天下治] 《역경易經》에 상上(上九)을 용구用九라 칭하였으니, 용구用九의 글은 건乾의 덕德을 총괄한 것이다.
또 ‘건乾’자를 홀로 말할 수 없으므로 원元의 덕德을 들어서 건乾에 배합하였으니, 이 건원乾元이 구九의 덕德을 써서 천하가 다스려짐을 말한 것이다.
구오九五는 다만 한 효爻일 뿐이니 보는 일이 좁아서 다만 ‘상치上治’라고 말하였고, 건원乾元은 육효六爻를 다 포괄하므로 보는 일이 넓기 때문에 ‘천하치야天下治也’라고 말한 것이다.
疏
○주注의 [此一章全以人事]에서 [國可知矣]까지
○정의왈正義曰:[此一章全以人事明之] 아래에는 “양기陽氣가 잠기고 감춘다.”고 말하였고, 또 “비로소 천덕天德에 자리한다.”고 말하였고, 또 “비로소 하늘의 법칙을 본다.”고 말하였는데,
이 한 장章은 다만 “천하가 다스려진다.”고만 말하였으니, 이는 모두 사람의 일을 가지고 말한 것이다.
[夫能全用剛直 放遠善柔 非天下至理 未之能也]건원乾元이 구九를 써서 여섯 효爻가 모두 양陽이니, 이는 강함과 곧음을 온전히 쓴 것이다.
‘방원선유放遠善柔’는 유순하기를 잘하는 사람을 추방하고 버림을 이른다.
유순하고 아첨하는 것을 잘하여 모습은 공손하나 마음이 모질어서 사람들로 하여금 자기의 악함을 알지 못하게 하니, 이것을 아는 것이 어렵다.
이는 구九의 순양純陽을 쓰는 자이니, 강함과 곧음을 온전히 쓰고 다시 남은 음陰이 없다.
유순하기를 잘하는 사람은 요堯 임금도 오히려 병으로 여겼다.
그러므로 “천하의 지극한 이치를 간직한 자가 아니면 능하지 못하다.”라고 한 것이다.
[夫識物之動 則其所以然之理 皆可知] 이는 아래에 있는 용龍이 잠기고 나타나는 뜻을 밝히고자 하였다.
그러므로 장씨張氏가 말하기를 “‘식물지동識物之動’은 용龍의 동함을 말한 것이요, ‘즉기소이연지리則其所以然之理 개가지皆可知’는 용龍이 잠기는 이유와 나타나는 이유를 알면 이 이치를 모두 알 수 있음을 말한 것이다.” 하였다.
疏
[龍之爲德 不爲妄者]용龍은 다른 짐승보다 영특하여 거동을 함부로 하지 않아서 잠길 만하면 잠기고 나타날 만하면 나타나니, 이는 헛되고 망령되지 않음을 말한 것이다.
[見而在田 必以時之通舍]경經에 오직 ‘시사時舍’라고 말하였는데 주注에는 ‘필이시지통사必以時之通舍’라고 말한 것은 왕보사王輔嗣가 통通으로 사舍를 해석한 것이니, 사舍가 바로 통通의 뜻이다.
초구初九는 잠기고 감추어 나타나지 않고 구이九二는 이미 나타나 밭에 있으니, 이는 때가 통한 뜻이다.
‘이효위인以爻爲人 이위위시以位爲時’는 효爻가 제자리에 있으니 이는 사람이 그때를 만난 것과 같은 것이다.
그러므로 ‘문왕명이文王明夷 즉주가지의則主可知矣’는 군주는 바로 때이니 당시에 무도無道하였으므로 밝음이 상함을 말한 것이요, ‘중니여인仲尼旅人 즉국가지의則國可知矣’는 나라 또한 때이니 만약 중니仲尼가 남에게 나그네가 된 것을 보면 그 나라 군주가 무도無道해서 공자孔子로 하여금 나그네가 되어 밖에 나가게 했음을 앎을 말한 것이다.
문왕文王과 중니仲尼를 인용한 것은 용龍이 잠기는 것과 용龍이 나타나는 뜻을 밝힌 것이다.
‘잠긴 용龍은 쓰지 말라는 것’은 양기陽氣가 잠겨 있고 감춰 있기 때문이요, ‘나타난 용龍이 밭에 있음’은 천하가 문명文明한 것이요, ‘종일토록 부지런함’은 때와 함께 행하는 것이다.
疏
○정의왈正義曰:이 한 절節은 바로 〈문언전文言傳〉의 네 번째 절節이니, 육효六爻의 천기天氣의 뜻을 밝힌 것이다.
[天下文明]양기陽氣가 밭에 있어서 처음으로 만물을 낳기 때문에 천하에 문장文章이 있어서 광명光明한 것이다.
[與時偕行] 이는 천도天道를 가지고 효爻의 상象을 해석한 것이다.
구삼九三이 부지런히 힘쓰고 쉬지 아니하여 종일토록 스스로 경계하는 까닭은 천시天時가 물건을 낳음을 쉬지 않는 것과 같기 때문에 ‘여시해행與時偕行’이라고 말한 것이니, ‘해偕’는 ‘함께’의 뜻이다.
여러 학자들은 “건진建辰의 달(3월)에 만물이 생장하여 그침이 없어서 천시天時와 함께 행한다.”고 하였으나, 만일 쉬지 않는 것을 가지고 말하면 이는 건인建寅의 달(정월)이니 세 양陽이 용사用事를 한다.
삼양三陽이 물건을 낳는 초기를 당하여 물건을 낳음을 쉬지 않으니, 천시天時가 물건을 낳음을 쉬지 않는 것과 같다.
그러므로 “때와 함께 행한다.”라고 말한 것이다.
‘혹 뛰어오르거나 연못에 있음’은 건도乾道가 마침내 변한 것이요, ‘나는 용龍이 하늘에 있음’은 마침내 천덕天德에 자리한 것이요, ‘항극亢極의 용龍이니 뉘우침이 있음’은 때와 함께 궁극한 것이다.
疏
○정의왈正義曰:[乾道乃革]하체下體를 떠나 상체上體로 들어갔으므로 ‘내혁乃革’이라고 말한 것이다.
[乃位乎天德] 자리가 천덕天德의 자리에 해당하니, 구오九五의 양陽이 하늘에 거하여 비추고 임함이 광대함을 말하였다.
건원乾元이 구九를 씀은 마침내 하늘의 법칙을 본 것이다.
注
이 한 장章은 온전히 천기天氣를 말하여 밝혔다.
오직 건체乾體가 이것을 쓸 수 있으니, 순강純剛을 써서 하늘을 보면 하늘의 법칙을 볼 수 있다.
疏
정의왈正義曰:[乃見天則]양陽은 바로 강하고 지극한 물건이니, 능히 이 순강純剛을 씀은 오직 하늘이여야 그러할 수 있다.
그러므로 “마침내 하늘의 법칙을 본다.”라고 말한 것이다.
건원乾元은 시작하여 형통하는 것이요, 이정利貞은 성정性情이다.
注
건乾의 원元을 하지 않으면 어찌 물건의 시작을 통할 수 있으며, 정情을 성性대로 하지 않으면 어찌 그 바름을 오랫동안 행할 수 있겠는가.
이 때문에 시작하여 형통한 것은 반드시 건원乾元이요, 이롭고 바른 것은 반드시 성정性情인 것이다.
疏
○정의왈正義曰:이 한 절節은 다섯 번째 절節이니, 위의 첫 번째 장章과 건乾의 네 가지 덕德의 뜻을 다시 밝힌 것이다.
[乾元者 始而亨者也]건乾이 본래 자기의 분수에 덕德이 있는 것이 아니요, 원元‧형亨‧이利‧정貞을 덕德으로 삼는다.
원元은 사덕四德의 첫 번째이므로 부자夫子가 항상 원元을 건乾에 배합하여 말씀하셨으니, 건乾과 원元이 서로 함께하는 뜻을 나타내고자 하신 것이다.
건乾의 원덕元德이 있기 때문에 능히 물건의 시작이 되어 형통할 수 있는 것이니, 이는 원元과 형亨의 두 가지 덕德을 해석한 것이다.
[利貞者 性情也] 능히 물건을 이롭게 하여 바름을 얻을 수 있는 것은 성性이 정情을 제재하기 때문이다.
疏
○정의왈正義曰:건乾의 원기元氣는 그 덕德이 넓고 크므로 능히 여러 가지 물건의 시작을 두루 통한다.
다른 괘卦의 원덕元德으로 말하면 비록 만물을 처음 낳으나 덕德이 두루하고 넓지 못하다.
그러므로 “건乾의 원元을 하지 않으면 어찌 물건의 시작을 통할 수 있겠는가.”라 하였으니, 그 실제는 곤원坤元도 여러 물건의 시작을 통할 수 있으나 이 〈문언전文言傳〉이 건원乾元의 덕德을 논하였으므로 주注에 건원乾元을 이어 말한 것이다.
[不性其情 何能久行其正]성性은 하늘이 낳은 바탕이니 바루어서 간사하지 않고, 정情은 성性에서 발생한 욕망이다.
만약 성性으로 정情을 제재하여 그 정情을 성性대로 하지 않으면 그 바름을 오랫동안 행할 수 없음을 말한 것이다.
육효六爻를 발휘한 뜻은, 《주역약례周易略例》를 살펴보면 “효爻는 변함을 말한 것이다.
그러므로 합하고 흩어지고 굽히고 폄이 체體와 서로 드리워져서 형체가 조급하면 고요함을 좋아하고 질質이 부드러우면 강함을 좋아하여, 체體는 정情과 반대가 되고 질質은 소원과 어긋난다.” 하였다.
이 효爻는 정情을 밝힌 것이므로 육효六爻의 발산은 만물의 정情을 사방으로 통하는 것이다.
왕보사王輔嗣의 뜻은, 초初를 무용無用의 자리로 삼고 상上을 다하여 끝나는 경지로 삼아서 지위에 거한 것은 오로지 이효二爻‧삼효三爻‧사효四爻‧오효五爻뿐이므로 〈계사전繫辭傳〉에 오직 이 네 효爻를 논한 것이라고 생각하였다.
초初와 상上은 비록 바른 자리가 없으나 통합하여 논하면 이 효爻 또한 시작하고 끝마치는 자리이다.
그러므로 건괘乾卦의 〈단전彖傳〉에 “여섯 자리가 제때에 이루어진다.”라고 한 것이다.
이효二爻와 사효四爻는 음陰의 자리가 되니, 음陰이 여기에 거함은 정위正位를 얻음이 되고 양陽이 여기에 거함은 정위正位를 잃음이 된다.
삼효三爻와 오효五爻는 양陽의 자리가 되니, 양陽이 여기에 거함은 정위正位를 얻음이 되고 음陰이 여기에 거함은 정위正位를 잃음이 된다.
《주역약례周易略例》에 이르기를 “양陽이 구하는 것은 음陰이요, 음陰이 구하는 것은 양陽이다.” 하였으니, 일효一爻와 사효四爻, 이효二爻와 오효五爻, 삼효三爻와 상효上爻가, 하나가 음陰이고 하나가 양陽이면 응應이 있는 것이 되고, 만약 모두 음陰이거나 모두 양陽이면 응應이 없는 것이 된다.
이는 그 육효六爻의 대략이니, 그 뜻이 〈계사전繫辭傳〉에 자세히 나와 있으므로 여기에서는 간략히 말한다.
건시乾始가 능히 아름다운 이로움으로써 천하를 이롭게 한다.
강건剛健하고 중정中正함이 순수하여 정精하고, 육효六爻가 발휘함은 정情을 널리 통하는 것이다.
때에 따라 여섯 용龍을 타고서 하늘을 제어하니, 구름이 가고 비가 내려 천하가 화평한 것이다.
疏
○정의왈正義曰:[乾始 能以美利利天下 不言所利 大矣哉] 이는 ‘시작하여 형통하고 이정利貞’한 뜻을 다시 말한 것이다.
‘건시乾始’는 건乾이 만물을 처음으로 낳을 수 있음을 말한 것이니 원元을 해석한 것이요, ‘능이미리이천하能以美利利天下’는 이利를 해석한 것이니, 생장시키고 아름다운 도道로써 천하를 이롭게 함을 말한 것이다.
형亨과 정貞을 다시 말하지 않은 것은, 앞글은 형亨이 이미 시始를 이었고 정貞이 또 이利를 이었으니, 시작을 들고 이로움을 들었으면 형亨과 정貞을 통합하여 포괄한 것이다.
[不言所利 大矣哉]곤괘坤卦에서 “빈마牝馬의 정貞이 이롭다.” 하고, “후侯를 세움이 이롭다.” 하고, “대천大川을 건넘이 이롭다.” 할 적에 모두 이로운 일을 말했으나,
여기서는 곧바로 “이정利貞”이라고 말하여 이로운 일을 말하지 않았으니, 이롭지 않음이 없어 비단 한 가지 일에 그칠 뿐만이 아님을 나타내고자 한 것이다.
그러므로 “이로움을 말하지 않았으니 위대하다.”라 한 것이다.
그 실제는 이 이로움이 이롭지 않은 바가 없음이 되고, 이 정貞 또한 정貞하지 않는 바가 없음이 되니, 이는 바로 건乾의 덕德이 큰 것이다.
疏
[大哉乾乎 剛健中正 純粹精] 이는 건乾의 덕德을 바로 논한 것이요, 원元을 겸하여 통하지 않은 것이다.
강건剛健하고 중정中正하다.”라고 말하였으니, 순양純陽이 강건하여 그 성질이 강강剛强하고 그 행실이 굳셈을 말한 것이다.
‘중中’은 이효二爻와 오효五爻를 이르고, ‘정正’은 오효五爻와 이효二爻를 이른다.
그러므로 “강건剛健하고 중정中正하다.” 한 것이다.
육효六爻가 모두 양陽임은 바로 순수한 것이요, 순수하여 섞이지 않음은 바로 정령精靈이다.
그러므로 “순수하여 정精하다.”라고 한 것이다.
[六爻發揮 旁通情] ‘발發’은 발월發越을 이르고 ‘휘揮’는 휘산揮散을 이르니, 육효六爻가 발월發越하고 휘산揮散하여 만물의 정情을 두루 통함을 말한 것이다.
[時乘六龍 以御天]건괘乾卦 〈단전彖傳〉의 글을 거듭 취하여 이 건乾의 뜻을 찬미한 것이다.
[雲行雨施 天下平] 천하가 널리 그 이로움을 얻어서 두루 화평하고 편벽되거나 기울지 않음을 말한 것이다.
군자君子는 덕德을 성취하는 것을 행실로 삼으니, 날마다 볼 수 있는 것이 행실이다.
잠潛이란 말은 숨어서 드러나지 않으며 행하나 아직 이루어지지 못하였다.
疏
경經의 [君子以成德爲行]에서 [君子弗用也]까지
○정의왈正義曰:이 한 절節은 〈문언전文言傳〉의 여섯 번째 절節로 육효六爻의 뜻을 다시 밝힌 것인데, 이 절節은 초구初九의 효사爻辭를 밝힌 것이다.
주씨周氏(周宏正)는 “위의 여섯 번째 절節의 ‘건원乾元은 시작하여 형통한다.’는 것은 건乾과 네 가지 덕德의 뜻을 확대하여 밝힌 것이요, 여기에 ‘군자君子는 덕德을 성취하는 것을 행실로 삼는다.’는 것도 여섯 번째 절節이니 육효六爻의 뜻을 밝힌 것이다.”라고 하여,
이를 모두 여섯 번째 절節에 소속시키고 다시 일곱 번째 절節로 삼지 않았으니, 의리에 혹 마땅할 듯하다.
[君子以成德爲行]초구初九의 잠긴 용龍의 뜻을 밝힌 것이므로 먼저 이 말을 연 것이다.
군자君子인 사람은 마땅히 도덕道德을 성취하는 것을 행실로 삼아서 그 덕행이 밝게 드러나 사람들로 하여금 날마다 그 덕행의 일을 볼 수 있게 함을 말한 것이니, 이는 군자의 떳떳함으로서 잠기고 숨어서는 안 되는데, 오늘날 잠기는 소이所以는 때가 아직 나타날 수 없기 때문에 모름지기 잠겨야 하는 것이다.
疏
[潛之爲言也 隱而未見 行而未成] 이는 부자夫子가 잠룡潛龍의 뜻을 해석한 것이다.
이 경經 안의 잠룡潛龍이란 말은, 덕德이 그윽하고 숨어서 베풀어 드러나지 않았으니, 행하는 바의 행실을 아직 성취할 수가 없다는 것이다.
[是以君子弗用]덕德이 그윽하고 숨겨지고 행실이 또 아직 이루어지지 못했으니, 이는 군자君子가 때에 쓰이지 못한 것이니 여러 음陰을 만나서 아직 쓸 수 없기 때문이다.
주씨周氏는 “덕德은 자기 몸에서 나오니 몸 안에 있는 물건이므로 ‘성成’이라 말하였고, 행실은 남에게 입혀지니 밖에 있는 일이므로 ‘행行을 한다.[爲行]’고 말했다.” 하였으나, 아래에 또 바로 “행하나 아직 이루어지지 못하였다.[行而未成]”고 말하였으니, 이는 행行 또한 이루어짐을 말한 것이니, 주씨周氏의 설說은 뜻이 잘못된 듯하다.
[成德爲行]군자君子가 도덕道德을 성취하여 그 행실로 삼음을 말한 것이니, 성덕위행成德爲行은 반드시 문장을 대구對句로 쓴 것은 아니다.
注
인군人君의 덕德을 가지고 하체下體에 처해서 남에게 자뢰하여 받아들이는 자이다.
疏
정의왈正義曰:이는 다시 구이九二의 덕德을 밝힌 것이다.
[君子學以聚之]구이九二가 은미함을 따라 나아가서 아직 인군人君의 지위에 있지 않다.
그러므로 우선 익히고 배워서 그 덕德을 쌓는 것이다.
[問以辯之] 배움에 아직 끝마치지 못함이 있으면 다시 그 일을 자세히 물어서 의심스러운 것을 분별하고 결단하는 것이다.
너그러움으로써 거하며 인仁으로써 행하니, 《주역周易》에 ‘나타난 용龍이 밭에 있으니 대인大人을 만나봄이 이롭다.’ 하였으니, 인군人君의 덕德이다.
疏
정의왈正義曰:[寬以居之] 마땅히 너그럽고 넉넉한 도道를 사용하여 그 지위에 거처하는 것이다.
[仁以行之]인仁하고 은혜로운 마음으로 행하여 남에게 입혀주는 것이다.
[易曰見龍在田 利見大人 君德] 이미 그 덕德을 위에 서술하고, 그런 뒤에 《역易》의 본문을 인용하여 맺은 것이다.
《주역周易》에서 말한 인군人君의 덕德은 ‘너그러움으로써 거처함’과 ‘인仁으로써 행함’이 이것이다.
다만 인군人君의 덕德을 소유했을 뿐이요 아직 인군人君의 지위는 아니다.
구삼九三은 거듭 강剛하고 중中하지 못하여 위로 하늘에 있지 않으며 아래로 밭에 있지 않다.
그러므로 힘쓰고 힘써서 그 때를 따라 두려워하면 비록 위태로우나 허물이 없을 것이다.
疏
○정의왈正義曰:이는 구삼九三의 효사爻辭를 밝힌 것이다.
위의 초구初九와 구이九二는 모두 미리 그 덕德을 위에서 서술하고 첫머리에 초구初九와 구이九二를 말하지 않았고,
이 구삼九三과 구사九四는 첫머리에 먼저 구삼九三과 구사九四를 말하였으며, 구오九五는 전혀 《주역周易》의 글을 인용하지 않았고,
상구上九는 첫머리에 “항亢이란 말은”이라 하여, 위아래가 준례準例가 되지 않는 것은,
부자夫子의 뜻이 경문經文을 해석하는 데 있어서 의리상 편하면 말씀하였기 때문이다.
잠潛과 견見은 모름지기 처음을 말해야 하므로 위에 장본張本을 미리 말하였고, 삼효三爻와 사효四爻는 모두 ‘거듭 강剛하고 중中하지 못하다.[重剛不中]’라고 말하여 그 뜻이 똑같을까 염려되므로 모두 먼저 효爻의 자리가 모두 거듭 강剛하고 중中하지 못한 일을 말한 것이다.
구오九五는 앞장에 이미 갖추어져 있으므로 다시 《주역周易》의 글을 인용하지 않고 다만 대인大人이라고 말하였고, 상구上九 또한 앞장에 자세히 드러냈으므로 여기서는 곧바로 “항亢이란 말은”이라고 말한 것이다.
살펴보건대, 초구初九에 “잠潛이란 말은[潛之爲言]”이라고 하고 상효上爻에 “항亢이란 말은[亢之爲言]”이라고 하여 두 효爻에만 ‘언言’을 말한 것은,
저씨褚氏가 “초효初爻와 상효上爻는 지위가 없는 자리에 있으므로 ‘언言’을 칭한 것이요, 나머지 네 효爻는 지위가 있기 때문에 ‘언言’을 말하지 않은 것이다.” 하니, 의리상 혹 옳을 듯하다.
[重剛] 위아래가 모두 양陽이므로 거듭 강剛한 것이다.
[不中]이효二爻와 오효五爻의 지위에 있지 않으므로 중中하지 않은 것이다.
[上不在天]오효五爻의 자리가 아님을 말한 것이다.
[下不在田]이효二爻의 자리가 아님을 말한 것이다.
[故乾乾因其時而惕 雖危无咎矣] 위태로운 자리에 거하지만 부지런히 힘써서 저녁까지도 두려워하여 경계하고 두려워함을 그치지 않아서 허물이 없을 수 있는 것이다.
구사九四는 거듭 강剛하고 중中하지 못하여 위로 하늘에 있지 않으며 아래로 밭에 있지 않으며 가운데로 사람에 있지 않다.
그러므로 혹或이라고 하였으니, 혹或이라는 것은 의심하는 것이다.
疏
○정의왈正義曰:이는 구사九四의 효사爻辭를 밝힌 것이다.
[重剛不中 上不在天 下不在田] 모두 구삼효九三爻와 같다.
[中不在人]삼효三爻와 사효四爻는 모두 인도人道가 되지만, 다만 인도人道 중에 사람은 아래로 땅에 가깝고 위로 하늘과 멀다.
그런데 구삼九三이 이효二爻와 가까우니, 이는 아래로 땅에 가까운 것이어서 바로 인도人道이므로 구삼九三에서는 ‘중부재인中不在人’이라고 말하지 않은 것이다.
구사九四는 위로는 하늘에 가깝고 아래로는 땅과 멀어서 사람이 처하는 바가 아니므로 특별히 ‘중부재인中不在人’이라고 말한 것이다.
[故或之] 오르고 내림에 일정함이 없기 때문에 마음에 의혹하는 것이다.
[或之者 疑之也] 이는 부자夫子가 경문經文의 혹자或字를 해석한 것이다.
경문經文에 ‘혹或’을 칭한 것은 바로 의혹하는 말이니, 나아가고자 하고 물러가고자 하여 유예猶豫하여 결정하지 못하므로 의심한 것이다.
구삼九三은 가운데로 비록 사람에게 있으나 다만 지위가 낮고 아래와 가까워서 위를 향하기가 어려우므로 위태롭게 여기고 조심하여 그 근심이 깊은 것이요, 구사九四는 양陽의 덕德이 점점 성盛하고 오효五爻와의 거리가 점점 가까워져서 앞으로 나아가는 것이 다소 쉬우므로 다만 의혹한 것이니 근심이 얕은 것이다.
대인大人이란 자는 천지天地와 그 덕德이 합하며 일월日月과 그 밝음이 합하며 사시四時와 그 차례가 합하며 귀신鬼神과 그 길흉吉凶이 합한다.
하늘보다 먼저 하면 하늘이 어기지 않고 하늘보다 뒤에 하여 천시天時를 받드나니, 하늘도 어기지 않는데 하물며 사람에 있어서며, 하물며 귀신에 있어서랴.
疏
○정의왈正義曰:이는 구오九五의 효사爻辭를 밝힌 것이다.
다만 위의 절節은 대인大人이 만물과 서로 감동함을 밝혔고, 여기에서는 대인大人의 덕德이 부합하지 않는 바가 없음을 논하여 합하는 바의 일을 널리 말하였다.
[與天地合其德]장씨莊氏가 이르기를 “하늘이 덮어주고 땅이 실어줌을 말한 것이다.” 하였다.
[與四時合其序] 봄과 여름에 상賞을 내리고 가을과 겨울에 형벌하는 것과 같은 따위이다.
[與鬼神合其吉凶]선善한 자에게 복福을 내리고 악惡한 자에게 화禍를 내리는 것과 같은 것이다.
[先天而天弗違]천시天時의 앞에서 일을 행하면 하늘이 마침내 뒤에 있으면서 어기지 않는 것과 같으니, 이는 하늘이 대인大人에게 합하는 것이다.
[後天而奉天時]천시天時의 뒤에서 일을 행하여 능히 상천上天을 받들어 순종하는 것과 같으니, 이는 대인大人이 하늘에 합하는 것이다.
[天且弗違 而況於人乎 況於鬼神乎]부자夫子가 ‘천차불위天且弗違’라는 말씀으로써 마침내 대인大人의 덕德을 밝힌 것이니, ‘높고 먼 하늘도 오히려 어기지 않는데 하물며 작고 가까운 것이 어찌 어길 수 있겠는가.
하물며 사람에 있어서며, 하물며 귀신에 있어서랴.’라고 말씀한 것이다.
항亢이라는 말은 나아감만 알고 물러갈 줄을 알지 못하며, 보존함만 알고 망할 줄을 알지 못하며, 얻음만 알고 잃을 줄을 알지 못하는 것이니, 오직 성인聖人이라야 진퇴進退와 존망存亡을 알 것이요, 그 바름을 잃지 않는 자는 오직 성인聖人일 것이다.
疏
○정의왈正義曰:이는 상구上九의 뜻을 밝힌 것이다.
[知進而不知退 知存而不知亡 知得而不知喪] 이 상구上九가 항극亢極하여 뉘우침이 있는 까닭은 바로 이 세 가지 일을 가지고 있기 때문임을 말한 것이다.
만약 세 가지 일을 자세히 안다면 비록 높은 지위에 거하더라도 항극亢極에 이르지 않을 것이니, 이는 경계하는 말을 베푼 것이다.
장씨莊氏가 이르기를 “진퇴進退는 마음을 가지고 말한 것이요, 존망存亡은 몸을 가지고 말한 것이요, 득상得喪은 자리를 가지고 말한 것이다.” 하였다.
[其唯聖人乎 知進退存亡] 오직 성인聖人이라야 진퇴進退와 존망存亡을 앎을 말한 것이다.
득상得喪은 존망存亡보다 가벼우니, 무거운 것을 거론하여 가벼운 것을 생략한 것이다.
[而不失其正者 其唯聖人乎]성인聖人은 다만 진퇴進退와 존망存亡을 알 뿐만이 아니요 또 그 정도正道를 잃지 않으니, 그런 사람은 오직 성인聖人일 것이다.
이 경經에 ‘기유성인호其唯聖人乎’라고 두 번 말한 것은, 위에서 말한 성인聖人은 진퇴進退와 존망存亡을 알기 때문에 글을 쓴 것이고, 아래에 ‘기유성인호其唯聖人乎’라고 말한 것은 그 바름을 잃지 않기 때문에 글을 쓴 것이니,
성인聖人은 다만 진퇴進退와 존망存亡을 알 뿐만이 아니요 또 그 바름을 잃지 않음을 말한 것이다.
그러므로 두 번 성인聖人이라는 글을 쓴 것이다.